カラクリ
−路地裏の少年・番外編−



 新年のお祭り騒ぎに、一緒に外に出掛けようと、ジェットは言った。
 アルベルトは、読んでいた新聞から顔を上げ、紙面のすみの日付を確かめてから、ああ、と言った。
 「そうか、大晦日か。」
 「アンタ、学校以外のこと、何にも興味がないのな。」
 ジェットは、わざと唇をとがらせて見せた。
 ジェットが冬休みに入った後も、アルベルトはまだ大学の試験中で、何枚も何枚も紙に字を埋め、本やノートを引っ繰り返し、ぶ厚い本の山に埋もれて、その間、宿題すらないジェットは、なるべく邪魔をしないように、日なが部屋のすみでおとなしくしていた。
 テレビの音さえ、いつもより下げて、1時間置きに、ミルクのたっぷり入った紅茶をいれて、けれどそれさえも、大事な試験を目の前にしたアルベルトには、あまり視界にすら入らないらしかった。
 アルベルトの試験が終わる頃にはもうクリスマスで、両親の家に1週間近くいて、ジェットはようやくここへ戻ってきたばかりだった。
 「でも新年って、どこで何があるんだ?」
 「どこって・・・どこのバーでも大騒ぎしてるし、どこ行ったって、みんな騒いでるぜ。」
 「・・・キミを、酒の出るところに連れて行くわけにいかないだろう。」
 それはもちろんそうだ、とジェットは口を閉じた。
 「下の、張大人のとこは?」
 ジェットは、顔を輝かせて言ってみた。
 「チャイニーズの新年は2月だ。俺たちとは、カレンダーが違う。」
 今度こそ、ジェットは音を立てて大きく舌を打った。
 「なんだよー、せっかくのニュー・イヤーなのに、アンタまさか、試験中もここに閉じこもってて、またここにいるだけとか、言うなよ。」
 いつもなら、あまり自分のしたいことなど、こんなふうにアルベルトに向かって主張することなどないのだけれど、クリスマスを一緒に過ごせなかったため---両親は、アルベルトを招ぼうなどと思ってもいなかったし、アルベルトも、彼らに会いたがってなどいなかった---に、ジェットはずっと、せめて大晦日の夜くらいは、何かふたりでできるだろうと、そう考え続けていた。
 その当の本人は、ジェットが指摘するまで、街中がクリスマス前からずっとざわめいていることなど、視界にも入れてなかったらしい。
 世の中の流れから外れて、自分の時間で動いている、この物静かな青年を、ジェットは、歯噛みしながら眺めた。
 ジェットの、そんな憤った様子に気づいたのか、アルベルトが新聞をたたんで、うっすらと困惑の笑みを浮かべた。
 「・・・とりあえず、じゃあ、外に出よう。多分どこか、レストランかカフェか、どこかで何かやってるだろう。」
 嬉しさに、飛び上がって、ついでにアルベルトにも飛びつこうかと思ったけれど、とりあえず、やった、と喜びの大声を上げるだけにしておいた。


 12月の終わりにしては、ひどく生暖かい日で、ジェットは上から下まで、両親からもらったクリスマスプレゼントを着込むことにした。
 袖の長い、真っ赤なTシャツ。これはサンタクロースからだと書いてあった。ポケットのたくさんついた、薄いカーキ色のパンツ。これは義理の父親から。すそが少し長くて、ウェストがゆるいけれど、来年にはおそらく、サイズはちょうど良くなっているに違いない。それから、肩に重いほど厚くて暖かな、黒い袖に赤い背中と胸の、スタジアムジャンパー。それから、オレンジ色のマフラー。両方とも、母親からだった。
 黒のタートルネックのセーターに、それよりは少し甘い黒の、コーデュロイのズボン、それからお馴染みの黒のトレンチコートのアルベルトが、ベッドルームから着替えて出て来たジェットを見て、ひどく優しく微笑んでくれた。
 「じゃあ、行こうか。」
 アルベルトが、トレンチコートのポケットから取り出したメガネをかけた。
 驚いて、ジェットは思わずあごを引いた。
 「アンタ、メガネなんかかけたのか?」
 ブリッジを、居心地の悪そうな仕草で押し上げながら、アルベルトが歯切れの悪い口調で、ああ、と言う。
 ジェットは眉を寄せて、華奢な銀色のフレームのそのメガネを、何となくにらむように見た。
 今まで一緒にいて、メガネをかけたところなど、見たこともなければ、目が悪いと言ったこともない。
 なんだろうと思いながら、先に歩き出すアルベルトの後ろを追いかける。


 小さなレストランは、ギリシア人の家族がやっている、常連ばかりの店だった。
 ジェットは、ここの、スパイスのたくさん入ったハンバーガーが大好きで、アルベルトはいつも、ギリシア風の鶏肉料理を頼んだ。
 アルベルトは、あまり打ち解ける様子はないけれど、主人である、50も半ばくらいの背の低い、けれど肩も胸もぶ厚い男は、いつも陽気に大声でアルベルトを迎えてくれる。
 ジェットが子どもだからと無視することもなく、アルベルトの陰にいつも隠れるようにしているジェットに、いつもきちんと握手の手を差し出してくれた。
 店は、どう見てもギリシア人か、それの子孫らしい客でいっぱいで、あちこちから英語でないおしゃべりが聞こえた。
 主人は、いつものように、顔のすべてを崩すような笑い方をして、明けましておめでとうと、気の早いことを言いながら、ふたりを空いたテーブルへ案内してくれた。
 注文はいつも通り、それから、ミルク入りの紅茶をふたつ。
 主人が、笑いながら、酒はどうだとアルベルトに言ったけれど、アルベルトは苦笑だけを返して、遠慮しておきます、と丁寧に断った。
 街中が、ざわめいている。どこにいても、それを感じる。
 時間を数え、新しい年がやって来るのを、皆が待っている。
 世界のどこかは、もうとっくに新しい年を迎えているけれど、ジェットとアルベルトのいるこの街には、これから新年がやって来る。
 大晦日の夜明けを迎えたばかりの場所も、この世界のどこかにはあるのだと思うと、何だかおかしかった。
 皿を空にして、また紅茶を頼んでから、アルベルトが、油で汚れた手を洗って来ると言って、席を立った。
 その背を見送ってから、急に騒がしい店の中で、ジェットはひとり手持ち無沙汰になる。
 皿も下げられ、今は手を伸ばす何もないテーブルの上で、ふと、アルベルトが外して置いていったメガネが、目に入った。
 好奇心だったのだろうか。
 それは、好きだと思う相手の持ち物に触れてみたいという気持ちと、その人のことを、もっと知りたいと思う気持ちと、そんなものが入り交じっていた。
 強く握れば、ゆがんでしまいそうに華奢なフレームに指をかけ、ゆっくりと開いて、それから、自分の耳にかけた。
 「あれ?」
 思わず、声が上がる。
 外して、視線をレンズの外にずらして、また、かけ直す。
 なんだ、と思った。
 ただのガラスだ。度なんか入ってない。
 どうして、こんなものを、かけているのだろう。
 目が悪いわけではない。大学に行っていて、授業中に板書された字が見えないと、そう言っているのを聞いたこともない。
 しゃれっ気を出して、メガネをかけている振りをするタイプには、到底思えない。
 それとも、とジェットは思った。
 誰が、好きなヤツでもできたのかな。
 新年を待ちながら、あまり楽しくない想像をする。
 だから、クリスマスも、一緒に過ごそうとは言わなかったし、新年も、忘れた振りをしていたのだろうか。
 メガネをかけたままの目の奥が、不意に熱く痛くなった。
 アルベルトが、音もさせずにテーブルに戻ってきた。
 自分が置いていったメガネをかけて、うつむきかげんにまぶたをぴくぴくと震わせているジェットに気づいて、椅子にも坐らずに、怪訝そうな顔をする。
 「どうした?」
 顔を上げた頬が、濡れていた。
 メガネを外して涙を拭い、ジェットはまた顔を伏せた。
 テーブルに、慌てた様子で紙幣を置いて、アルベルトはジェットの肩に手を置いた。
 「出よう。」


 人をよけて歩きながら、ふたりは手をつないでいた。
 黒い革手袋をはめた、右手の方が良かったけれど、車道側からジェットをかばうように歩くアルベルトの左側にいて、ジェットにとっては、そんなアルベルトの保護者めいたふるまいさえも、今は下らない安っぽい同情に思えた。
 ジェットはまだ、しゃくり上げるように泣きながら、前に出る靴の爪先を見つめている。
 「俺に、誰か他に好きな人ができたって、そう思ったのか?」
 静かに、優しく、アルベルトが訊いた。
 ジェットは、声には出さずに大きくうなずいて見せた。
 「キミはいつか、小説家になれるよ、きっと。それくらい想像力があれば。」
 「ちゃかすなよ!」
 冗談めかして言ったアルベルトの手を強く引いて、ジェットは、思ったよりも大きな声で叫んでいた。
 「オレと一緒にいたくないなら、そう言えよ。別にオレは、アンタにムリして付き合ってもらわなくったっていいんだから。」
 うそつき、と心の中で声がした。
 アルベルトがいなくて平気なら、どうして、彼に他に好きな誰かがいると想像しただけで、こんなにうろたえているのだろう。
 オレは、アンタがこんなに好きなのに。
 言えないつぶやきを、心の底に落とした。
 落としてから、もっと悲しくなった。
 ふたりとも足を止め、もう閉店している店の前に体を寄せ、人込みをよけて、つないでいた手を外して向き合った。
 「・・・・・・アンタ、だって、メガネなんかかけてなかったくせに。オレになんにも言わないで、なんかやってるし。」
 アルベルトが、泣くような表情で苦笑する。
 もう閉まっている店のガラスのドアにもたれて、ジェットは上目に、両手をトレンチコートのポケットに入れて、苦笑を消せないアルベルトを見た。
 「別に、意味はなかったんだ。」
 息が、ふたりの間で白い。
 「・・・・・・クリスマスで、キミが家に戻って、久しぶりにひとりで・・・外にひとりで出るのが、恐かったんだ。これを使うと、世界と自分の間に、膜ができる。その膜がないと、酸欠になりそうだったんだ。」
 ジェットは、泣くのをやめて、ゆっくりと顔を上げた。
 アルベルトは、まだ苦笑を刷いたままだった。
 うそではないと、重ねて尋くことはなくても、ジェットにはわかっていた。
 アルベルトは、世界に異和感を感じている。ジェットには、それがよくわかる。世界が、アルベルトに対して感じる違和感よりも、ジェットは、アルベルトが世界に感じる異和感を、先に感じてしまう。
 だから、ふたりは一緒にいる。
 世界は今、ふたりのそばを素通りして、新しい年を迎えようとしていた。
 ジェットを、ほんの束の間失った、アルベルトの、自己救済のための、小さなカラクリ。わかってしまえば、かわいらしい勘違いでしかない。
 ジェットは、鼻をすすり上げて、汚れた頬を、ごしごしを拭った。
 「・・・・・・そんなもの使うくらいなら、電話すりゃいいんだ。すぐにだって、帰って来たのに。」
 また、アルベルトが苦笑した。
 ああ、そうだな、と言って、足元に視線を落とした。
 ふたりはまた、互いに向かって手を伸ばした。
 「行こう、そろそろ時間だ。」
 また、肩を並べて街の中心へ向かって歩き出す。
 ジェットはまだうつむき加減に、きゅっきゅっと舗道をけって音を立てる、自分の靴の爪先をまた眺めていた。
 それから、ふと思いついて、つないでいる手を、アルベルトのコートのポケットに、手を重ねたまま入れた。
 アルベルトが、少しだけ驚いてジェットを見下ろしたけれど、その手を解こうとはしない。
 ポケットの中で、指がそっと絡まった。
 オレンジ色の、母親がくれたマフラーにあごを埋め、来年のクリスマスは絶対に一緒に過ごして、アルベルトに何かプレゼントしようと、ジェットは心に誓う。
 日付と年の変わる時間に近い、空気の生暖かい夜だった。




 すんげェ遅くなってしまいました、留歌師匠。どうもお待たせいたしました!
 ほんとは、もっと留歌師匠のために、エログロしようかと思いましたが、新年早々、せっかくだから、プラトニックで清々しくと・・・。ウソつきって今声が・・・。
 リクエストなのに、路地裏の番外編ですみませんです。お題が難しかったっすよー(泣)。
 泣き言言わずに、とりあえず、潔く・・・ならないの困ったちゃんなこいつ。
 とりあえず、受け取っていただけたら幸せです。逃走!


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