Rebel Say a Prayer



 夢から目覚めて、そうして、最初に確かめたのは、膝の、機械の感触だった。
 足を曲げ、腕を伸ばし、足裏にある、ジェットの噴射口の存在を、指先に確かめる。
 ある、とそう思って、安堵と失望が、わずかにずれて、胸の内側を襲った。
 まるで、そこに痛みがあるように、掌を当て、それから、そこにあるのも、機械なのだと、自虐気味に思う。
 「どうした?」
 いつも眠りの浅い、わずかな動きにも眠りを遮られてしまう、隣りの男が、闇の中に青白く浮く瞳で、こちらに呼びかけた。
 そちらに顔を振り向けて、ジェットは、笑おうとして、うまく笑えず、口元を歪めた。


 母親がいた。あの家は、昔、子どもの頃住んでいた、アパートメントだった。古いビルディングの、部屋がふたつ、小さなキッチンとリビングのある、狭いアパートメント。
 次の家はもう、ひとり暮らしの、もっと小さなアパートメントだった。
 夢に見る時にはいつも、あの、母親と暮らしたアパートメントが登場する。
 そこが、ジェットの中では、家なのかも---いまだに---しれない。
 ジェットはもう、大人なのに、母親はあの頃のままで、それなのに、彼女は何も不審な顔もせず、ジェットに、
 「起きたら、一緒に出掛けようね。」
 ひどく稚ない英語で言った。
 そのままベッドにもぐり込んでしまい、ジェットは、他にすることもなく、ベッドの傍で、眠る彼女を見守った。
 母さん。
 何度も、小さな声でささやいて、その、ストロベリーブロンドの髪を、こわごわと撫でた。


 起き出す前に、戻ってくればいいんだ。
 いきなり、そんなことを思った。
 静かな部屋の中は退屈で、こうして、眠る母親---自分と、そう歳の変わらない、若い女---を見守っていると、自然に息苦しくなってくる。
 どこへ行くつもりなのか、どうしてか、もう決まっていて、目の前には、その、行くべき場所が浮かんでくる。
 大きな街の、にぎやかな辺り。新しい、背の高い建物が並び、小奇麗な人並みが、あふれて、さざめいている。
 急いでゆけば、そこへ行って、母親が目覚める前に戻って来れるだろうと、そう思った。
 どうして、そんなところへ行かなければならないのか、わからなかった。けれど、そこへ、行きたかった。
 母親の髪にキスを残して、静かに、足音を消して部屋を出る。
 アパートメントのドアを開けて、それから、勢いよく階段を駆け下りた。


 街は、午後遅くの光にあふれて、人たちは、ゆるゆると、影絵のように、立体感なく動いている。
 その間を、ジェットは、ひどく生き生きとした実体の自分を感じながら、走り抜けて行った。
 現実味のないその世界で、自分だけが、現実感にあふれ、奇妙に、生き生きとしている。
 それに、かすかな違和感を感じながら、それでも、足は止まらなかった。
 引き寄せられるように、その場所へ、一体、それがどこなのか、知りもしないはずなのに、そこでジェットは、その場所を、確実に知っていた。
 たどり着いたら、くるりときびすを返して、引き返して来るだけの、その場所。
 それなのに、そこに行かなくてはならないのだと、ジェットは思った。
 早く、早く。
 眠っている母親が、目を覚ましてしまう前に。


 いきなり、目の前に、幅の広い河が横たわった。
 水は澄んで、きらきらと輝いて、冷たそうに見えた。
 見回す周囲に、橋はない。けれど、渡らなければ、先へは進めない。
 母親が、目を覚ます前に。
 行って、戻って来なければ。
 母親の、悲しいほど稚ない寝顔が、目の前に浮かんだ。
 ああ、そうだ。
 飛べばいいんだ。
 思ってから、思わず微笑んで、ジェットが、いつものように、飛び上がるために、両膝を、ゆるく曲げた。


 大きな水しぶきが上がり、ひねった体は、背中から水に落ちた。
 思った通り冷たい水だったけれど、泳げないわけではなく、手足をばたつかせて、ジェットは、必死で、対岸の方へ進んで行った。
 落ちた時に、飲み込んだ水が、喉の奥に絡んで、少し苦しかった。
 どうして飛べないんだ。
 泳ぎながら、近くなってくる対岸を見つめながら、ジェットは思った。
 河を、ジェットで飛んで越えようとして、飛べなかった。
 どうしたんだろう。
 目の前に迫った対岸に、人影が現れる。
 黒い人影は、白っぽい髪に、青白い瞳で、ゆらりとそこに立っていた。
 自分に向かって伸びた手に、必死でしがみつく。
 水から引き上げられ、濡れた体を抱き寄せられ、ジェットは、何も考えずに、その人影に抱きついた。
 「大丈夫か。」
 低く、深い声が言った。
 自分を抱く腕が、金属の感触であることに気づいて、ジェットは、軽く驚いて、顔を上げる。
 ハインリヒ。
 名前を呼ぼうとして、自分が一体誰なのか、わからなくなった。
 回った腕を追って、確かめた掌は、確かに鉛色に剥き出しで、間違いない、ハインリヒだ、そう思ってから、自分の名前が思い出せなくなる。
 濡れた体が、冷たい。
 見つめ合って、ハインリヒが、何事もないように、言った。
 「ああ、そうか、おまえは人間だったな。」
 何のことかわからないまま、その声に含まれる、憐れみの響きだけは、きちんと聞き取っていた。
 母親が、目を覚まして、自分を探しているのを、どうしてだか、知っていた。


 起き上がったハインリヒに、ジェットは、しがみついた。
 肩に額を乗せ、機械の部分が剥き出しの、もう一方の肩を、掌で撫でた。
 確かに、これは数時間前に、抱き合った体だと、そう思って、安堵のため息を、こっそりとこぼす。
 大した夢ではない。けれど、あまりにもリアルで、どうしてか、後味の悪い夢だった。
 ここには現実があって、ジェットは、間違いなく、ここに実体を持って、存在している。
 そしてジェットは、人間ではない。
 「時々、意味もなく、不安になる。」
 何の前触れもなく滑り落としてみた言葉を、ハインリヒが、受け止めた気配があった。
 背中に回った手が、人工の背骨の形を、なぞって行った。
 「・・・ああ、そうだな。」
 ハインリヒの肩の上で、ゆるゆると目を閉じる。
 夢の名残りを反芻して、意味を探ろうとするのは、無駄なことだとわかっているのに、知りたくもない自分の意識の底を、ジェットはちらりとのぞき込もうとした
 深い、底のないその穴の縁で、ジェットは、そこにたたずむ自分の背中の孤独の重さに、ふと、寒気を覚えた。
 淋しいと、自分が認められなくて、悪気はなく、相手の肩に、背負わせてしまいたい時がある。
 卑怯者だと、自分を罵ってから、ジェットは、また口を開いた。
 「アンタ・・・淋しいヤツだな。」
 ふっと、ハインリヒの肩が、硬張った気がしたけれど、ジェットは、それ以上言葉を継ぐことはしなかった。
 それきり黙ったまま、ジェットは動かず、ハインリヒも、背中に回した腕を、外そうとはしない。
 言ってしまったことの言い訳を、いつ、どうやってしようかと、ジェットが後悔し始めた頃、ハインリヒが、静かに言った。
 「・・・だから、おまえと一緒にいる。」
 言葉を受け取るのに、一瞬かかった。
 ハインリヒの掌が、背中で、ゆっくりと動いた。
 息を吸い込んで、ハインリヒの肩に、また額をすりつけて、じわりと涙がにじむ。ジェットは、泣き笑いに、頬をゆがめた。


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