ABSINTHE
桐生奈槻さま@
SELFISH
デスクの上にトールグラスを置き、サイドボードから煤けた色の酒の入ったガラスボトルを取り出す。
中に暗緑色の酒が入っているのを確かめると、手馴れた手つきで栓を取った。
グラスに1
1/2ounceの酒を注ぎ入れ、丸い部分に窪みの無く、代わりに小さく穴の開いた独特の形のスプーンを橋渡しするようにグラスの上に横たえ、真っ白な角砂糖を置く。
水入りのデカンタを傾け始めたとき、ドアが鳴った。
「張大人…」
珍しい人物の訪問に邪魔された事の少しだけの嫌悪を頬のあたりに刷き、グレートは持ち上げていたデカンタを置く。
「久しぶりアルね、ブリテンはん」
張大人は、言葉こそ柔らかく室内に侵入してきたが、表情はどことなく険しいまま勧められる前にソファーに座った。
「丁度一息つくところだ。何か用意させよう」
「必要ないアル」
張大人はぴしゃりと言ってのけると、グレートのデスクの上にセットされた酒とその瓶を訝しい目つきで眺めた。
「見た事無いアル」
「あぁ、アブサンだ。フランス人が女との交換条件に持ってきた。18世紀の品だそうだ」
「汚い瓶アル。怪しげなものを口にするなんて、ブリテンはんの気が知れないアル」
張大人はそう吐き捨てるように言うと、瓶で無くグレートの顔に向かって渋い表情を向けた。
グレートは思い当たる所があるくせにどこかそ知らぬ口調に聞こえるよう、口を開いた。
「張大人には珍しく、渋面だな。どうかしたか?」
「どうかしたか?アンタはんの事で来たアルよ」
張大人はそう言い切ると、組んだ手の人差し指だけを苛立たしげに小刻みに動かした。
「別に、何か問題があるわけじゃあるまい?張大人の所も、オレの所も」
そういいきって、グレートはわざとソファーにまわらず、デスクの椅子に深く腰をおろした。
「そうアルね、何の問題も無い」
張大人はそこで言葉を区切ると、顔を上げず視線だけを上に上げジロリ、とグレートの顔をねめつける。
いつもは温厚そうに見えて麻薬の元締めもこなす張大人の目は険を帯びて、ただのチンピラなら竦み上がる位の色を湛えているが、グレートはそんな視線もものともせず、目を合わせたまま口元にだけ苦笑を浮かべた。
そんなグレートの表情を正面から見ていた張大人は失望したかのように大きな溜息をつくと、
「…何の問題も無いことが、問題アルよ」
と、独り言のように呟いた。
問題。思い当たる事はある、多分張大人はその事を言いにここに来たのだろう。グレートはそんな張大人から視線を外さないまま、再び言葉が紡ぎだされるのを待った。
「アンタはんが変わらないのが問題アルよ」
張大人は目を伏せると袖口に手首を潜り込ませ、愛用しているキセルを取り出した。
言葉を続けるのを躊躇うようにぶらりと下がっている煙草入れから刻み煙草を取り出し、器用にキセルに詰める。と、煙草入れの反対側に仕込んであるライターで火を点け、ゆるゆると煙を揺らめかせた。
「…ダウンタウンの店、あんたはんが取り仕切ってるみたいアルね」
煙と共に吐き出された言葉に、黙って首を竦める事で返事を返す。
「……アルベルトに任すつもりだって、アンタはん、そう言ってたアル」
今度の返事は沈黙で返した。張大人は恐れている訳じゃないだろうが、それでもどこか言いにくそうに言葉を紡いでいく。
「ブリテンはん」
急に名前を呼ばれて顔を上げると、張大人は悲しそうに眉間に皺を寄せ、キセルを持った手を膝の上に力なく落とし少しだけ潤んだ目でこっちを見ていた。
「ワイ、アルベルトが居なくなって悲しい。悲しいアルよ」
おそらく本心だろう張大人の声は悲しさを帯びて。
「ワイがこれだけ悲しいのに、ブリテンはん、アンタはんは何にも変わらない、変わった様子が見られないアル、それが問題アルよ」
けれど。
「張大人、感傷的だな」
「!ブリテンはん!」
張大人は顔を紅潮させると持っていたキセルの中の煙草を灰皿に叩き落し、激昂して口を開いた。
「アンタはん!何でそうしていられるアルか?あれだけ大事にしていたアルベルトが死んだアルよ。アンタはん、何でそんなに変わらないアル?」
「何も変わらないからだ、張大人」
そう、変わらない。
グレートは淡々とした口調でそう言い切ると、これ以上の話は無用とテーブルのデカンタを持ち上げ、中の水を糸のように細くさせながら角砂糖に垂らした。
角砂糖に染み込んだ水はじきに溢れスプーンの穴をつたい、中の透明なくせに暗緑色の酒を淡く緑がかった白に濁らせた。
「!…勝手にするよろし!」
張大人はこれ以上ないほど顔を紅潮させると乱暴に扉を開け、部屋を出て行った。
変わった事などないのだ。
スプーンをずらしてグラスの中に滑らせ砂糖と水とをよく攪拌させ、グラスの上部でそっと振ってデスクに置く。
暗緑色の酒が完全な乳白色に変わったことに満足な笑みを湛え、おもむろにグラスを持ち上げて一口その酒を啜り上げる。
舌先に仄かな甘味と、それを打ち消す苦味、刺すようなアルコールの芳香。
嚥下させずに舌の上で転がし、そっと瞼を閉じじっと待つ。
しなやかな腕が肩に触れて、擽るように首筋に指が絡む。
耳元に幽かな息遣い、その緩やかに微笑む気配にグレートはようやく固く閉じていた瞼を開いた。
「やぁ、My Dear…」
グレートの眼窩に広がる景色、その中には。
首に甘えるようにすがりつくアルベルトが艶やかな微笑みのまま存在していた。
ストリップジョイントに洗練された踊り子が欲しいとの客の要望に、手下の一人がバレリーナを連れて来たのはつい先日の事だった。
どうせ何処ぞででも攫って来たのだろう。金色の髪と白い肌、瞳に弱々しい光を湛えた少女を何の感慨もなく眺め、監禁、昼夜ない強姦のお決まりのコースを辿るのだろう、そう思っていた矢先、客はすれた演技など何処でも見れる。そうでない趣向で。と、そう注文をつけてきた。
いくらでも金を積むとは言え面倒な注文に娘を地下室に放り込んで鼻白んでいると、店に一人の男がやってきた。
フランス訛りの英語で、バレリーナの兄だとその男は名乗った。
こんな所まで平気な顔でやって来たのを、妹を助けるだけだとは到底信じられなかった。
だがついぞグレートまで辿り着く事が出来ないというのにここまで喰らいついてきた珍しい輩。
話だけでも聞いてやろう、そう思って部屋に通すと。
妹を返してくれれば、こいつを渡す。
煤けた瓶を目元に持ち上げて翳すと、そう言ってニヤリと笑った。
こんな所にいるには清潔そうな眼差しのクセに、そう言って瓶を翳して笑った顔は奇妙に生臭くて興味をそそられた。
「なんだ?」
「Absintheさ」
聞いた事も無いその名前に首を少しだけ竦ませると、男は一回り小さな瓶を床に置いて、
「試して、それから答えを聞きに来る。ここにいるのはわかっているのだから」
そう言ってそのまま部屋を出て行った。
来た時と同じように真っ直ぐな背中を何故かきちんと見届けたいような気持ちで見送り、置いていった瓶を持ち上げる。
年代もののガラスは煤けて曇り内容物を把握する事は出来ない。光に翳し、その酒が暗く緑色に光るのを見て少しだけ不愉快になり眉を寄せた。
栓を引き抜くとアルコール度数は50℃をゆうに越し、野趣を帯びた薬草の刺激臭が強かに鼻を突く。
首を左右に振って栓を締めると目の前がくらりとした。
酒精のせいだけではないその眩暈に思わず目を閉じていると、顎先に冷たい指の感覚があり、驚いて思わず目を開くと。
「…My……Dear………?」
俄かに信じる事が出来ないその光景に、グレートがうめくような調子で声を上げた。
幽玄の笑みを浮かべ、何か言いたげに口元をほころばせ誘うように舌を覗かせるその口元。
柔らかな銀髪に愁いを帯びたように見える、少しだけ脅えたような淡い水色の瞳。
病的に見えてしまうくらいの、色素の薄い肌。
そこにはアルベルトがいた。
思わず手を伸ばしてその姿を掌に認識させようとした瞬間、現れたときと同じ突然さで姿が消え。
グレートは自分が床に倒れ込んでいるのに気付かされた。
夢、幻?
そう思ってしまうにはあまりにも強烈に顎に残る冷たい指先の感触。
グレートは顎にそっと自分の指先を滑らせ立ち上がると、同じように転がったその瓶を持ち上げ、グラスを取るため部屋の隅の簡易バーに足を向けた。
男からバレリーナと引き換えに、男が持っていただけ全ての半グロスの酒瓶を手にした。
オプションだ。と。同じように表面の曇った専用のグラスと、風変わりのスプーンが渡され、正式な飲み方を教わり。
そして。
「これもやるさ」
茶色い液体の入った小瓶もテーブルに置かれた。
促されて瓶の蓋をあけると、蓋の部分がスポイトになっており、どことなく覚えのある香りが鼻を擽る。
「一滴垂らす。効果が増す」
なんの?とはあえて聞かなかった。聞かなくてもわかりきっている事だ。
瓶の中身はずいぶんと古めかしい代物。だが、その代物に近いものはいまだに愛用され、柔らかく毒の篭る煙になっている。阿片Tincture。
グレートはそこまで身を崩すつもりはないとその小瓶をデスクの引き出しに放り込み、薬を嫌悪しながらも年代物の緑の酒に執着する自分に自嘲の笑いを浮かべ、その笑顔のまま手下に向かって顎をしゃくると部屋の隅に蹲る娘を男の前に突き出させた。
男は妹の肩を大事そうに抱くと、暗い部屋を出て行った。
無傷で出て行かせるのかと鼻白んだ手下もいたが、視線だけで締め付け、黙らせる。
そして、ただひたすらに没頭した。
飲んで効用を試すうちに、自ら動かなければ幻視が消えることが無い事に気付いた。
酔いが深ければ深いほど幻が長いと言う訳ではない事も、飲んでいくうちに分かった。
ただ、少しずつ澱が貯まるように、反比例するように。
幻視の時間が長くなっていっていた。
「やぁ、My Dear…」
グレートの眼窩に広がる景色、その中には。
首に甘えるようにすがりつくアルベルトが艶やかな微笑みのまま存在する。
じっと動かずにされるがままに椅子に座っていると、アルベルトはその微笑みのままデスクの上に腰を下ろした。
幻視のアルベルトが身につけているものは時に首まで窮屈に締められたシャツとスーツであったり、過去戯れに着せたドレス姿であったりと様々。
今日、グレートの元に現れたアルベルトは、真っ白なドレスシャツ一枚を身に着けただけの姿で。
下腹部を辛うじて隠すぐらいの丈に白い脛がグレートの目に鮮やかに映る。
「おいで、My Dear」
動かず言葉だけをかけると、アルベルトはどこか楽しそうな笑顔でゆっくり首を横に振るとぶらぶらとさせていた脚をゆっくりと動かした。
何をするのだろう。
幻視は今までの行動をなぞったり、思いもかけない事をしたりといつも一定ではない。グレートがその様子に目をやると、アルベルトは欲情に赤く目元を染め、片方の爪先を自分の足を絡ませるように、なぞるようにして自分の脚の上で動かす。
脹脛を際立たせるように輪郭を取ったり、膝頭の後ろに回って脚を持ち上げてみたり。
組まれた足とシャツの裾が影となって隠し、なのにどちらもゆらゆらと動いて淫靡さを増す。
脚の動きだけにとどまらず、アルベルトの手はゆっくりとシャツのボタンを外し、少しずつ胸元を露にしていく。
シャツの合間から見える白い肌の、触れた訳ではないその胸の頂きは既に赤く熟れ、ふるふると震えているようにも見える。
グレートは思わず触れてやりたいと動く腕を肘掛に指を食い込ませ、その様子を見つめる。
その視線だけで焦れたように、アルベルトが手首の釦の糸を噛む。小気味の良い音を立てて釦が弾け飛ぶくせに、床に転げ落ちた音は聞こえない。
稚拙な、それでいて淫猥なstriptease。
シャツの最後の釦が外れ、胸元を開け放つと同時にゆらりと動かしていた脚をも開きグレートの目前に裸身を晒す。
既に中心部分は蜜を垂らし、待ち焦がれてひくりと動く。
これぐらいは許されるだろうとグレートがその中心の頂きに息を吹きかけると、アルベルトは艶然と笑い、それに手を添えた。
すっぽりと覆い、擦り上げる。
だが、手が添えられ動いたというのに、アルベルトの表情はどこか不満そうに口元が歪む。
足りないのだと、目がそうグレートに訴えている。
「どうすればいい…?」
触れれば消える。
それは決められている、事象。
だって、幻視なのだから。
目の前ではアルベルトが満たされない欲望を持て余し、体を揺らす。
テーブルが揺れ、アブサンのグラスに漣が立つ。
アルベルトは愉悦を求め両膝頭をつけ、堪えきれずに体をデスクの上に横たえ、眼差しだけは熱く濡れてグレートを見ている。
口元があえぐように動き、脚の間のその奥の窄まりまで、呼吸するように動くのが見える。
赤く染まった目元にじわりと涙が盛り上がったのを見て。
「My Dear…」
グレートは引出しに手をかけ勢いをつけて引き出すと、茶色い小瓶を取り出した。
『一滴垂らす。効果が増す』
フランス人の男の声が耳の中で木霊する。
蓋をねじ開け、スポイトに茶色い液体を吸わせ、一滴グラスに垂らし。
中のアブサンを一気に煽った。
初めてアブサンを飲んだとき以上の酩酊感に、目を閉じる。座っているのに倒れそうなぐらいの勢いで世界が回るが、決して不快でなく。
ただ心地良いと言ってしまうには強過ぎな揺さ振られる感覚に再び肘掛を掴むと、
「…グレート…」
喘ぐ息の隙間から、アルベルトの声が聞こえて目を見開いた。
今まで見えるだけの、触れられる感触が辛うじてするだけの幻視に。
「…グレート…早…さ………わ…」
艶やかに耳に心地よい、吐息の合間の声。
恐る恐る、アルベルトの膝頭に触れる。
体の隅々まで敏感になっているのか、それだけで大きく体を跳ねさせた。
触れても消えることないアルベルトは、けれどまだ達するには至らず、体を捩りながら潤んだ眼差しでグレートを見上げ、切なげに囁いた。
「…触……って…」
言葉の終わりを待たずグレートの指が中心部分に掛かると、アルベルトの唇から甘い声があがる。噛み締めていたわけではないけれど堪えるためもしくは息を詰めて悦を得る為に強く閉じられた唇は赤く、声に艶めかさを増す。
もう一箇所の求めている部分を指で侵すと、貪欲に飲み込んでいく。
既に開いている体全体をくまなく唇でなぞると、より高みに上り詰めていくのを嫌がるのかそれとも焦らされる事を嫌がるかのように首が横に振られる。
「…グレ………早……」
性急に求める声が上がる。指を抜こうとすると、名残を惜しむように第一関節を深く締められ。
必要な部分だけ衣服を崩し、既に勃ち上がった体を繋ぐと、アルベルトのそこは奥に引き入れるかのようにより強く収縮した。
これは幻視だというのに。
グレートは強く突き上げて揺すりながら、媚態を濃くするアルベルトを見下ろした。
耳に響く声。体に感じる心地良い窮屈さも、今ここにあると言うのに。
体を繋いだ瞬間襲ってきた、虚脱感と恐ろしいぐらいのリアリティ。
アルベルトの体をより開き、肩につきそうな勢いで体を折り曲げ、深く繋がる。
何かを求めるように伸ばされた腕が手がジャケットに深く食い込む。
爪を立てられ痛みが走るのを感じながらより早く律動を繰り返し、追い込んでいく。
「………!…」
声も無く息を詰めるようにしてアルベルトが果てて、間をおかず己の雫を強かに奥底に注いでも。
幻視以外の何物でも無い。
けれど。
未だアルベルトは側にいる。
茶色い阿片の一滴があれば、触れ合う事だって出来る。
「変わる事は無いんだ…」
グレートはやっとアルベルトから体を離すと、アルベルトの額に汗で張り付いた髪をかき上げる。
「そうだろう?My Dear…」
返事代わりに笑顔が向けられ。
交わしたキスは、暗緑色のアブサンの味がした。