Sleep With Angels


ミドリさま@such a night



 ここでいいと告げたとき、ジェロニモは静かに頷いただけだった。
 「ここからは、歩いたほうがよさそうだ。中に車を入れると、おまえさんの足がつくやもしれん」
 もう一度、無言で頷き、彼はエンジンを止める。そしていつものように、細心の注意を払って安全を確認してから、闇に融けるように車外へと出た。
 ドアが開かれるとともに、凍てつくような夜気が頬を刺す。コートの襟を掻きあわせ、一瞬だけぶるりと身を震わせて、荒れ果てた路面を踏んだ。
 「それにしても、よくもまあ……おあつらえ向きの場所を、探し出したものだな」
 ぐるりと、周囲を見渡して、苦笑した。漆黒の闇の中でも、ここが人の息吹からは遠く離れた、荒野の只中であることは見て取れる。荒れ果てたからっぽな、この世の果て。ひとでなしの最後の地に、ふさわしい。
 荒野に走る街道沿いの、見棄てられたモーテルの一室。選んだその一室だけに、かろうじてランプのあかりがぼうっと灯っているのが見える。ひと晩、燃料がもてばよい。それから後は……おれの知ったことではない。
 今更、必要もないだろうに部屋の安全を確認してから、ジェロニモはおれにキイを手渡した。
 「……あとは、指示の通りに頼む」
 無言で頷いた横顔からは、この瞬間も、あきらかな意思は読み取れない。この男にも、おれはそんな生き方を強いていたのかもしれない。飢えから彼の命を救い、生きてゆく術を身につけさせたことへの、代償として。
 不憫な人生。ひとでなしのおれに、捧げてしまった憐れな人生。もっと、他の生き方があったはずだろうに……。
 「最後まで、おまえさんには迷惑をかける」
 ……すまない。
 はじめてかけられた詫びのことばにも、ジェロニモは動じる様子を見せなかった。
 代わりに、巌のような頬を、かすかに綻ばせる。そして、おれの方にわずかに顔を傾けながら、口をゆっくりと開いた。
 「ボスに仕える、俺の使命。ボスの魂、自然の中へ還るまで、最後まで、仕える。それ、俺の使命」
 自然の中へ……いのちが巡りゆく、環のなかへ。
 目を上げたとき、既に彼の姿は、そこにはなかった。
 ドアを閉め、窓際へ静かに歩み寄る。ボルボのテールランプが、ゆっくりと遠ざかってゆくのが彼方に見えた。あれが見えなくなったとき……おれはいよいよ、ひとりになる。ひとりで、この空間に取り残される。
 最後の瞬間を迎える、そのときまで。


 あのとき。
 差し伸べた手が触れる間もなく、ほんの瞬きするほどの刹那に……すべては、終わった。おれの人生も、あのとき終わったのだ。
 ならば、今更死を恐れる必要が、どこにあろう。
 窓辺に佇んだまま、深ぶかと、煙を肺の奥まで吸い込む。全身に転移しているという癌細胞が、肺にも巣食っていることだろう。身のうちに飼っている死神とともに、おれは煙草を愉しんでいるということか。奇妙なものだ。
 「死神……ね」
 その発想に、自然と頬が歪む。ひとりごちて、スプリングのいかれたソファに深ぶかと身を預け、目を閉じた。
 若い頃は、いつ死んでも構わないと、思っていた。野垂れ死にでも構わないと、本気でそう、思っていた。それがいつの間にか、不様な死体を晒すのだけはごめんだと思うようになり、常に死に装束を纏うような心持で、服装に気を配るようになった。
 そして……
 おのれのものであるはずの生命が、おのれの思い通りにならないという現実。果てまで歩いてきて、手の中に残ったものは、その滑稽な不条理だけだった。
 守るべきものが出来てしまえば、そうやすやすとは死ねなくなる。よく承知していたはずではあったが、実際に目の前に突きつけられてみると、呆然とするより、他はなかった。他人の命を、勝手に絶ってきた人間が、おのれの死を自由に扱えないとは……お笑いだ。
 「そうじゃないか、アルベルト?」
 ……My dear。くちびるには乗せず、胸の奥で呟く。
 一番守りたくて、守ってやれなかったいとしい魂。おまえを失ったあのとき、おれは既に死んだのだ。今更、滅びゆく肉体に、未練はない。
 「死ねば……おまえさんに、また触れられるのだろうか」
 ゆっくりと、目を開ける。視線を合わせた瞬間、目の前の影が、うっすらと微笑んだのが見えた。


 冬の只中だというのに、今頃羽化して、どうするつもりだったのだろう。ランプに小さな蛾が一匹、吸い寄せられてぱたぱたと鱗粉を飛び散らせている。その音に誘われたかのように、指先に挟んだ煙草が、じじっと音を立てて灰を落とす。立ち昇る紫煙の向こうから、水のように淡いまなざしが、こちらをじっと見つめていた。
 あのころと、同じように。
 「元気そうだな」
 無言で、こくりと頷く。ランプのあかりに照らし出された右手の指先は、やはり鈍色に光っていた。
 「右腕は、そのままなんだな」
 「……もう、生身の腕の記憶は、忘れたよ。俺の右腕は、これだ」
 あんたが、つけてくれた。あんたが……いとおしんでくれた。
 左の指先が、至上の宝にでも触れるように、鋼鉄の右手の甲を撫でる。薄明かりの向こう、白い薔薇がひそやかにほころんで、無心な笑顔を浮かべる。
 すこしも変わらぬ彼のたたずまいに、おれも思わず、頬を綻ばせていた。
 「……会いたかった。ずっと……」
 「俺は、いつだってあんたの傍にいたよ」
 「……そうだな。知っていた」
 「そうだよ。あんたは、何だって知っているものな。ナイフとフォークの使い方も、服の着方も、教えてくれたのはあんただ」
 あんたが今まで、見えなかっただけだ。
 それは、おれの死期が近いという意味かねと、直截に訊いた。しかし、彼のくちびるは、微笑みをかたちづくったまま、その問いのために開かれることはなかった。
ぱたぱたと、また蛾の羽根がランプのガラスに触れる音。既に、その羽根はなかば傷つき、綻びがおれの目にすらはっきりと認められる。
 それを、見るともなしに眺めながら、おれはふたたび、口を開いた。
 「もう一度……訊いていいか」
 「何でも」
 「正直に、答えてくれるかね」
 「……あんたに、嘘はつけないだろう」
 なめらかな頬が、歪む。わずかに動いた靴の下で、隙間から舞い込んだのだろう、砂塵がざりりと、神経に障る音をたてた。
 「その腕のままで、本当にいいのか?」
 訝しげに、眉が寄せられる。それに構わず、おれはことばを継いだ。この瞬間を逃せば、永遠に問えぬような気がした。
 その腕こそが、おまえさんを縛っていたのではないか? それから逃れたかったのではないか? ……
 言ってしまってから、項垂れた。彼を正視する勇気は、おれにはなかった。
 ランプにまとわりついていた蛾は、いつの間にかテーブルの上に仰向けになっていた。むなしく散った鱗粉か、それとも砂塵だろうか。細かな粒子の中で、起き上がろうと破れた羽根をばたつかせる。
 無駄なあがきは、よせ。もうじき死ぬのだ。おれも、おまえも。
 それとも、今一度飛びたいか。おのれの死を懸けても。傷だらけになっても、それきりのいのちであっても、飛びたいか。
 そこに、自由があるとは限らなくとも。
 ……問うたおれの怯えを、彼は知っていたに違いない。しばしの沈黙ののち、冷え切った大気の向こうから、微笑んだ気配がわずかに伝わってきた。
 「逃れられるわけが、ないだろう」
虚をつかれ、おれは思わず、無防備に彼を見上げた。
「あんたも知ってのとおり、この腕は、俺の内部に繋がっている。つまり……俺の一部だ。あんたの愛が、そうであるように」
 今だって、そうだろう? ……あれから、幾年過ぎたとしても。
 視線が、絡みあう。彼のひとみがうるんでいるように見えるのは、ランプのあかりのせいか。ひかりを受け、滲み、おれひとりを映す清い泉。蹂躙され、地獄の底を彷徨いながらも、決して穢されることのなかった、純粋な魂。
 My dear。
 ついに、声に出したその呼び名の感触を、舌の上で反芻する。彼を失ってから、他の誰をもそう呼ぶことはなかった。
 呼べるわけが、なかった。
 愛している。ただひとり、おまえだけを。荒野の闇の中をただひとり、歩いてきたようなおれの人生。その中で、おまえだけが、おれのひかりだった。そのひかりを得て、どれほどおれが救われていたか。失って、どれほど……どれほど、みずからを呪ったか。みずからの死を願ったか。
 「嬉しい。まだ俺のこと、そう呼んでくれるんだ」
 濡れたような、ひそやかな囁きが、耳朶のすぐそばで響く。ゆっくりと、伸びてきた両腕が、おれの肩にかかった。
その、刹那だった。
 白い貌が、ぐずりと崩壊した。
 微笑み、おれに両腕を差し伸べたまま、彼は崩壊していった。見る間に肉が腐り、臭気を立てて、崩れ落ちる。鈍色の人工の右腕と、生身の神経と骨格を繋ぐ部分があらわになり、複雑に絡み合ったコードがほどけてゆく。脚を伝い、流れ落ちる鮮血も、徐々にどす黒く色を変えてゆく。ねばつく屍液が、重く滴り落ちてゆく。
 くろぐろと口を開けた眼窩のなかで、ガラス玉のような両のひとみが震え、おれを凝視している。ぶらりと、垂れ下がった顎の骨が、わずかに蠢いた。
 こんな姿でも、あんたは俺を……そう呼んでくれるか? すべてを赦すと、言ってくれるか? 永遠に愛していると……永遠に、俺はあんたのものだと、そう言ってくれるか?
 おれの心は、決まっていた。
 ゆっくりと、両腕を上げる。腐肉のこびりついた骨を、そっと抱きしめる。壊さないように、傷つけないように。もう充分、彼は……踏みにじられ、傷ついた。
 他ならぬ、おれが傷つけたのだ。赦しを請わねばならぬのは、こちらの方だ。
「アルベルト、My dear」
 何度でも、おまえさんの望むままに。
 ぬるぬると滑る指先に力をこめ、崩れようとする顎骨を支える。かつてくちびるのあった場所へ、あらん限りの想いを託し、くちづけを。
 いとしいひとよ、赦しておくれ。おまえさんを、間違ったかたちで愛していた愚かなおれを、赦しておくれ。もっと自由に、飛ばせてやりたかった。おまえさんを失うのが怖いばかりに、おまえさんをがんじがらめに縛り、傷つけていたおれを……赦しておくれ。
 不覚にも、涙が溢れてくる。視界が滲み、今や白骨と化した彼の姿すら、ぼんやりとかすんで見えた。きっと、目を閉じてしまえば彼は消えてしまう。あとかたもなく、金属の腕すら錆朽ちて、指の間から零れていってしまう。自由にしてやりたかったと、舌の根も乾かぬうちに、彼を掴まえておきたくて、臓腑をえぐられるような痛みを感じる。
 それでも、目を閉じずにはいられなくなり……
そして、ふたたび覚悟とともに目を開けたとき。腕の中に確かな、人肌の感触を見出して、おれははっと目を見張った。
 白い天使の微笑みが、迎えてくれる。その輝きで、おれの罪を照らし……清めてくれる。
 「あんたは、間違ってなんかいないさ」
 誰よりも、あんたを愛している。あんたが俺に注いでくれたように、俺も誓うよ。……偽りなどない、真実の愛を。
 待っていた、あんたを。ひとつになれるときを。
 そして、物陰からすいと近寄る、赤い影。その影が、しっかりと抱き合ったおれたちふたりを、包み込むように抱擁する。
 アンタを、待っていたよ。オレたちは、皆同じだから。
 腕を伸ばす。肉体の滅びた存在とは思えぬ、確かなぬくもりと、やわらかな手触り。同じ穴の狢だと、ひとでなしの狂える恋だと、嗤われてもかまわない。今このとき、このぬくもりが、おれを赦してくれるのなら。
 救って、くれるのなら。
 ことばなど、いらない。無言で、互いを抱く。窓の外で何者かが蠢いているのを、背中で感じながら。
 先ほどから、その気配は感じていた。こちらを窺う、大勢の気配。音もなく周囲を取り囲み、いずれ、ここへ来る。
「ジェロニモが……仕事を果たしてくれたようだ」
 組織を束ねる人間でなくなれば、おれはただのひとでなしに過ぎない。ありあまるほどの罪状。州の税金で、死ぬまで塀の中にぬくぬくと生きるのは、そぐわない。
ひとでなしは、ひとでなしらしく死ぬのさ。罪を……贖うために。
 今、ゆく。連れて行ってくれ。この世の果てへ。
 ゆっくりと、上着の下のホルスターから、拳銃を引き抜く。それと同時に、派手な音を立てて、扉がぶち抜かれた。
 「動くな!」
 「手を挙げろ!!」
 「武器を棄てて、おとなしく投降するんだ!」
 まばゆいライトが、おれを照らし出す。ばらばらと、部屋へ駆け込む複数の足音。それに構わず、おれは天使たちに、微笑みかけた。彼らの目には、おそらく映っていないであろう、いとしいものたちに。
 さあ、今こそ。
 眉間に、ひんやりと冷たい感触。グリップを握りなおし、引き金にかけた指に、今一度力をこめた。
 今こそすべてが、白く輝き、消滅する。業火に焼かれ、……願わくば浄福へと、ひとおもいに。
「馬鹿なことをするんじゃない、武器を棄てろ!」
 そして……
 鮮やかな紅が、目の奥で爆ぜる。その一瞬のち、確かに白いひかりに包まれ、懐かしい腕に抱きとめられたのを感じながら、おれは心からの笑みを浮かべた。


戻る