世界の終わり
出来るだけたくさん、百合を持って来てくれないかと、グレートが言った。
さからう理由もなく、ハインリヒは、言われた通り、両手いっぱいの百合を抱えて、グレートの元を訪れた。
ドアを開けた途端に、純白の花越しに、グレートの、やわらかな、薄い笑顔が見える。
それに思わず微笑み返してから、ハインリヒは、グレートに向かって、その大きな百合の花束を差し出した。
「マドンナリリーか。」
一本だけを抜き取って、そのままハインリヒを部屋の中へ招き入れ、瞳を閉じて、その香りに鼻先を埋める。
「百合なら白だろう。」
ハインリヒがそう言うと、グレートは改めて視線を花から返し、まだ、両腕に百合を抱えたままのハインリヒを、上から下まで、鑑賞するように、眺めた。
「・・・・・・死神と聖母の百合と、なかなか素晴らしい眺めだ。」
銀色に近い印象のハインリヒが、黒ずくめの服装で、白い百合を大量に抱えているのは、確かに壮観だろう。
そう自分で思ってから、面映ゆい思いで、ハインリヒは、少しばかり頬を染めた。
グレートが、ようやくハインリヒから花束を受け取り、すでに水を張ってあるキッチンのシンクに、それをゆったりと投げ込んだ。
「飾らないのか?」
「・・・・・・本物の百合もいいが、百合の化身を眺めるのも、悪くない。」
一本だけ、さっき取った百合を、指先でつまんで玩びながら、謎かけのように、グレートが言う。
リビングに、突っ立ったままでいるハインリヒに、どこか紗のかかった笑みを投げて、グレートは、くくっと喉の奥で笑った。
グレートの言葉遊びに付き合うのは、別に珍しいことではなかったから、ハインリヒは、上着を脱げともソファに座ってくつろげとも言わないグレートに、黙って付き合うことにした。
部屋の中に、百合が強く香る。
グレートの視線が、あちこちをなぞる。
何か美しいもの、気に入ったものを眺める時に、グレートはいつもこんな表情をする。
うっとりと目を細め、唇の端を、少しばかり緩め、まるで、自分と、対象の間の空間以外には、もう世界は存在しないとでも言うように、放っておけば、何時間でもそうして過ごす。
グレートのこんな視線に、ハインリヒは、決して慣れることがない。
自分を、まるで壊れやすい芸術品のように扱う、年上の男を、ある意味では、変わった人間だと、心の底から思っていた。
背を伸ばして立ち、グレートの視線を受け止める。油断すれば、ふと面に出る含羞を、こっそりと隠しながら、絡みつくような視線を、皮膚の上に感じていた。
視線は、服を通り、遮るものなどやすやすと取り去って、ハインリヒの素肌を見る。
生身に、限りなく近く再現されたはずの、人工の皮膚を、金属が剥き出しの右腕と右の上半身を、その下を這い回る、さまざまな形の配線や部品を、骨組みの代わりの、金属の柱を、つくりものの血管を流れる、白っぽく透明な循環液を、ハインリヒのすべてを、グレートは見る。
破壊のためのサイボーグの体など、ただの機械と言ってしまえばそれまでだけれど、科学の粋を集めて改造され、再生されたこの機械の体は、ある意味では、芸術品かもしれなかった。
限りなく生身に近く、ただの機械などよりは、よほど強靭に。
死神という、皮肉としか思えないあだ名を、敬意とある種の愛情を込めて、この男だけは、まるで美しい旋律のように口にする。
ハインリヒは、グレートの視線の流れを、膚の上に感じて、思わずぴくりと肩を震わせた。
「そっくりだな。」
手の中の百合とハインリヒを、交互に眺めていたグレートが、そうぽつりとつぶやいて、一歩、ハインリヒの方へ近づいた。
思わず体が後ろへ下がろうとするのを、ハインリヒは、慌てて止める。
百合を、くるくると指の先で回して遊びながら、グレートがまた、にこやかに笑う。
「20で自殺する前に、一冊だけ詩集を残した詩人がいる。アイルランド人の女の子で、アイルランドでさえ、ほとんど無名だ。その彼女の詩集の中に、百合についての詩がある。」
まるで、大学で、シェイクスピアの講義でもするように、囁くような、そのくせ力強い声で、グレートが語り始めた。
「光合成、と彼女は、人間の交わりを表現する。光合成をしようと、誰かに言う。そうして、誰かと抱き合いながら、彼女は、百合がまるで、獣のようだと思う。強い匂いをまき散らして---欲情の匂い、と彼女は表現している---、外に向かって大きく花弁を開いて、その中心にあるめしべは、いつも濡れている。」
グレートは、ちらりとハインリヒを見てから、指先で、百合のめしべをつついた。
「百合は欲情の花だと、ひどく人間くさい花だと、彼女は書いていた。匂いも、姿も、何もかもが、欲情の証のようだと、彼女は繰り返し書いていた。」
この部屋の中に、今太陽の光があふれているのは、偶然だろうかと、グレートの、優雅に動く唇を眺めて、ハインリヒは思った。
光合成。植物は、それによって、酸素を生む。生産のためというなら、それは確かに、人間の交わりに似ている。
人間、と思ってから、ハインリヒは、皮肉にかすかに唇を歪めた。
「おまえさんは、百合そっくりだよ。」
語りを締めくくるように、厳かに、グレートは言った。
「・・・・・・死神には、過ぎたたとえだな。」
水色の視線と、はしばみ色の視線が、銀を交えてふと絡む。
グレートの頬の線が、悲しげに、融けたように、見えた。
また百合に視線を移し、それから、さらに一歩、ハインリヒに近づく。
少しばかり見下ろす位置にある、グレートの肩が目の前で揺れるのを、ハインリヒは静かに見ていた。
鼻先に、すいと、百合が差し出される。
大きく開いた、真っ白な花弁、その中心に揺れる、鮮やかに黄色い花粉をまとった、おしべの群れ。そのさらに中心に、ぬっと頭を突き出している、緑がかって白い、濡れためしべ。
香りも姿も、確かに、動物めいた花だと、ハインリヒは思った。
一輪で咲いていれば、おそらく清楚と表現されるのだろう。それでも、こうして目の前に突き出されれば、生々しい、植物にしてはあからさまな、生への執着が見える。
欲情の花、とハインリヒは思った。
「めしべだ、濡れてる。おまえさんに、そっくりだ。」
つぶやくように、グレートが言った。
めしべの先を、人差し指と中指でそっとはさみ、もっとそっと、口づける。
それを見て初めて、そっくりだと言われている理由に思い当たり、ハインリヒは、グレートの仕草に、思わず頬を赤らめた。
「死者に手向ける花だ。死神の掌にこそ、ふさわしい。」
百合を差し出しながら、グレートが言った。
「受胎告知はどうする?」
頬の赤みをごまかすためと、グレートの言葉への照れ隠しに、ハインリヒは、そう混ぜっ返した。
「・・・・・・生への執着は、死の訪れる、生身の人間に、まかせればいい。」
百合は、ふたりの会話になど興味はないとでも言いたげに、ふたりの間で、横を向いた。
「人は死を恐れる、我々は、死に焦がれる。」
歌うように、グレートが言った。
「ゆえにワガハイは、死神に、恋焦がれる。」
あまりにさらりと口にされ、ハインリヒは、流れる言葉の意味をつかみ損ねて、一瞬遅れて、不様に首筋に朱を散らす。
「死神は、ワガハイを、世界の終わりに導いてくれる。永久にでは、ない。それでも、世界の終わりに、身を横たえることを、許してくれる。」
そして、とグレートは言葉を継いだ。
「世界の終わりには、死者に手向ける花であり、死神の化身である、この花こそ、ふさわしい。」
まるで、ひとり芝居のようだった。
グレートの声に酔いながら、百合の匂いにも、酔い始めている。
世界の終わり、とハインリヒは思った。
百合のあふれる、大地の終わり。おそらく暗く、そこを越えるのは、死者しかいない。白は死者の色。そこに、黒々と影を背負って、ハインリヒは立ち尽くしている。生の辺境、世界の終わり。死神である自分に許される、最後の場所。
黒い姿の自分の傍に、寄り添うように立つ、人影を見た、と思った。
ふと我に返り、また、眩しい世界に引き戻される。
欲情の花。死神の花。世界の終わりに咲き乱れる、生の執着の証のような、死者のための花。
グレートの首に、ハインリヒは右腕を回した。
「・・・・・・それなら、光合成を、しよう。」
グレートが、くくっと、応えるように、喉の奥で笑った。
唇を重ねながら、グレートの手から、百合を取り上げた。
また、百合の香りに、空気が濃く揺れる。
眩しい光の中で、植物の緑が、太陽の光線を吸い込むように、ふたりは素肌を晒して、抱き合った。
ハインリヒのめしべの先に触れながら、百合とそっくりの濡れ方を、グレートがこっそりとからかう。
「じゃあ、アンタはおしべか?」
淫らに、そのくせ奇妙に清らかな微笑みを浮かべて、ハインリヒは、グレートに手を伸ばした。
胸を重ね、躯を繋げる。背中を、冷たい床から持ち上げて、ハインリヒは、グレートの背中にしがみついた。
その肩越しに、ふとキッチンから、こちらを見ている百合の群れが見える。
グレートに揺られながら、自分の姿を、風になぶられる、百合のようだと思った。
眩しさに耐えられないふりをして、ハインリヒは、ぎゅっと目を閉じる。
まぶたの裏の薄闇は、世界の終わりの闇に似ている。
かんなえりこさま。
ええ、イメージぶち壊しました。しかも、センスのかけらもなく。
百合を書きたくて、むりやりこじつけましたが、どうやら玉砕です。
世界の終わりに、突き飛ばしてやって下さいませ。すいません(謝)。
ところで、私信ですが、1万ヒット、おめでとうございます(爆)。ほんとは、お祝いの捧げものも兼ねちゃおうなんて、たわけたこと言ってましたが、ハイ、うわ言です。忘れます。
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