Savage Blue



 裏庭に出て、20歩ほどゆくと、断崖に出る。
 そこへ、いちばん端まで行って、下を覗き込めば、岩壁に叩きつけられて、白く砕ける波が見える。
 そうやって、長い長い間、波に撫でられ続けている岩壁は、そのたび少しずつ削られ、小さな石に変わり、あるいは砂になり、その姿を変えている。えぐられて、いずれ長い年月の後には、この断崖も、存在しなくなるのかもしれない。
 それを、もしかすれば、足元に見下ろしながら、一緒に生きてゆけるのかもしれないと、先へ横たわる、不自然に永らえられた、普通ではない人生を、思った。
 取り出した煙草をくわえ、掌に重い、ジッポのライターで火をつける。
 傷だらけになり、すっかりくすんでしまった、色の鈍い金色のライターは、その、尋常ではない、鉛色の掌に、しっくりと、馴染んでいる。
 ライターの表面と同じ感触の、掌。
 少し強く握れば、かちりと、触れ合って、音を立てる。
 この手には、切り裂かれる皮膚も、そこから破れ、血を流す血管も、触れれば柔らかな筋肉も、握りしめたいと、思わせる体温も、ない。
 手だけではない。体のどこも、生身には、見えない。
 生身では、ないから。
 指先に煙草をはさみ、煙を吐き出す。
 今も、生身の頃と同じように、煙を吸い、吐き出し、それをうまいと思う自分を、時折、嘲るように、笑ってみたくなる。
 全身に、まるで限界に挑戦するかのように、積み込まれ、詰め込まれた、武器の数々。銃やナイフに始まり、どこに内蔵してあるのか、正確には知らされていないけれど、核爆弾を、抱え込んでもいる。
 物騒なやつだな。
 自分を、嗤う。
 人を巻き添えにせずに、死ぬことすら、できない。
 できるのは、己れの能力を最大限に使って、速やかな破壊をもたらすことだけだった。
 最前線で、自分の体を使って、攻撃をするために改造された、戦闘用のサイボーグの体は、自分で見下ろせば、吐き気がするほど人の形そのままに、グロテスクな外見は、その代わり、生身らしさのかけらも、残っていない。
 手足もある、指もそろって、けれどそこには、爪がない。人工皮膚をかぶせていない全身は、あちこちに、金属の装甲が剥き出しのままで、たとえば、つるりとした胸には、肋骨の感触はなく、腹に触れれば、そこにはあるべき起伏がない。
 まるで、ロボットじゃないかと、初めて自分の、改造された体を見た時に、こみ上げる吐き気を、止めることができなかった。
 人間らしい暖かさや、柔らかさや、丸みが、すっかりこそぎ取られ、残されていたのは、人の形の輪郭と、見慣れた、己れの顔だけだった。
 それでも、そのまま、改造された瞬間から、老いることをしなくなった、人形のような体は、あの日、鏡の中に確かめた姿のまま、寸分の変化もない。
 煙草をはさんだままの指の腹で、そっと、頬を撫でた。
 ほんものらしい感触の、その人工皮膚も、破れれば、現れるのは、合金の表面に違いなく、もっと中を覗けば、複雑に絡み合ったワイヤーや、さまざまな回路や、そんなものが埋め込まれているに、違いなかった。
 煙草を、断崖の下に投げ捨て、5分ほど、海の方を眺めてから、また、次に煙草に火をつけた。
 漂う煙越しに、目の前の、海を見る。
 真っ青な空に、厚い雲が流れ、そこから、すとんと視線を落とせば、きらきらと光る、空の青よりはいくぶん濃い、海の碧へと続いてゆく。
 きれいだと思ってから、その、永遠に変わらない色を、生身を奪われて、半機械の体で生き永らえる破目になった、自分と、ふと重ね合わせる。
 いつ終わるともしれない、強制された生を生きながら、常に目の前には、この色がいる。時間によって、色を変えながら、けれど、空は青いまま、海も碧いまま、そこに、いる。
 その、どちらの永遠の色にもそぐわない、死神と呼ばれる、自分の、右の掌を、見下ろした。
 血を流すことのない、その手は、人の血に血塗られている。死と破壊を、音もなく運んでくる、死神。死神の黒装束は、目の前の、空の青と海の碧とは、おそらく、天国と地獄ほどの開きがある。
 そこに溶け込むことのない、深い闇の色を思って、色の薄い眉を寄せた。
 じじっと、煙草の燃える音を聞きながら、さて、そろそろギルモア邸の中へ戻ろうかと、そう思った時に、音が聞こえた。
 音のした方へ視線を投げると、小さな点が、しろい煙を吐きながら、こちらへやって来る。みるみるうちに、点は人の形になり、それから、赤い影になった。
 ------昼間から、空を飛ぶなと、何度言われたらわかるんだ。
 こちらに向かって、降りてくる人影に向かって、脳内の通信装置で話しかける。
 ------空が、すげえきれいなんだぜ。
 答えになっていない返事が、うきうきとした口調で返ってきた。
 舌打ちをしようとして、代わりに、薄い笑みが、口元に浮かぶ。
 ジェットが、体の向きを変え、ゆっくりと、足を地上に向けて、ハインリヒのすぐ傍へ、ゆっくりと降りてくる。
 ジェットの噴射の音が、少しずつ小さくなって、そうして、地上に降り立てば、そこらを歩く生身の人間と、なんら変わるところのない、ひょろりとした長身が、長い足を持て余すように、ハインリヒの目の前に、やってくる。
 背中から、太陽の光が当たり、きらきらと、光って見えた。
 その光が、白くジェットの輪郭を縁取って、ふと、白い羽が、そこにあるように、見えた。
 それに向かって目を細め、消そうと思っていた煙草が、じじっと、指の間で燃え続ける。ほとんど、火に触れそうになっているのにも気づかず、ハインリヒは、光る羽を背負ったジェットの姿に、静かに見惚れていた。
 「なんだよ?」
 ハインリヒの、自分に当てられたまま、動かない視線に、ジェットが、笑う。
 天使が、と、ジェットに向かって、唇だけを動かした。
 鳥のように、空を飛ぶ。
 同じように、改造された、半機械の体で、ジェットは、空を飛ぶ。
 その背に、架空の、白い羽が見えた。
 煙草を、やっと足元に落とし、ジェットからすいと視線を反らして、靴の先で、踏みつぶした。
 うつむいた頬が赤いのを、ジェットに見咎められないように、わざと丁寧に、煙草の火を踏み消す。
 「中に入ろうぜ。」
 ギルモア邸の方へ向かって、歩き出そうとするジェットの肩を、ふと、右腕を伸ばして、つかんだ。
 振り向いた横顔は、まだずいぶんと若く、真っ赤な髪の色に合わせて---とは言え、もちろん改造されたわけではなく、自前の色には違いない---、瞳は淡い緑色で、その瞳が、怪訝そうに、ハインリヒに向かって揺れた。
 自分の後ろで、ばさりと、黒い翼が、はためいた音がした。
 「もう少し、ここにいてくれ。」
 ジェットが素直に肩を回し、ハインリヒの隣りへやって来る。
 並んだ、自分より少し高い位置にある、その骨張った肩を、両腕を伸ばして、抱き寄せた。
 首筋に、頬を、すりつけるほど近く寄せて、耳元で、深く息を吸い込んだ。
 「・・・・・・空の匂いが、するな。」
 吸い込めば、自分の中を満たして、それから、真空にしてくれそうな、そんな、空の匂いがした、ような気がした。
 ジェットが、くつくつ笑ったのが、抱きしめた肩を揺らす。ジェットの長い腕が、それから、大きく背中に回った。
 「ああ、すげえきれいな空だぜ。」
 白い羽が、ひるがえり、さわさわと、音を立てた。
 その羽が、ゆっくりと、抱き合ったふたりの体を、包んでゆく。
 固く冷たい背中にはためく、黒い翼が、閉じられて、その、白い羽の下に、包んで隠された。
 天使だと、また、つぶやいた。
 暖かな白い羽にくるまれ、空を飛ぶ夢を見る。
 ジェットの両手が、背中を、ゆっくりと撫でていた。


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