When I See You Smile



 珍しく、躯を離してすぐに、ジェットが、ベッドを出て行った。
 いつもなら、ぐずぐずと、ハインリヒの髪を撫でたり、右腕に触れたりして、なかなか眠らせてはもらえないのに、今夜は、どういう風の吹き回しか、飛ぶようにベッドを出て行って、バスルームに姿を消した。
 シャワーを使う音が聞こえ始め、その音を聞きながら、ハインリヒは、ベッドに横たわったままで、煙草に火をつけた。
 どうしてか、すぐに眠ってしまう気にならず、闇の中に、白い煙を吐き出しながら、それの行方を視線で追って、睡魔の訪れを待つ。 
 しびれたように、まだ熱い体の内側で、外側だけが、ゆっくりと冷えてゆく。
 いつもなら、眠気を誘うはずのその、けだるいしびれが、今夜はやけに立って、ちくちくと神経を刺した。
 眠りに落ちるまで、傍にあるはずのジェットの体温がなく、ひとり、世界の終わりに取り残されたように感じた。
 ばかげていると、そう思って、吸い終わった煙草を、灰皿にもみ消す。
 ひとりで眠るのも、ふたりでベッドを分け合うのも、そう違いはないけれど、それでも、ふたりで寄り添って眠る夜は、どうしても浅い眠りの中で、神経のどこかが、覚めたままでいる。
 隣りで、ぐっすりと眠るジェットの寝顔を、ふと目覚めては何度も見て、ああ、ひとりではないのだと、思う。
 喜びでもなく、悲しみでもなく、憂鬱というわけでもなく、ただ、空が青いと、そう思う同じ感覚で、ひとりではないのだと、そう思う。
 ふたりでいれば、ひとりになりたいと思うくせに、こうして、ひとり取り残されれば、かすかな物足りなさが、胸の片隅をよぎる。
 自分勝手だと、そう思って、苦笑をもらした。
 ひとりのベッドで、手足を伸ばした。
 汗の湿りが、かすかに残るシーツは、もう、冷えていて、そこにジェットがいて、昼間にはない熱に、膚を薄く染めていたのだとは、もう思えない。
 子どものように、寝返りを打って、ジェットの使う枕に、頭を乗せた。
 バスルームから、水音が聞こえなくなり、姿を消した時と同じに、全裸のまま、ジェットが、ベッドに戻ってきた。
 遠目には、生身にしか見えない体の、どこを隠す気配もなく、ゆっくりと、こちらに歩いてくる。
 薄闇に、白く浮かぶ体は、石か木を削ったような、硬い線に縁取られて、そのくせ、その線に覆われた筋肉は、ひどくしなやかなことを、ハインリヒは知っている。
 視界に、そのひょろりとした全身をおさめて、ハインリヒは、目を細めて、動くジェットの体を見ていた。
 ベッドの手前で、ジェットは、体をかがめて、床からシャツを拾い上げた。
 肩に羽織り、袖を通すそれが、ジェットのものでないと気づくのに、どうしてか、数瞬かかった。
 長袖の、白いシャツ。ボタンを止めずに、袖を通しただけで、ジェットは、ぎしりとベッドに上がってきた。
 やわらかく、薄く笑う口元に、けれど、どうだと、少し得意気な色が浮かぶ。
 いいかと、訊きもせずに、ハインリヒのシャツを着て、得意になっている。その子どもっぽさを、いとしいと思いながら、ジェットにまとわりつく、自分のシャツを、眺めていた。
 這うような仕草で、ハインリヒの上に乗り、腰をまたいで、上からジェットが見下ろす。
 膚の上に、小さな水滴が、見える。
 シャツの前をかき合わせて、ジェットが、胸元に、鼻先を埋めた。
 目を閉じると、乱れて額にかかっている前髪の陰に、長いまつ毛が見えた。
 「アンタの匂いがする。」
 シャツの下から、少しくぐもった、ささやくような声が聞こえた。上目に自分を見るジェットを、まっすぐに見返して、まだ、ベッドに手足を伸ばしたまま、ハインリヒは、ジェットの枕に頭を乗せたままでいた。
 小さな声で、訊いた。
 「どんな匂いだ。」
 シャツから手を離し、顔を上げ、ジェットが、切なそうな表情を見せる。
 何か、頭の中の、実体のない思考を追い駆けているような、そんな気配が、目元に漂った。
 「アンタが吸ってる煙草と、アンタが使ってるコロンと、アンタの、機械の部分の匂い。」
 3つ目に、ぴくりと反応して、ハインリヒは、思わず枕から、ほんの少し頭を浮かせた。
 他の誰も、はばかって口にしないことを、ジェットはいつも、するりと口にする。
 それは、ジェットの稚なさゆえなのか、ジェットの強さゆえなのか、それとも、実のところ、ハインリヒよりも、もっと大人な部分が、そんな辛辣ささえ、無邪気にすり替えてしまうだけなのか。
 腹は立たない。傷つきもしない。ただ、ひどく敏感な部分に、不意に触れられたような、小さな驚きはある。
 じっと、ジェットを見返すと、もっと強い、こちらがひるみそうな、そんな視線で、見つめ返してくる。
 言葉を受け止めて、視線で返す。ジェットはじっと、ハインリヒの、心の底を、見つめてくる。
 ジェットの、真摯な視線の前に、ハインリヒはいつも、ガラス張りになってしまうだけだった。
 機械の匂い。硝煙の匂いか、潤滑液の匂いか、それとも、ほんとうに、金属の匂いなのか。
 ジェットの、生身そっくりの、濡れた舌が、右腕に触れ、味わうように、舐める。舌を刺す鉄の味を、ジェットは好きなのだろうかと、思った。
 生身らしさは、跡形もなく、体温すらまともに感じることのない体を、抱き寄せて、求める。
 熱を分け合う形に、足を開いて、その奥へ、ハインリヒを誘う。
 ジェットはいつも、熱い。まるで、生身そのままのように、熱と汗をハインリヒに与えながら、与えられて、注がれるために、ハインリヒと、躯を繋げる。
 ジェットの匂い、と、不意に思った。
 かすかな、車の機械油の匂い、汗の匂い。
 それから。
 それから。
 ジェットが、ゆっくりと、体を倒してきた。
 頬に、両手が触れる。
 唇が重なって、裸の胸も、重なった。
 ふわりと体を包む白いシャツから、何か、匂いが立ったような気がした。
 機械の匂い。それはハインリヒの匂いだ。
 ジェットの匂い、と、もう一度思う。
 指先ほどの距離で見つめ合って、ジェットが、くすりと笑う。
 「・・・アンタの匂い、つけてくれよ。」
 言いながら、額をすりつけてきた。
 睡魔はまだ、遠かった。
 上に乗ったジェットの腕を引き、静かに、自分の下に引き込んだ。
 互いに腕を回し、抱き合って、じゃれるように、胸をこすり合わせる。
 くすくすと、ジェットが耳元で笑う。
 ジェットがまとっているのは、高い空の、空気の匂いだ。
 薄く、冷たく、触れれば切れそうな、鋭い、空気の匂いだ。
 だから、ジェットの体は、熱い。
 いつもなら、背中を向けて寝てしまうのに、今夜は、ジェットを抱きしめたまま、眠りに落ちたいと思った。
 自分のシャツを着たジェットは、少しだけ、はかなげに見えた。
 抱きしめて、首筋に顔を埋めると、ジェットの言う、機械の匂いが、かすかにしたような気がした。
 空を飛ぶ夢を見たいと思って、ジェットを抱きしめたまま、眠るために目を閉じる。
 ジェットの匂いが、優しくふたりを包んでいた。

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