Time Stood Still



 届いたのは、絵葉書だった。
 ドイツのどこか。写真に印刷されたドイツ語は、オレにはわからない。
 少しぎこちない英語で、素っ気なく、元気かとだけ書いてある。結びの文は、"また会おう"。
 誰もがそう記す、意味のない文章。
 それでも、アンタが書いた文字だと思えば、粗末にする気もない。
 オレはほとんど文盲に近く、頭に埋め込まれた翻訳機のおかげで、今は辛うじて、そうだとは気づかれずにいる。
 でなきゃ、アンタと話もできない。
 アンタと来たら、ドイツ人のくせに、オレのしゃべる英語をいちいち直して、文法がおかしいだの、発音が変だの、最初はなんてうるさいヤツだって、そう思ったよ。
 今は、そんなアンタが恋しい。


 葉書を、写真立てのそばに置いた。
 散らかってはいるけれど、殺風景なこの部屋で、唯一装飾らしい、銀色の写真立て。アンタの写真を飾るために、オレが選んだ、それ。
 なんの変哲もない写真。でも、アンタが笑ってる。
 椅子を運んで、写真の前に坐った。
 時間の中に閉じ込められた、四角い、切り取られた空間の中のアンタを、オレは飽きずに眺める。
 時には、ただ、何時間も。
 アンタの、そこにとどめられた笑顔を、何度も自分の中で反芻する。
 繰り返し繰り返し、まるで、オレも、アンタと一緒に、その写真の中に存在するかのように。
 時間はそうやって、オレのそばを通りすぎてゆく。
 椅子の背に、腕を組み、その上にあごを乗せ、オレはうっとりと、アンタを眺める。
 時にはお茶でも飲みながら、時には煙草をくゆらしながら。


 アンタはまだ、あの、味も匂いもクセのある、ドイツ煙草を吸ってるんだろうか。
 ヘンな匂いだな。
 そう言ったオレを、ガキにはわからんさと、アンタは鼻で笑った。
 髪にも服にも染みついた、あの匂い。
 指先からは硝煙の匂い。
 オレの皮膚に、染みついてたこともあった。
 今はすっかり、そんな記憶も薄れているけれど。


 オレはあれから、ひとりぼっちでいる。
 別に、誰かといたいわけでもなく、誰かに恋することもなく、こうして、アンタの写真を後生大事に抱えて、ひとりぼっちでいる。
 アンタのせいじゃない。ただオレが、アンタのことしか、考えられないだけだ。
 写真を眺めて、ふと気がつくと、部屋が暗い。
 外はもう薄闇で、窓には明かりがともり始めている。
 静かに通りすぎてしまった時間の量に、思わずため息をこぼして、オレは椅子から立ち上がる。
 写真のアンタは、変わらない笑顔を向けたまま、もしかして、こんなオレを笑ってるんだろうか。


 アンタが使ってた、ジッポのライター。
 金色の、もう角がすっかり丸くなった、傷だらけのライター。
 アンタの、鉛色の掌に、奇妙にしっくりと馴染んでいた、あのライター。
 オイルの、甘いにおい。上がる炎は、大きくむらさき色だった。
 差し出すアンタの手に、わざと触れた。
 火を借りる、ふりをして。
 煙草を吸いながら、意味もなく微笑みあう。
 その次に触れたのは、唇だった。


 新しいジッポは、好きじゃない。
 愛用してる連中は、古いライターを手放さない。
 だからオレは、マッチを使う。
 しゅっと音を立てて、炎を上げる、小さな木片。両手で火をかばいながら、オレはアンタのことを思い出す。
 アンタのジッポを思い出しながら、あの、甘いオイルのにおいを胸いっぱいに吸い込みたいと、思う。
 アンタは今、どこにいるんだろう。


 オレが火を差し出したら、アンタは素直に、こちらに首を伸ばすんだろうか。
 アンタの唇に触れる煙草に、うっすらと嫉妬しながら、オレはきっと頬を赤らめる。
 アンタの、接吻の感触を思い出して。
 薄い唇。色も薄い、滅多と笑顔にかたちづくられることのない、アンタの唇。
 暖かな、湿った呼吸。
 シャツの上から触れた、アンタの右腕。
 背中に回って、オレの体をしめつけた。


 葉書を取り上げて、また、並んだ字を眺める。
 眺めるうちに、何か別のものでも見えてくると、思わずにはいられない。
 そんなことはありえないとわかっていて、それでも、読み返さずにはいられない。
 アンタが書いた、文字だから。


 ふと、視線がすべった。
 何かが見えた気がして、また視線を戻す。
 どことは、的確には言えず、けれど、葉書の上の、どこか。
 あて先の、下の辺り。小さな小さな文字。きれいに並んだ数字。
 書こうかどうしようか、散々迷って、書くことに決めれば、照れがまたためらいを呼び、結局、髪の毛の先ほどの小さな字で、アンタは電話番号を記していた。
 電話番号。
 アンタにつながる、数字の羅列。


 思わず、葉書を胸に抱いた。
 知らずに、微笑んでいた。
 また、アンタの笑顔にふりかえった。


 いつにしよう。
 ゆっくりと、時間を気にせずにすむ時にしよう。
 煙草と灰皿を用意して、アンタにつながったら、もう、立ち上がらなくてもすむように。
 アンタが電話にこたえたら、元気にしてるかと、それだけ訊こう。
 電話を切る前に、アンタは、また会おうと、言ってくれるだろうか。


 煙草を取り出して、いつものようにマッチをすった。
 炎を、数瞬見つめた後、息を吸い込む。
 アンタの、ジッポのオイルの、甘いにおいがしたような気がした。


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