* 莞 爾 *



 本のページを繰る、その指先に、視線を奪われる。
 リビングの、いつもの場所で本を読むハインリヒの傍で、ジェットは、本を読む彼を、じっと眺めている。
 どんな本を読んでいるのか、その表情からは読み取れない。彼はいつも、あまり感情を、面には表さないので。
 無表情か、でなければ、皮肉笑い。あるいは、自嘲の笑み。愛想がいいとは、お世辞にも言えない。
 そうしなければ、人より分量の多い優しさが、分別もなくあふれてしまうからなのだと、悟るまでには時間がかかった。
 死神と呼ばれることを、いやがりはせず、それでも、そう呼ばれる自分の体を、彼は少しだけ重荷に感じている。
 ジェットは、自分の唇を、指先で撫でた。
 もっと、笑えよ。
 ふたりきりの闇の中で、そう何度か言ってみた。
 アンタ、もっとにっこり笑ってみろよ。
 頬をつまみ、唇の端を上げ、むりに笑顔を作ったその手を、振り払われた。
 やめろ。
 短く言って、彼は目を伏せた。
 俺の顔に、さわるな。
 ジェットのそれよりも、硬い感触の、人工皮膚。はりついたように無表情に見えるのは、その、強度の高さのために柔軟性のない、人工皮膚のせいなのだと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
 触れられるのをいやがった彼を、ゆっくりとゆっくりと、ジェットは少しずつ慣らしていった。
 顔に触れ、首筋に触れ、服の上から、その右腕に触れ、それから、上着を脱がせた。胸と腹に触れ、その頃には、ようやく、人工皮膚同士を重ねることに、慣れさせていた。
 笑い声を立てる。まれに。
 ようやく感情を、その表情からではなく読み取れるようになった頃、彼はもう、少なくともジェットに素肌を晒すのを、ためらわなくなっていた。
 それでも、まだ、笑顔を見せることは、滅多とない。
 本のページを繰る、ぱらりという音が聞こえる。
 彼の視線が動き、字の流れを追っているのがわかる。水色の瞳が、かすかに、ゆっくりと上下する。
 ジェットはまた、本に添えられた、彼の手に視線を戻した。
 彼は、自分で気づいているのだろうか。彼は、唇や頬ではなく、手と指で笑うのだということに。
 鉛色の、手。冷たい、掌。口に含むたび、硝煙の匂いがする、指先。
 この世でただひとつきりの、彼の右手。
 その手は---もちろん、左手も---、まるで彼の無表情の代わりのように、表情豊かに動く。
 指の曲げ方、手の動き、振ったり、叩いたり、つついたり、そんなことで、その手は、彼の感情を表現する。
 彼の手が、笑っていると最初に思ったのは、一体いつだったのだろうか。
 それともあれは、彼の手が、泣いていると思った時だろうか。
 彼が、表情を、隠せば隠すほど、彼の手は、まるであふれる思いをそこに握りしめているように、表情豊かに動く。
 泣くこと笑うこと喜ぶこと悲しむこと、そのすべてを、彼の手が、表す。
 もう、生身ではなく、生身にさえ見えず、武器としてそこにある彼の手が、彼の感情のすべてを、どこよりも豊かに、表現する。
 いつもはその手が、革の手袋で隠されているのは、彼の無表情と決して無関係ではない。
 感情を殺すこと。それが、殺人機械としての、彼の使命。
 だから彼は、その表情から感情を消した。
 そして、感情を表す掌は、いつも常に、隠され、覆われている。
 ジェットは、頬に掌を重ね、首を少し傾けた。
 アンタの、手。
 今は、少し、喜んでる。
 指先が、時折、跳ねるように動く。機嫌が良い時の仕草だ。
 剥き出しになった彼の手を、ジェットはいとしいと思う。
 どんな感情を表すにせよ、その機械の手を、ジェットはいとしいと、心の底から思う。
 掌を重ねる。握る。指を絡め、指先の丸みや、今はほんものではない骨の感触を、楽しむ。
 親密さの、証し。
 闇の中で、強く握りしめられた拳を、辛抱強く、解く。指を開かせ、指の間を撫で、平らになった掌に触れる。
 平らな、無防備な掌同士を重ね、そこからあふれる喜びの刻を、一緒に握りしめる。
 彼の指先が、不意に本の端を握りしめた。何か、驚いたのか、不安なのか。
 本の中に引き込まれているのだと、わかる。
 そこで何が起こっているのか、ジェットは知らない。それでも、指先の表情が、彼の心の動きを、くっきりと外に出す。
 くすりと、ジェットは笑った。
 唇と頬で笑えることを、おそらくジェットはありがたいと思うべきなのだろう。それでも時折、掌で笑う彼を、うらやましく思うことがある。
 特別な、手。
 ジェットが空を飛べるように、彼の手は、守る力を与えられている。その手で、彼は笑う。
 武器であると同時に、彼の心の発露でもある、機械の掌。
 その手は、まるで彼自身のようだった。
 冷たく、熱く、生身ではなく、生身よりももっと、表情豊かに。
 闘うことを嫌悪しながら、闘わなければ、守れないものがあると、知っている。
 闘い、守るために造られた、彼の体。
 その、手。
 その手は、彼が無表情を守るために、泣き、笑い、喜び、悲しむ。そっと、こっそりと。持ち主である、彼のために。
 また、指が動き、次のページへ進んだ。
 本から離れた手が、横へ伸びた。何かを探すように動いて、それから、傍に置いたマグに届く。
 マグの軽さに、指が驚いたのが、ジェットに見えた。
 空っぽのマグに、心の底からがっかりした表情が、手の甲に浮かんだ。
 ジェットはまた笑いながら、ゆっくりと立ち上がった。
 「紅茶、いれてやるよ。」
 手を差し出すと、彼が、ああ、と言いながら、空のマグを差し出した。
 「ダンケ。」
 優しい声よりも、今はなごんでいる口元よりも、差し出された機械の手が、にっこりと、ジェットに向かって微笑んでいる。
 ジェットも、にっこりと、その手に向かって微笑み返した。
 ふと触れた指先から、ありがとうと、言葉が伝わって来る。
 ジェットはもう一度、彼の手に負けないように、大きくにっこりと微笑んだ。




 再び、真名さまへ。
 どうもリクエストありがとうございました。はい、難しかったです。言葉の意味もですが、その言葉の響きが表すものがよく掴めなくて、結果はこういうことになってしまいました。
 何ともはや、もう言葉もなく(苦笑)。

 はい、精進いたしますです。どうもありがとうございました☆


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