54の森・扉へ

- Countdown to RE009 -

54の森 Part2 - Countdown to RE009 -

REのDVD/BD発売を記念して、森メンバーがカウントダウン更新したログです。
5/14から5/22まで、54ネタでメンバーが交代で毎日作品投下。
最終日の22日は、メンバー全員が同日更新。

54の森メンバー (更新順、敬称略)
☆ sh
☆ SHIMA
☆ マリ
☆ みの字

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* sh

肌寒い朝だった。吐く息が曇るほどの冷気が、ガラス越しに伝わってくる。濡れた窓枠に色褪せた花びらが何枚かこびりついているのに気がついて、ハインリヒは中庭の桜の木に目をやった。
この時期は、春といっても名ばかりだ。やっと花が咲いてきても、瞬く間に散ってしまう。
昨日も一晩中、雨と風が吹き荒れた。

「今日は、ここに、いる」
――どこにも行きたく、ない。
珍しく、そんなことをジェロニモが口にした。
「どうした?具合でも悪いのか?」
途方に暮れてハインリヒは声をかけた。久しぶりに休みがとれたので、市内を案内してやろうと考えていたのだ。もう身支度もすませていた。
「具合、悪くない」
小さな声が、足元にぽつりと落ちてくる。
それきり、あとが続かない。
溜息をついて、ハインリヒはコートを脱いだ。靴音を響かせ寝室へと向かう。ドアを大きく開け放つと、中途半端な闇の中で、もぞ、と巨体が身じろぎした。まだ、ジェロニモが起きてさえいなかったことに軽い驚きを覚えながら、ハインリヒは枕元に腰掛けた。
「…やっぱり、人が集まる場所は嫌いか?」
おだやかに問いかける。
返事はない。

二、三日前、アパートの管理人から不愉快な電話があった。ハインリヒの部屋に泊まっている無口で大きな外国人のことを、同じ棟の住民たちが怖がっていると言うのだ。できるだけ抑えた口調で対応したつもりだが、勘の鋭いジェロニモのことだから、自分のことが話題になっていると気がついたのかもしれなかった。
ジェロニモの身長は軽く2メートルを超える。もっと北の方へ行けば背の高い人間も多いだろうが、ここベルリンでは生憎、そうでもない。赤土を混ぜたような肌の色も顔の刺青も、この界隈では異質なものだ。どんなに本人が目立ちたくないと思っていても、それは無理な相談だった。
強引に都会へ呼び寄せてしまったことへの後悔が、今になってハインリヒの胸を疼かせる。
あの時は、そうした方がいいと思った。見入りの少ない手間仕事にかまけている年下の恋人が不憫でならず、半ば強引に説得して手元に置いた。
けれども、今はどうだろう。
日ごとに生気をなくしていくジェロニモを見ながら、何もしてやることが出来ずにいる――。
「ジェロニモ…?」
そっと毛布を取りのけた。ジェロニモは腕組みをして、窮屈に壁の方を向いている。真っ白なランニングシャツの肩ひもが浅黒い皮膚に食い込んでいるのが、奇妙に痛々しく感じられて、黙ってハインリヒは革手袋を脱ぎ捨てると、金属の掌を差し伸べて剥き出しの肩の上に静かに置いた。低く、たくましい半身に覆いかぶさると、ざらついた素肌に頬を寄せる。ジェロニモの体からは、渇いた土と日なたの匂いがした。外で遊んできた子どものようだと思ったら、急に愛しさが込み上げてきて、無意識にハインリヒは呟いていた。
「何とか言ったらどうなんだ…」
その途端、思いがけない素早さでジェロニモの手が伸びてきた。
「ここで、一緒に、いよう」
ゆるく手首を掴まれ、視線が合った。
ひた、と吸いついてくるような眼差しが、一瞬でハインリヒの大人らしさを削ぎ落とす。
「お前がそう言うなら…」
振り払うことなど思いもよらない。ぬくぬくとした寝床の中へ引きずり込まれ、のしかかってきた体が熱い。耳の下に甘く歯をたてられて、思わず声をのまずにいられなかった。まるで冬眠あけの熊に襲われてでもいるようだと思いながら、次第に胸が高鳴ってくる。シャツの背中が突っ張ったが気にしなかった。靴は履いたままだし、ズボンもしわくちゃになってしまうだろうが、どうでもいい。
お前がそう言うのなら、一日中ベッドで過ごすことになってもかまわない。

ジェロニモの手が不埒に動き出し、ハインリヒの息が弾み出す。

外では、また雨が降り出していた。
今度は優しい、雨だった。

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その1 * SHIMA

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おれのもの54

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Schwarz * マリ

くろき、ぬばたま。

みどりの、黒髪。
ジェロニモの髪は、一本一本がしっかりと太く根を張り、しっとりと濡れた艶を放ち、どこまでもまっすぐに伸びていく。
「自分でやるから」と遠慮するのを許さずに、おぼつかない鋼の手で櫛を持って、梳いてやるのがこの頃の流行りだ。
ジェロニモを椅子に座らせ、ふだん見上げてばかりの、頭の後ろを見下ろすのは、わずかばかりの優越感と、胸の空(す)く爽快感とを伴う。
その下半分の、綺麗に地肌の顕(あら)われる所の手入れも、もちろん一連の手順のひとつだ。
冗談交じりに左手をかざして「剃ってやろうか?」と告げてみたら、一拍置いてうつむき加減に小さな声で、だがしっかりと「…頼む」と至極真面目な答えが返ってきたので、逆にうろたえてしまった。
かろうじて、面(おもて)には出さずに押さえ込む。
それでも、慣れない剃刀(カミソリ)よりは自前の方がまだ出来上がりの見栄えは良いかと、気を取り直して、ちらとシュミレーションを試みる。
口角がすい、と思わず上がったのを読み取ったのかどうか、ジェロニモが微笑んだのが伝わってきた。
聞こえない程度に咳払いをして、左手を構えたあと、直前で手首をひねって、つるつるした手のひらで、ジェロニモのうなじを下から撫で上げて、ざりざりした手ざわりを楽しんでいたら、頭がくすぐったそうに少しだけ傾(かし)いだので、なおさら手のひらを押し付けてやった。

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ばくんと心臓が跳ねる。 * みの字

 夕食のために、野菜や肉を煮込み始めようと、広くはない台所の片隅へ膝を折り、玉葱や人参を取り出そうとしたところだった。
 ごろりと転がった大きな玉葱を追い駆けて伸ばした指先に、片隅のさらに奥の薄暗がりの中で、何かが触れた。
 つるりと茶色い皮に包まれた、探している玉葱の感触ではなく、何かもっとざらりとした、ごつごつした、そのくせどこか柔らかな手触りだ。
 ジェロニモは手探りでそれを手元に引き寄せておいてから、改めて肝心の玉葱を探る。もう少し左手にそれは無事見つかって、膝の上にすでにある人参や他の玉葱と合流させた。
 もうひとつの、思いがけず見つけてしまった固まりの方は、細めた目の先へ、薄暗い床にころりと転がるそれは、芽の生えたじゃがいもだった。そうと気づいた瞬間に、心臓が跳ねた。
 これはきっと、ハインリヒが去る前の夜に使ったじゃがいもの、その残り──置き忘れ──に違いなかった。
 袋から転げ出て、気づかれずそこへ捨て置かれていたのか、あちこちへこみのある表面から、紫がかった白い芽が勢い良く何本も伸び、皮を剥いて火を通せば、それは元は生き物だったとは信じられない様になるくせに、こうして確かに命を繋いでいる姿は、間違いなくジェロニモたちと同じ、地上に生きるものだ。
 じゃがいもの毒素は馬鹿にはできない。この芽を全部取って、皮も相当ぶ厚く剥かなければならない。そんなことをしてしまえば、食べられる部分はほんのわずかになってしまうだろう。それは何だかひどいことのように思えた。
 ジェロニモは床にしゃがみ込んだまま、もう食べることのできないじゃがいもをじっと見つめている。
 あれからずっと、このじゃがいもは、この薄暗い片隅でひとつきり、じっと動かずに芽を吹かせていたのか。
 ハインリヒがやって来ると決まれば、その日までの数を数える。ハインリヒがやってくれば、一緒にいる日をまた数える。そうして別れが近づけば、出発の日までをこっそりと数えて、そして去った後では、ハインリヒがいなくなってしまった日を、飽きるまで数え続けるのだ。
 三月(みつき)も過ぎれば、さすがに日も曖昧になって来るけれど、それでも大体何日、何週間、何ヶ月と、そうやって数え続けずにはいられない。
 ハインリヒが去ってから何日目かと、ジェロニモは掌に芽を伸ばしたじゃがいもを見つめて、頭の中で思い出していた。
 この芽の大きさだけ、もう日が経ってしまった。あの夜、この台所で肩を並べて、一緒に買った他のじゃがいもの皮を剥き、少し小さく切って、そうやってふたりで一緒に食べる最後の夕食のための料理のための儀式を、このじゃがいもはまんまと逃れて、こうして命を伸ばして繋いで、今ジェロニモの前に再び現れて、まるでひとりになったジェロニモをからかうように、おまえの大事なあの男がここから姿を消してもうこんなに時間が経ってしまったんだぞと、誇らかな姿を見せている。
 命の猛々しさとしたたかさがよく分かる。このじゃがいもはもう人に食べられるためのそれではなく、何とか土へ戻って、その身を増やすための種芋だ。
 品種だけじゃなく、土と水が違うんだろうな。食料品店で野菜を選びながら、じゃがいもを手に取ってハインリヒが面白そうにつぶやいた。
 同じに見えて、ハインリヒの食べるドイツのそれとは違うのだと、あの右手──生身に見えるように、人工皮膚にきっちり包まれていた──に乗せて、重さを量るような手つきを見せる。
 食材の味よりも、一緒に食べる誰かがいるせいだろうがな。
 ジェロニモの方は見ずに、ハインリヒがぽつりと言った。ひとり言めいて、足下へ滑り落とすように、自分でそう声を発したのだと気づいていないような、そんなつぶやき方だった。
 ああ、きっとそうだろう。ジェロニモはまだじゃがいもを見下ろしたまま、夕食の準備のことを忘れて、そこから動かずにいる。
 あの時と同じじゃがいもを使って、同じように料理しても、きっと同じ味はしないだろう。ここにはハインリヒがいない。そしてハインリヒの元にも、ジェロニモはいない。
 じゃがいもを眺めていた右手に、ナイフを持って、刃が滑らないように指先を添えて、ハインリヒがじゃがいもの皮を剥く。ジェロニモはその隣りで、玉葱の皮を剥いていた。皮を剥かれて、白い身を剥き出しにする野菜たち。それにまた、ナイフの刃を入れて小さく切る。そうするために、なめらかに動く、生身ではないとは信じられないハインリヒの、あの右手。
 その手が触れる自分だった。首筋や髪や頬や肩や背中や、あるいはもっと別の場所へしきりに触れていた、ハインリヒの右手だった。
 こんなにももう、時間が経ってしまった。ひと時、同じ時間を過ごして、そうしてハインリヒは去ってゆく。このじゃがいもは、次にふたりが一緒に過ごせるようになる頃には地面いっぱいに根を張り、そしてきっとふたりでは食べ切れないほどに増えるだろう。
 ハインリヒといる自分と、ひとりきりの自分と、そうやってどこかで分断されているように思えるジェロニモの時間を、このじゃがいもは見事に繋いで見せている。
 もう食べられないのだからと、このじゃがいもをゴミ箱へ放り込んでしまうのは簡単だった。けれどそうすることはできず、ジェロニモは膝に抱えた玉葱や人参とそのじゃがいもを一緒にまとめて、それからようやく立ち上がった。
 夕食の準備をしよう。ひとりきりで食べるにせよ、目の前に座って、一緒に食事をしたハインリヒの姿を思い出すことはできる。
 台所の小さな丸いテーブルの、居間へ背を向ける形になる椅子の前へ、ジェロニモはそのじゃがいもをそっと置いた。
 また数瞬、じゃがいものまだしっかりとした形と、そこからあちこちに伸びた芽のたくましい輪郭へ視線を当て、気がつけば淡く微笑んでいる。
 ハインリヒの気配が、小さな台所に、かすかに戻って来ていた。それがまだ濃いものだと、錯覚をわざと手元へ引き寄せて、手を伸ばせば触れられるどこかにハインリヒがいるのだと、故意の誤解へ軽く沈み込んでゆく。
 じゃがいもは、庭のどこかか、あるいは野菜の育て方を知っている誰かの畑にでも植えよう。そうして、土の中に伸びる根の先の丸く膨らむいつかの収穫期に、まるで偶然のようにここへまた戻って来るハインリヒのことを、ジェロニモは耳の裏側辺りで想像した。
 やっとじゃがいもに背を向け、ひとり分の夕食のために、ジェロニモはうつむいて玉葱の皮を剥き始める。



小説用お題ったー。

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眠りにつく時 (R18) * sh

月光は、人の気を狂わせる。

狭い扉の内側へ一緒に滑り込んだ途端、歯止めがきかなくなった。
ジェロニモのコットンシャツがふわり、と床に落下する。ハインリヒが引きむしるようにしてTシャツから首を抜くと、両腕をジェロニモの首に巻きつける。その体を、軽々とジェロニモは抱き上げた。視界は塞がれているものの――ハインリヒが矢継ぎ早にキスを仕掛けてくるからだ――ベッドの位置は知っている。
硬いマットレスの上に、改造部分を剥き出しにした無骨な肢体を横たえて、浮いた腰の下からズボンと靴を剥ぎ取った。自分も太腿を擦り合わせるようにして、カーゴパンツを膝裏までずり下げる。今夜のジェロニモは、ハインリヒに負けずとも劣らないほど性急だ。
折り重なった直後から、唇が離れることはない。息継ぎの合間に違うところへ口づける。瞼や鼻先や頬骨や、互いの顔の出っ張ったところを探しているうちに自然に笑みが漏れてきて、甘く舌を絡め合う。
ジェロニモは、そっと目を開けて、キスに没頭するハインリヒを見つめていた。蒼ざめた額や冷え冷えと高い鼻梁が彫刻のように美しい。顔の向きを変える度に、閉じた睫毛がジェロニモの肌を柔らかくくすぐっていく。細い月明かりの下でも十分に味わえる、ジェロニモの秘かな楽しみだ。
「なに見てるんだ」
ハインリヒの囁きは、くぐもった笑い声付きだ。ジェロニモの顔面に、ぱっと緋色が散った。気づかれていないと思っていたのに。
「君は…」
月の化身のようだと言いかけて、
「“おまえ”でいい。前にも言ったはずだ」
ぴしゃりと遮られてしまう。ジェロニモは、いっそう頬を赤らめて下を向いた。確かに、そう言われた記憶はあるが、年上の仲間を、おまえ呼ばわりするのは気がひける。
「それより、いいから早く…!」
切なげなハインリヒの声が、ジェロニモのみぞおちを抉って落ちる。
潤んだ瞳が、うっすらと色を帯びていて、計算づくの媚態に心を動かされることはないけれど、ハインリヒのそれは無意識なだけに性質(たち)が悪く、ジェロニモの理性を根こそぎ掴み、奪っていく。
突然、ハインリヒがのけぞった。ジェロニモが、胸に顔を埋めてきたからだ。
大きな肩が下の方へとずれていく。しっとりと這いずる濡れた熱さが離れるそばから冷たくなって、白い肌に震えが走る。
ハインリヒは夢中でジェロニモの頭を抱え込んだ。金属製の指先が、しなやかな黒髪を愛しげに掻き寄せ、掻き上げて、途中で、ぱたり、とシーツに沈む。
力の抜けた戦闘用サイボーグの足首を、勢いよくジェロニモは持ち上げた。
荒々しく体をぶつけ合う。
次第に交わる部分が深くなる。
ほろほろと涙のように歓びが溢れ出す。
そうなったら、もう叫ぶのを止められない――。


「すまなかった」
ジェロニモが小さく絞り出す。巨体を丸めるようにして、シーツに膝をついている。
「いいんだ」
笑った拍子に脚の付け根が鈍く痛んで、ハインリヒは顔をしかめた。
試みた体位に無理があったか、それともジェロニモが渾身の力を振り絞って抱き締めてきたせいなのか。
ハインリヒの体も頑丈に設計されてはいるが、鉄骨も余裕で捩じ切るジェロニモの腕力だ。人間と違って、冷やせば炎症が治まるといったことは望めないから、部品を取り換えてもらうしかない。最悪の場合は、恥をしのんで博士に診てもらわなければ、と思うと憂鬱になる。けれどもジェロニモの心配そうな表情を見ているうちに、年上の自分がブレーキを掛けるべきだったと、反省の気持ちの方が強くなってきた。
そもそも、我慢をするな、とけしかけたのは自分だ。
ジェロニモは、その通りにしただけなのだ。
「頼むから気にしないでくれ」
そろそろと寝返りを打つと、痛みのない側を下にしてジェロニモの体躯に寄り添った。
ジェロニモが肘をつき、半身を起こすとハインリヒの顔を覗き込む。
上下で、互いの目が合った。
こうして見つめ合う度に、出逢えたことの奇蹟が未だに信じられない気持ちになってくるのは、今も昔も変わらない――。
「痛むか」
恐る恐るジェロニモが尋ねてくる。
「いや、それほどでもない」
ハインリヒは即答した。それでもジェロニモが黙っているので、
「俺も年だな…。今度からは自重するさ」
似合わない軽口を付け足した。この話は、これで終わりだ。
「おやすみ、ジェロニモ。いい夢を」
宣言するなり、さっさと目を閉じる。まだ、閉じた瞼の上にジェロニモの視線を感じていたが、目を開けるつもりはなかった。
深々と、ジェロニモが溜息をつく。
もぞもぞと下から毛布がたくし上げられてきて、ハインリヒの肩を覆った。ジェロニモの手つきは、赤ん坊を世話する時のように慎重だ。すっぽりハインリヒの全身を包んでしまうと、静かに並んで裸の肩を寄せてくる。
そのまま、じっと動かない。

数分後、ハインリヒはベッドを揺らさないようにして向き直る。思った通り、ジェロニモはうずくまった姿勢で眠りに落ちていた。寝る前までの心配ごとの名残なのか、軽く眉間に皺を寄せている。そろそろとハインリヒは起き出すと、毛布の端を引っ張って、嵩張った体の上にかけてやった。

本当は、ジェロニモになら殺されても構わない、と思っている。

そんなことを口に出せば、きっと目を剥いて黙り込むであろう恋人の顔を想像して、ハインリヒの白い頬に微かな笑みが浮かぶ。
今度こそ眠るつもりで横になった。

おぼろに、月が翳っていく。

暗くなった寝室で、聞こえてくるのは重なり合う、ふたつの寝息だけだった。

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その2 * SHIMA

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寸止めキス

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Blau * マリ

あをき、しにがみ。

炎に、浮かぶ。
一片の迷いもなく、戦火の只中へ飛び込んでゆく背中を、断腸の想いで見送る。
全てを焼き尽くしたのち、立ち尽くす背中に声を掛けても、いらえは無い。
不用意に肩に手を置こうとした瞬間、死神の左腕だけが旋回し、左手の縁だけがきらめいた。
頑丈なはずの、それでも裂かれて灼けた手の甲のほとばしりが、一瞬遅れて振り向いた、死神の瞳に反射する。
驚愕に見開かれた、その薄青い瞳が悲痛に歪むよりも先に、薄汚れた銀色の頭ごと、胸に押し付け、視界をふさぐ。
銀髪をふわりと撫でてやってから、腰に両手を回して軽々と持ち上げ、肩に担ぐ。
すぐには歩き出さず、担ぎ上げた右肩にもう少しだけ力を入れ、死神の腰に頬を添わせると、それは声もなく震えていた。
破壊の火玉を、静謐(せいひつ)で鎧(よろ)う。
炎であり、氷であり。
否であり、応である。
燃え尽きるのを、辛抱強く待つ。
震えは小さくなり、やがて止まった。
こわばりが全てほどけたのを感じ取ってから、ようやく一歩を踏み出す。
そろそろと歩を進めると、まだ少し熱い鋼の右手が揺れながら伸びてきて、防護服の裾をそっとつかむ。
戦線を離脱したら、その手を握り返そうと想い浮かべながら、振り落とさないようにしっかりと腰を抱え直し、勢い良く駆け出した。

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シトラスの香水 * みの字

 いつものように髪を絡め取った後の指から、ひどく甘いオレンジの匂いがした。
 使っているシャンプーや石鹸の匂いではない。それなら散々嗅ぎ慣れて、すっかり覚えてしまっている。その同じ匂いが、時々ひっそりと過ごす夜の後に、自分の髪や皮膚──人工の──上に移っているのを、ハインリヒは知っている。
 ジェロニモの耳朶に口づける振りで、ハインリヒはそこへもっと顔を近づけた。
 その匂いの立ち方は人工の香料のものではなく、誰かのためにオレンジでも絞った後で、匂いの残ったままの手指で髪をまとめにでも触れたものか。
 誰かからの移り香ではないことを悟ってから、内心だけで安堵して、ハインリヒはいっそう近くジェロニモへ躯を寄せて行く。
 つるりとしたなめらかな肌に、無数にあった傷跡は今はなく、ハインリヒがこんな風に近づけば必ず現れる赤い刺青が、代わりにすでに色濃く滲み出始めていた。
 皮膚の下に走る血管をそのまま表したような、全身に走る赤い線。元々体臭の薄いジェロニモの、こんな時にも汗の匂いもあまりない赤銅色の膚に、ハインリヒは自分の晧い肌をこすりつけてゆく。
 自分の匂いなど、自分で知る術はないけれど、ハインリヒのような年頃の男なら、奥行きの深い、重みのある動物性の香り──ムスク──でもつけるのがほとんど礼儀のようなものだ。人工皮膚の下の武器庫の体が、時々明らかに立てている金属くささ──ハインリヒの思い込みかもしれなかった──に、獣の匂いを乗せる気にはならず、無頓着の振りで、石鹸や整髪料の匂いだけでごまかすのが常だ。
 ジェロニモも、人工の香りをわざわざ使う習慣はなく、使っている石鹸も、たまたまそこにあると言うだけで、どれが特に気に入っていると言うこともないようだった。
 ほとんど匂いのないジェロニモの膚に乗る、石鹸の匂い、時々混じるイワンのミルクの匂い、洗濯の後には洗剤の匂いがして、そして張大人の料理に付き合った後には、様々な香辛料と油の匂いがする。
 様々な匂いをまとい、けれどこうしてハインリヒと抱き合えばハインリヒの匂いを移して、色も匂いもない汗が色違いの皮膚の上で交じり合って、ふたりきりのシーツの下に、確かにこもるのはひとの匂いだ。
 ジェロニモの首筋から、またオレンジの匂いが立った。その鋭いひと立ちは、どこか鉛の味を思い出させる。自分の右手の指も、そんな味がするのかと、思いながらハインリヒは、皮膚はなく剥き出しのマシンガンの銃口の指先を、ジェロニモの唇に押し当てた。
 ハインリヒの思惑通りに、ジェロニモが唇を開いて、その指先を中へ誘い込む。揃えた人差し指と中指のわずかな隙間に、ジェロニモの濡れた舌先が滑り込んで来る。そのまま手を取られ、引き寄せられながら、躯の位置が入れ替わった。
 胸を重ねれば、ハインリヒの首筋にまで落ち掛かって来るジェロニモの髪は、するりと耳の後ろにかき上げられ、その動作の慣れた風の、けれどハインリヒはまだそう見慣れてはいない動きが、指の形の美しさと爪の切り方のいかにも癇症なのが、ハインリヒの目を突き刺して来た。
 絞ったオレンジは、イワンのためだったのだろうか。この大きな手が、あの小さなイワンの世話をする。イワンの柔らかな肌を傷つけたりしないように、爪はきちんと切られ、常に清潔を保つために、日に何度も手を洗う。
 そうして今は、シャワーを浴びる間さえ惜しんで、昼間の匂いを身に着けたまま、ジェロニモはハインリヒと抱き合っていた。
 匂いを取り去って、自分だけの匂いを残して、そうやって抱き合うのも、あるいは様々な匂いをまといつけたまま、その匂いすべてに互いの匂いを上書きするのも、ジェロニモでさえあれば何でもいいのだと、ハインリヒは肩を軽く持ち上げながら思った。
 自分の匂いを持たないように思えるこの男に、ハインリヒは自分の匂いをこすりつける。汗の匂いか石鹸の匂いかどこかで拾って来た煙草の匂いか、あるいは、焦げた火薬の匂いか、ハインリヒの立てるどんな匂いも、ジェロニモの匂いのない膚はきれいに吸い取って、もっと別の、ふたりの匂いにしてくれるような気がした。
 自分の体から決して消えることのない金属の匂いを鉄の匂いと思って、それはつまり血の匂いだと、思いつく直前に、ハインリヒはジェロニモがふと変えた躯の動きに、さらわれて、反らした喉から声を漏らした。
 ジェロニモの、赤い刺青の線をなぞって、首筋に両手を添える。鉛色の指先をその線に乗せて、髪の中へもぐり込ませて、きしきしと髪を絡め取る。絡め取りながら、さっきジェロニモがそうしたように、耳の上の丸みに、長い髪を乗せてみる。そうして、耳の裏の薄い皮膚に、そっと鉛色の指先を添えた。
 甘いオレンジの匂いに、自分の匂いを重ねるために、ハインリヒは反らした喉をジェロニモの喉に触れ合わせながら、あごの先へ噛みつく。舌の上へ乗るオレンジの甘みを、熱く開いた喉の奥へ、音を立てて飲み込んでゆく。



小説用お題ったー。

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夕映えの中で * sh

古い手紙や写真は、ある程度の時間が過ぎたら整理することにしている。
その日も午後遅くなってから、ジェロニモはクローゼットから古いクッキー缶を取り出して、床の上に、みしり、と腰を下ろした。ブリキの蓋を開け、中身を一枚ずつ、低いテーブルの上に並べていく。
ずらり、とカウボーイハットの男たちが並んだ大判の写真が目についた。これはカナダのバッファロー保護区で働いていた時のものだ。集合写真を、と頼まれて仕方なく加わった。古い友人宛てに出したら、「受取人死亡」というスタンプと共に戻ってきた絵葉書。なんとなく捨てる気になれず、ここに入れてしまっていたらしい。溜息をついて、燃やしてしまうものに選り分ける。子どもが生まれたとか結婚したとか、そういった知らせのカードは山ほどあった。白地にピンクやブルーが使われた、どれも似たようなデザインだ。これらを送ってきた人々について、今頃どうしているだろうかと思いを馳せることは稀だが、罪のない幸せの断片は、束の間ジェロニモの心を和ませる。

仲間と写っている写真は一枚もない。極端に写真嫌いの男がいるからだ。

昔は、誰かが戯れにカメラを向けようものなら、殴りかからんばかりに怒りだしたものだった。彼がそんな反応を見せた時は、まずギルモア博士がいたたまれない面持ちになり、フランソワーズが涙ぐんだ。興奮したジェットが怒鳴り、困ったようにジョーが口をつぐむ。ピュンマは首を振って何も言わない。グレートと張大人が顔を見合わせて途方に暮れ、ジェロニモは荒々しく歩き去った男の後を追う。
追いかけようとしたのではなく、ただ、見失うまい、として。
振り返る気配も見せず、男は確実な足取りで裏庭を通り抜け、森の中へと入っていく。うっそうとした木立を抜けると、その先は、海だ。切り立った崖で行き止まりになっている。
案の定、男が唐突に歩みを止めた。何度か下を覗き込んでから、忌々しげに振り返る。
「どうしてついてくるんだ?」
腕組みをして、きつく眉を寄せている。おとなしくジェロニモは立ち止まった。放っておけなかったのだと本音を言えば、尚更、この男を傷つけることになる。だから、敢えて口に出すことはしなかった。代わりに、言った。
「戻ろう。ハインリヒ」
――遅くなれば、みんなが、心配する。
最後まで言わずとも、この男なら分かると思った。
ぎこちなく、ハインリヒが足元を踏み替える。
「…あんたも、どうせ俺のことを扱いにくい奴だと思っているんだろう」
肩をすくめて言い放つ。即座にジェロニモは首を振った。機械化された体に対する疎ましさや、仲間に素直に向き合えないことへの苛立ちなら、自分にも覚えがある。
「俺たちは、同じだ」
思わず漏れた一言に、ハインリヒが目つきを険しくする。一瞬、黙っていればよかったと後悔したジェロニモだが、予想に反して、辛辣な言葉は返ってこなかった。
足元の、はるか下で波が押し寄せ、砕ける音がする。
ハインリヒは黙り込んでいる。銀色の髪が夕陽をきらきらと反射して、思わずジェロニモは目を細めた。そういえば、もう日の落ちる時刻だ。昼間のざわめく気配が、急速に遠ざかっていく。恐怖とは違うけれど、日没はジェロニモに、いつも特別な感情を抱かせる。
あの時もそうだった。
音もなく琥珀色の夕映えが押し寄せてきて、ハインリヒも自分も呑み込まれてしまうような気がしていた――。


「何をしているんだ、ジェロニモ?」
急いでジェロニモは顔を上げた。開いた戸口で、ハインリヒが微笑んでいる。
「片づけだ」
短く答えることで、跳ね上がった鼓動を押さえつけた。声をかけられるまで、ハインリヒが帰ってきたことに、ちっとも気づかなかった。
「写真に…手紙か?随分、たくさんあるんだな」
部屋に入ってきたハインリヒが、屈託なくジェロニモの手元をのぞきこむ。ジェロニモは座ったままの姿勢で腕を伸ばし、銀髪の頭を引き寄せた。ハインリヒの上着の襟は、外気を吸ってひんやりとした手触りだ。冷たい頬に軽く口づけ、立ち上がった。
「今、お茶を、淹れる」
ハインリヒが散らかったテーブルの上を、ちらりと一瞥する。
「いいのか?お前さんの邪魔をするつもりはなかったんだが…」
笑ってジェロニモは頷いた。一番とっておきたいものは、もう、この手の中にあるからだ。ハインリヒの肩を抱くようにして、キッチンの方へ踏み出していく。
寄り添う二人の背中に、窓辺から金色の西日が降り注いでいた。

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その3 * SHIMA

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やっと発見

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Rot * マリ

あかき、てつさび。

脈打つ、血潮。
しなやかな肉体に、憧憬とも羨望ともつかぬまなざしを向ける。
鋼の手が勝手に伸び、視線の先を正確になぞっていく。
傷付けるはずが無いと分かってはいても、おずおずと指を立てずにはいられない。
思いのほか柔らかい感触に少し驚きながら、盛り上がった縄に沿って指先を滑らせる。
そしていつも、すぐに目を見張り、それからもう、目を離せなくなる。
赤銅の肌を彩(いろど)る、濃く鮮やかな、細く太く赤い帯。
手を握れば、指先から肘へ。
伸び上がって両の頬を包めば、瞳を逸れ硬い頭蓋の天辺へ、頤(おとがい)を経て柔らかな喉元へ。
広く厚い胸板に顔をうずめれば、脇をすり抜け二の腕へ、臍を回り逞しい腹へ。
微動だにしない背中へ身を預ければ、盛り上がった肩へ、引き締まった腰へ。
体中を縦横に自在に走る、その煙を吐く軌跡を、とがらせた舌の先でたどり、狂おしい熱に焦がれる。
確信に半ば以上を占めながら、先を制し際どく優位を保ちながら、控えめに逃れる肌を捉えながら、それでも、とどまる果ては知らない。

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君の手の大きさに慣れた私の手 * みの字

 汚れ仕事を厭わないジェロニモの手は、いかにも労働者の手風に、節高く骨張っている。
 イワンに触れるから、乾いてかさついた指先で赤ん坊の柔らかい肌を痛めたりしないように、フランソワーズを見習ってクリームなどすり込んでいるけれど、張大人の料理の後片付けなど手伝えば、あっと言う間に元の木阿弥だ。
 それでもできるだけ、ただでさえ手とも思えない大きさと厚さの自分の手指が、うっかり他人を傷つけてしまわないように、ジェロニモは慎重に自分の指先の手入れをする。
 フランソワーズに触れるジョーの掌をちらりと眺めて、自分が同じように握り締めでもすればあっと言う間に砕けてしまうのだろうと、フランソワーズの、いかにも若い女らしい薄い華奢な手指を、自分のそれと交互に見比べる。
 フランソワーズのような手に、特に触れる必要も機会も滅多とないことを実は幸運に思いながら、ジェロニモがいつも触れたいと思っているのは、マシンガンの銃口が剥き出しの、ハインリヒの手だ。
 ハインリヒの、生身の手を、ジェロニモはもちろん知らない。人工皮膚に覆われたそれ──左手の方──が、少なくとも見掛けは生身の頃そっくりなら、あれは間違いなくペンや紙に触れることがもっぱらな、ジェロニモの祖父母たちが静かに、けれどどこか淡い憎しみを確かにこめてつぶやいていた、"できたおまんまを食べるだけの白いきれいな手"そのものだ。
 ピアノを弾いたと言うハインリヒの手は、焦げた火薬の匂いと空の薬莢をまき散らして、見事に調整された武器として最大限機能する。あれも、ある意味では一種の音楽のようなものだ。非日常の音と音階、調和するリズムの生み出す、彼がまとうあの独特の空気。何かがひとつ欠けても、ああはならないのだと、またしばらくは自分たちの出番がないことを心の表面では祈りつつ、こんなことでもなければ一緒にはいられないのだと、世界の不幸を願うような自分の思考は、胸の奥底にしっかりと隠しておく。
 もう、他の誰の手にも触れたいとは思わなかった。取り上げても握りしめても、"壊したりする"気遣いの必要のない、ハインリヒの手。様々な音を奏で、そしてジェロニモの躯の奥からも不思議な旋律──戦慄──を引き出しもする、あの手とあの指。
 所有と言う感覚をあまり好まないけれど、あの手に触れる時だけは、これは自分のものなのだとジェロニモは思う。自分が触れても構わない、大切な何か。壊れることも穢れることもない、ジェロニモとひどく隔たったところへ在るくせに、触れたいと思えばいつもそこに在る近さで、それでも、自分のもう1枚の皮膚のように感じるには、彼はまだ少し遠い。
 慣れ親しんでゆく。兄弟たちの抱いていた憎しみはどこかへ置いて、白いひとであるハインリヒを、ジェロニモはその皮膚の色を越えたどこかで、恐ろしいほどいとおしんでいる。距離を縮めて、腕を伸ばして、抱き合うことがごく当たり前になるまでに、気の遠くなるような時間が掛かった。
 捻じ曲がった理屈を持って、ある人たちを絶滅させようとしたハインリヒの国の人間たち、そしてジェロニモたちは、別の人間たちに今まさに絶滅させられようとしている。まるきり対照的に見えて、何か重なっているような、どこか繋がっているような、あらゆる隔たりを越えて、ハインリヒをこんなに身近に感じるのはなぜなのだろう。怒りや悲しみや憎しみを、身内に抱え込んでいるハインリヒを、慰撫できたらと思うのを傲慢と知りながら、手を差し出さずにはいられない。
 受け止めて、引き寄せられるかどうか、保証のない自分のその手を、ハインリヒの右手が取る。薄く、唇の端だけを上げるあの笑い方で、今では迷いもなく真っ直ぐジェロニモを見返して、そうしてまた、肩の辺りから漂い始めるあの濃い空気に、ジェロニモはただ溺れてゆく。
 盲いた魚のように、水の流れに引きずり込まれて、導かれる底の、その底があるのかすらわからない薄闇の中で、ハインリヒの髪と皮膚の白さだけが淡い道標(みちしるべ)だ。
 力いっぱいしがみつく。手離せば、もう二度と会えないと思う激しさで、ハインリヒを抱きしめる。ハインリヒの手がジェロニモに触れる。重なる皮膚のぬくもりは、帰属の安寧だった。
 ジェロニモはハインリヒのものだ。ハインリヒが、ジェロニモを自分のものと思っているのかどうか分からない。それでも、心の中でだけで、君の私と、そうつぶやく時に、ほとんど呼吸を止めても構わないような心地になりながら、それをハインリヒの声で、俺のおまえと、耳の奥で再生し直す。
 色違いの皮膚。色違いの掌。色違いの髪。色違いの瞳。何もかも、どこをどう探しても似ているところなど見つからないふたりの、けれど魂の色はきっとどこか似通っている。だから、互いの手がこんなにも心地よい。
 息苦しさに喘いだと思ったのは、夢の中でだけだった。びくりと震えた体の後ろに、かすかな寝息が聞こえた。
 触れて抱き合って眠った後で、ハインリヒはジェロニモの肩の後ろに顔を埋めるようにして、右腕は、ジェロニモのぶ厚い腰を巻くように、胸と背中がほとんど触れ合っている。
 ジェロニモの皮膚の上には、眠りに落ちる前よりは薄まってはいても、あの赤い刺青がまだ走ったままだった。
 ハインリヒの右手を、そっと取った。手の甲を包んで、そこから指先を互い違いに鉛色の指の間に差し入れて、眠りを妨げないように握る。力は込めない。そうしなくても、ハインリヒは今はどこにも行かない。ジェロニモも、どこにも行かない。
 君の手。君の私。
 ふたつの体が、何か布のようなもので柔らかく結ばれ繋がれている様を思い浮かべて、ハインリヒの寝息を子守唄のように聞く。
 目覚めてもまた、ハインリヒはきっとここにいるだろう。これはもう、夢ではない。
 イワンに触れる時と同じ優しさで、けれど違う思いで、ジェロニモはハインリヒの手を取ったまま、また目を閉じた。
 私の、君。そうつぶやいた唇がほんのわずか動いたけれど、ハインリヒには聞こえないままだった。



小説用お題ったー。

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