The Books


さとみさま



 これから話すことは私の主人についてです。私のようなものがわざわざ口を開くことでもないと仲間にも窘められましたが、主人に起こった事件について皆さんにどうしても知ってもらいたくて、重い口を開いてみました。
 さて、主人についてですが私達をあれほど愛し大切に扱ってくれた人間はいませんでした。仲間に主人について聞いてみたところ、人間でも「上等」の部類に入るとのことでした。主人に変化が現れたのは、書店には似つかわしくない派手な身なりの赤毛の若者が現れた頃からです。
 主人は「社交」というものにまるっきり関心が無いようでした。
 彼を尋ねてくる人間といえば「マイディア」と呼ぶ男性しか思い当たりません。
 一人でいることに不満はないタイプのようでした。
 いつもは愛情と細心の注意を払って私達を扱うのですが、赤毛の若者が現れてからは床に落としたり、ページに紅茶をこぼしたりという考えられない大失態です。
 ジェット(赤毛の若者の名です)が店に来るようになってから主人はぼんやりと外を見たり、爪を噛んだりとまるで覇気がありません。
 主人がこの世にいない今ではかつての彼の癖が懐かしいです。
 私達は一体どうなるんだろうと体の奥から漠然とした不安が湧き上ってきます。
 とてもとても主人が恋しいです。


「また来たのか?」
 客が引いた午後ジェットは猫のようにふらりと現れる。
「そんな邪険にするなよ。たしかに本は読まないけどよ」
 赤毛が不機嫌そうに揺れる。口元に素直に感情を出しながらジェットは言った。
「君はガールフレンドとデートしないのか?」
「いきなりなんだよ」
「こんな薄暗くてかび臭い本屋にくるより、女の子と腕を組んで歩いているほうがお似合いだからさ。・・・ましてや読書はしないんだろう?」
 アルベルトはうっすらと笑いジェットに視線を流した。
「あんたこそパートナー不在か?それとも募集中?それとも頭の薄いあのおっさんがパートナーだったりして」
「・・・君は質問ばかりだな。まずグレートはここのオーナーでビジネスパートナーだ。こいびとは募集してない。今もこれからもだ」
 上手く煙に巻かれて誤魔化されたのではないかと、ジェットは厳しい顔で答えを聞いた。鋭い目元は話を全て鵜呑みに信じたわけではない事を物語っていた。
「ああそうだ。これやるよ」
 アルベルトの前に唐突に差し出された物は茶色の小包だった。受け取ると微かに熱を感じる。
「なんだ・・・これは」
「いいから開けてみなって。本は読まないけど音楽は嗜むんだぜこれでも」
 がさがさと音を立てて包みを開けるとテイクアウトされた紅茶とCDがでてくる。
 ジャケットにはバナナが描かれていてアルベルトを静かに見ていた。
「そのグループの歌聞いた事あるか?そのアートデザインはクソだけど歌はみんなグレイトなんだ」
「これはロックだろう・・・すまない聞いたことはないんだ」
「だろうね。育ちがよさそうだもんなあんたは」
「皮肉は止めてくれないか?・・・今夜聞いてみる。ロックに興味はあるんだ」
 ジェットは皮肉げな、それでも嬉しそうな笑みを浮かべた。何故そんな目で自分を見るのかアルベルトはわからない。何故かいたたまれずにアルベルトは自分から静寂を破ってしまった。
「お礼とはいかないまでも良い物を見せてやるから来い」
 声がおかしな具合に上擦ったのではとおもった。ジェットが現れてからというもの自分は感情を乱しがちだ。書物だけの声を聞き思索するだけで自分の暮らしは充分だったのだ。
 ジェットは外の空気を運んでくる。何が流行ってるとか何の音楽が良いとか誰がくっついて離れたとか日常の些細な事を、デニムのポケットやジャケットから零していく。この街が嫌いなアルベルトにはそれが小さな刺激となり心を引っかく。初めてここに来たとき。何もかもが煩すぎてアルベルトは外出しなくなった。反吐がでるくらい俗な街だというのは、下品な広告の美女からも窺い知れた。アルベルトが欲した物は墓場の静寂であり、病院の清潔さだった。
 本屋の事務所が珍しいのか、ジェットは珍しそうにあたりを見回しながらついてくる。彼の分の茶葉はあったかなと考える。もっともコークのほうがいいかもしれないがな。差し入れのために馴れない店に行って、馴れない買い物をしたわけだ。込み上げてくる笑いをアルベルトは必死で噛み殺した。


 堅苦しい労働の場というものをアルベルトは軽蔑していた。
 上等なソファーと家具とオーディオだけで構成された部屋は、学生の寮部屋くらいにすっきりしている。余計な物は置かない主義だし、必要な物を探して舌打ちするのも嫌なので、必要最低限を念頭に置いたらこうなった。
「なんだか殺風景だな。俺の部屋なんかもっとゴチャゴチャしてるぜ」
「そうか?本屋はこんなものだろう。ああ悪い。そこに座ってくれ」
 窓際のソファーをアルベルトは指した。オーディオコーナーへ行き早速ジェットが持って来たアルバムを流す。ロックの得意なオーディオメーカーを調べておかなくては。
「俺のお勧めは最後の曲」
「最後?・・・ああこれか。・・・英語を母国語にしてない女性か?」
「ビンゴ。ドイツ人だってさ」
 スピーカーからアルベルトの母国語のアクセントが流れてくる。
「・・・同胞が歌う英語のラブソングか」
「歌のテクとか演奏技術が上手い奴はもっといるけど、なんてったって詞がいいんだよな」
 まるで自分のことのように誇らしげにジェットは言った。彼の真っ直ぐさをどうしても直視できなくてアルベルトは目を逸らす。
「今日はいってきたんだ。見てくれ」
 大きなカラー写真集をジェットの前に開いてやる。
「これは芝居か?」
「日本の能という演劇だ。歌と踊りもある」
「見たこと無いぜ俺」
「だろうな。能は舞台装置を限界まで削ったミニマムな演劇なんだ。そうしてはじめて歌と踊りが生きる」
「どうして仮面をつけるんだ?みんな女の顔かな。この恐ろしい仮面はなんだ?」
「どうして仮面を付けるか。さあ、はっきりとした答えは謎だ。その恐ろしい仮面は嫉妬に狂って我を忘れた女の顔だそうだ。面にもいろいろ種類がある。演目によってつかいわける」
「女の仮面ばかりだな」
「踊り手は男性ばかりだぞ」
「男が何故嫉妬に狂った女をやるわけ?」
「男性の理想の女性は男性にしかわからないだろう?」
「なんかへ理屈みたいだよ・・・。あんたのお勧めはどれ?」
「そうだな・・・」


 ページを括る手にジェットの視線を感じる。視線に熱は無いはずなのに、熱さを感じるのは天気のせいばかりではない。ジェットの不可解な視線に晒されると、自分はまるで糸の切れた風船のようにふらふらと足元がおぼつかなくなってしまう。
「これなんかはいいな。二人の男に求婚された女が落ちていった地獄を描いたものと、ヘビになって好きな男を追いかけるお姫様の話がいい」
「良い話なのかよ?それ」
「ストーリーが全てじゃない。歌と踊りが多くを語る」
「女だけが地獄に落ちるのは納得できねえな。地獄に落ちるんだったら三人いっしょだろう?」
「まあ、それが模範的裁き方なんだろうが」
 ジェットの若者らしい正義感に苦笑する。
「能は推理小説じゃないからな。犯人は誰なんてことは問い詰めない。恋愛に公平な裁きを求めるのは無茶だろう。ある小説の主人公が、美というものは恐ろしいものだという台詞を喋るんだが、君にはこの気持ちがわかるか?俺はおっかなくても見たい、感じたいとおもってしまうんだ」
 写真集を括るアルベルトの両手には、ジェットの両手が重ねられていた。鉛の手のことを思い出しアルベルトは慌てた。しかしジェットは離さず逆に強く握り返してくる。
「手を離してくれないか」
「何故」
「いちいち理由を説明するのも、詮索されるのもうんざりなんだ」
「俺は気にしないけど。じゃあ、こっちはやめてこっちだけにするよ」
 言うなりジェットは生身の方の手を持ち上げ、派手な音をたてて接吻した。
「ジェット!」
 逃げようとすれば手の甲に熱を感じ、動きを止めると宥めるように指の又まで舌が這う。体の奥から官能の波が湧いてくる。自分の快楽に弱い体を今日ほど憎んだことはない。いつもはグレートの手にすぐ反応し、彼を喜ばせるのだが。ジェットの目の前で痴態を晒すなら、死んだほうがマシだ。アルベルトの思考は、突然ジェットの胸に抱き込まれることで中断された。
「ジェット離してくれ」
 つとめて冷静に穏やかに話しかけたが、言葉はジャケットに吸収され消えた。密着したことでジェットの匂いに包まれる。
 頭の芯がざわりとする。お互いの体の変化がはじまるまえにとアルベルトは必死で動く。
「体が痛いんだ。そんなにきつくしないでくれないか?」
「あんたが欲しいよ。あんたがもう誰かのものなんてことはないよな?」
 あ、と声を上げる間もなく瞼や耳や首筋に唇が触れた。非難の声は甘い吐息となって鼻を抜けた。それに気をよくしたのかジェットは自分の腰を摺り寄せてくる。あからさまな形を感じてアルベルトは真っ赤になった。
「あんたを抱いて滅茶苦茶にしたい」
「離せジェット。君は恥を知らないのか?」
 アルベルトが冷静に説得してる間にも、ジェットの唇は耳を甘く噛んだり舌で耳の穴をくすぐったりする。はしたない声を押さえるのに精一杯だった。
「だったら俺を突き飛ばして逃げてみろよ」
 唇を捕らえようとジェットが追ってくる。咄嗟に顔を背けたために唇はアルベルトの顎に触れた。少しばかり遠慮しているのか顎の裏や唇の端にそっと触れてくる。
 くすぐったさに声が漏れた。宥めるように上唇を噛まれる。ジェットの手は衣服をかいくぐって、素肌を遠慮がちに撫でまわす。そのまま手は下に滑り、アルベルトをそっと握った。
 まずいとおもうより先に、体がくたりとジェットの中に倒れる。
「感じやすいんだなもう濡れてる。我慢できないなら出せよ」
「うるさい」
「なあ、飲んでやろうか?」
「・・・地獄に落ちろ」
「でかい口叩けるのかよ」
 ジェットは胸の突起を強く引っかいた。甲高いアルベルトの悲鳴が官能の時間の合図となった。


 あの後聞こえてきたのは、主人の悲鳴だけでした。たまたまその場にいた仲間が目撃した話によると、ソファーの上でぐったりしている主人の唇にジェットが、「淫売には似合いの化粧だ」と何やら塗っていたらしいとのことでした。白いとろりとした液体は、主人の下腹を汚したもののようでした。
 涙を流す主人を私ははじめて見ました。ジェットとの行為の名残なのか、奇妙に幸せそうな気だるいような寂しそうな、なんとも言い難いものでした。
 主人のことを考えると、体の中から何かが突き上げてきて「こんなことをしてる場合ではない」と誰かが叫んでいるような気がします。でも、具体的に主人のため何をしたらいいのか解らず、結局はまた途方にくれてしまいます。主人を失ったことを嘆いて涙を流すのはもうたくさんだという気もしますし、このまま漠然とした不安と喪失感を抱えて生きていくのでもいいような気もします。
 主人が亡くなってから私達の時間も止まってしまったようです。こうして目を閉じるとおもいだすのは、銀色の主人の髪とジェットの赤毛です。ソファーの上で交じり合った光景は、不思議と美しいものでした。あの場面も二度と見ることはないでしょう。
 そろそろ口を閉じる時間となりました。御静聴ありがとうございました。
 それでは。


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