Runaway
伸ばしかけて、腕が止まる。
目の前にいる、愛しいはずの誰かの、自分のそれよりはいくぶんきゃしゃな肩に、触れようとして、やめた。
代わりに、黒々としたその影を踏みつける。こっそりと、わからないように。
そうしてから、いつもの、自嘲気味の笑みを、口元に刷いた。
少年の姿で、笑う。永遠に変わらないその姿で、いつも笑っている。
いつの頃からなのだろう、その笑顔に魅かれ、そして、それを疎ましく思い始めたのは。
相反するふたつの感情。けれどそれは、まるでコインの裏と表のように、同時に、矛盾なく、お互いを必要として存在している。
熱っぽい瞳で、俺を誘う。
他の誰も求められない俺たちは、まるで、この世で絶滅寸前の、儚い生物のようだ。
だから、互いを求める。
明日、殺されるかもしれないから、忘れるために、躯を繋ぐ。
生き延びた先にあるのは、一体何なのか。
自由と未来だと、ヤツは言った。屈託もなく。
その無邪気さを、憎んだ。妬みながら、憎んだ。深く、暗く。
ヤツは空を飛ぶ。軽々と。
俺は、破壊のための重い体を、ひとりここで持て余す。
殺されることを恐れ、今は、破壊することを恐れている。
そして、ひっそりと、死ぬことを、恐れてもいる。
ひとりで死ぬことを、恐れている。
誰かのぬくもりに、また触れてしまったから。
たとえそれが、偽もののぬくもりでも、機械にかぶせられた、人工の皮膚の暖かみだとしても。
躯の奥深くを、手探りで確かめ合う。不器用に、戸惑いながら。
偽ものの粘膜と偽ものの体液。こすり合わせ、絡め合わせながら、見た目だけは以前と変わらない。
たとえ機械の体でも、こんなことは可能ななのだと、それがたまらなく悲しかった。
愛と呼べる感情は、もう擦り切れてしまった。
本物の肉体とともに、滅びてしまった。
だから。
これは愛なのではないと、必死で叫ぶ自分がいる。
失うかもしれない愛にすがるのが恐ろしく、失うことへの絶望が恐ろしく、もう、誰も愛したくないと、叫んでいる。
躯を重ねることはたやすい。
欲情さえ必要ない。
生身の思い出をかき集めて、そこにひたればいいだけの話だ。
けれど少しずつ、愛しい人の面影は、薄れていった。
機械の躯を抱きしめながら、少しずつ、生身の痛みは薄れていった。
ジェット。
いつからだろう。おまえが愛しくなったのは。
この世にふたりきりしか存在しないように、そんな風に、おまえに魅かれていった。
そして俺は、おまえが憎い。
生身に見える体。屈託のない笑顔。自由の中で育った人間だけが、持つことを許される、傲慢さ。
無邪気に俺に触れる。自分が、何をしているのかも知らずに。
触れるたび、増す愛しさと、同じ量の憎しみ。
壊してしまいたいと、ふと思う。
生身の人間だけに許される、夢を見ること、希望を持つこと、未来を信じること、それを、おまえはまだ、信じている。
まるで、おまえ自身が、いまだ生身であるかのように。
そんなおまえを、壊してしまいたいと、ふと思う。
おまえは、俺の醜さを曝け出す。まるで、鏡のように。
生身でなくなった俺の、それ故の汚さを、おまえは、そうと知らずに俺に見せる。
俺は、おまえが憎い。
俺はただの機械だ。機械に、心はいらない。
愛は必要ない。
けれどおまえは、それを求めている。
まるで、当然のことのように。
失った思い出の代わりに、おまえが、俺の中に入り込んできた。
夢や希望や未来や自由や、失った、あるいは最初から持ってさえいなかったものの代わりに俺が得たのは、おまえだった。
俺は、おまえを失うのが怖い。
長く引き伸ばされた、こんな体で生き延びなければならないという苦痛の中で、けれどひとりではなく、おまえがいるという救いがある。
ひとりで苦しむ必要はないのだと、思う。
けれど、安堵という感情に程遠いのは、この憎しみのせいだ。
おまえの背中に、時々天使の羽を見るのは、おまえが空を飛ぶせいなのだろうか。
死神と天使、冗談にもならない組み合わせなのに。
つまらないその冗談を、俺はうっそりと、独りで嗤う。
白い大きな羽をひきちぎる幻想も、きっと悪い冗談だ。流れるはずのない鮮血が、おまえの背中を染めている。
俺はおまえを憎んでいる。
こんなに近く躯を寄せて、抱き合う。膚をこすり合わせて、熱を分け合う。
重なる喘ぎと、湿った唇。互いの中に沈み込んで、切り取った時間と空間の中で、疎ましい過去を忘れようとする。
おまえの体の重み。確かに存在する、夢ではないもの。
憎しみと愛しさの対象。失いたくないもの。
ジェット。
「アルベルト・・・。」
潤んだ声で、ジェットが、唇を寄せてきた。
接吻とともに、ジェットの両腕が、背中に回る。
抱き返すつもりで伸ばした腕が、ふと宙で迷う。
両の掌を、ジェットの首に添えようかと、一瞬思って、それから、喉の奥で微かに嗤った。
「なんだよ・・・?」
唇を外して、ジェットが怪訝な表情をする。
「いや、別に・・・。」
その首を絞める幻想を、片隅に追いやって、アルベルトは、ジェットの背中を抱きしめた。
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