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追悼その2 - 2002/05/15(Wed)
 Layneのことが、もちろんまだ痛い。
 彼らの音も、もちろん聴けないし、それを見越したように、いつもならそれなりにある、ラジオやTVでのencounterも、あれ以来、まだない。
 神様は、やっぱりどこかにいて、まだまだ時間が必要だよな、と思ってくれてるのかもしれない。その神様は、以前Layneって名前だったのかもしれないけど。ははは。
 Linkin Parkばっかり聴いてる。それしか、以来聴いてない。AちゃんSは、怖くて聴けない。
 色んな、まだ自覚するには生々しすぎる感情が、聴いた瞬間一気に押し寄せて来そうで、まだ心の準備が出来てない。
 Layneについてのことは読める。聞ける。書ける。考えられる。話も出来る。でも、聴けない。あの声を聴いた途端、自分の中の何かが、ほんとうの逝ってしまいそうで、怖い。いや、実際には、もう逝ってしまってるのに、それがないことを、ほんとうに認識してしまうのが、怖いのかもしれない。
 死んでしまった自分の一部と、まだ生きている自分の一部。生きている部分は、いっそ一緒に死んでしまうかと思うかと思えば、いや、もっと頑張って、失った部分を補って生きて行かなきゃと考えたり、少し落ち着いて以来、葛藤しまくってる。
 体の一部を失ってしまった人は、こんな気分で、変わってしまった自分の体を眺めるんだろうか。もしかして。

 案の定、Jerryを責める発言が、どこやらであったらしい。長年の保護者だったJerryに対して、もっと気をつけてやれなかったのか、そんなとこじゃないかと思う。
 そう思ってるのは、Jerry自身だろう。そして、これで良かったんだって、そう思ってるのも、Jerry自身だと、思う。
 ヤク中と付き合うのは、ほんとうに骨が折れる。薬はマジで人格を変えてしまうので、ほんとうに神様みたいな心境になるか、自分もヤク中になるかしないと、とてもまともには付き合いきれない。
 うっかり薬を買い忘れて禁断症状が苦しいとか、金が足りないとか、ロクでもない代物をつかまされて死にそうだとか、売人のところに行くのに足がないとか、売人とケンカになって困ってるとか、とにかく、そういうことで、夜中だろうと朝っぱらだろうと、呼び出されかねない。そして見返りは、何にもない。
 せいぜいのところ、気の毒な友達を助けてる、という、ささやかな、けれど彼のそんな悪癖を助けてるだけだという苦い自己嫌悪の混じった、自己満足くらいしかない。そして、自分がいかに無力かということを、しっかり深く自覚する、必要のない機会。
 で、誰が、ヤク中なんかと付き合いたい?
 Jerryがそれをした。少なくとも、10年以上。
 もちろん、Layneに対する真摯で純真な友情だけだったなんて、そんなこと言わない。ある種の、愛情だったとは、もちろん思う。でももちろん、バンドに対するJerry自身の野心とか、バンドのフロントマンを変えるのが、バンドに対するマイナス要因にしかならないと、そこまで読んだJerryの計算とか、まあ、諸々あったことは、間違いない。
 でも、それを事実としても、JerryがLayneを見捨てなかったという事実は、まだ歴然と残る。
 そう、Jerryは決してLayneを見捨てなかった。Layneが世間を見限っても、まだJerryはLayneを見捨てなかった。
 Jerryだけじゃなく、AちゃんSは、辛抱強く、Layneがいつか戻って来るかも、っていう、砂粒より小さな希望を、最後まで捨てなかった。Layneは、本人が自覚してたとか、ありがたがってたとか、そういうことはともかく、愛されてた。こんなにも、強く深く長く、unconditionalyに。
 だから、余計に、悲しい。

 Layneは、どう見たって長生きしたがってたとは思えないし、本気で薬を止めようと思ってたとは、全然思えない。むしろ、周囲のヤク中仲間が次々死んで行く中で、どうして自分にだけ、その幸運(他の人にとっての幸運では、もちろんない。ただ単に、Layneにとっての、幸運)が訪れないのかって、本気で思ってたに違いない。自分だけが取り残されて、寂しかったろうし。
 長い、緩やかな、自殺。それが彼の人生。
 誰も、彼が望むようには彼を愛せず、けれど、彼を殺したいほど憎むわけでもない。
愛が欲しかったんだよね、Layneちゃん。でなかったら、自分をさっさと殺してくれる人が、欲しかったんだよね。
 生きるって、難しいよね、Layneちゃん。

 一応日常生活は保ってるけど、あまり平静では、ない。
 この悲しみを乗り越えるとか、そういうことは、実はあまり考えてない。悲しいまま、それが自分の一部になってしまうのを、じっと待とうと、思う。それが、こいつが失くしてしまった自分の一部の隙間を、埋めてしまうのかもしれない。
 空っぽで、寒くて、悲しくて、痛い。そして、でもどこかで、彼と彼の友達のために(特に、多分、Jerryのために)、これはきっとある意味幸せなエンディングなんだと、思ってもいる。
 血も涙もない極悪人と呼ばれるなら、それでもいい。誰にもわかってもらえなくてもいい。だって、Layneが生き続ける方が幸せなんて、誰に言える? 彼があんな死に方をしたのが不幸だったって、誰にわかる?

 Layneはこいつの中にいる。相変わらずの、あの消え入りそうな風情で。一生変わらず、ここにいる。
 それが、Layneが連れて行ってしまった、こいつの一部の代わり。
 愛してるよ、Layneちゃん。まだかなり、悲しいけど。
 
もうひとつの現実逃避 - 2002/05/20(Mon)
 今ちょっと、音楽が聴けない。好きなのが、全然聴けない。
 そういうののせいではないと思うけど、でも実はそのせいなのかもしれないけど、ぽっかり心に穴が空いて、それを埋めようとする、無意識の防御体制なんじゃないかと、実は秘かに思ってるけど、突然、サイボーグ009が、愛しい。
 石森章太郎は、昔から好きだったし、何しろ幻魔対戦はちゃんと映画館で観たし、まあ、マンガの方は集め損なったけど。で、そういう中で、サイボーグ009は、もちろん超お気に入り。アニメは、塾の時間と重なって、一度も見れなかったけどさ。ちっ。

 当時から、お気に入りだったのは002と004。特に004。アルベルト・ハインリヒ。身体中武器だらけの、元ドイツ人。
 嫌味なくらい現実主義で、冷静で、そのくせ実は、気を抜くとメロメロに極甘になるという、なんとも好みなキャラクター。
 もちろん、いちおう主人公でリーダーのクセして、気が弱いは優柔不断だはの、島村ジョーこと009を、陰で支える裏のリーダーだったりする。
 ああああああ、早く日本に帰って、単行本全部こっちの持って来たいぃぃぃぃ。読みたいぃぃぃぃぃぃ。
 石森章太郎のキャラクターってのは、いつも何か、ただの正義感の塊っつーより、ニヒリストで、自分勝手を装う、今一つまっとーなヒーローとは言い難いのが多い。
 あれはまさしく、手塚治虫のブッラクジャック路線。偽悪ぶりたいっつーかさ、それが特有の照れ、と言うか。
 今まで、手塚治虫というと、うちのお袋の趣味ってので、まあ、ご本人も何しろ神様ってので、いわゆる歪んだ視線で眺めたことはなかったんだけれど、なるほど今更言われて見れば、手塚治虫も石森章太郎も、そこはかとなく色気の漂うキャラが多い。
 今みたいに、同人作家の目を気にして作品を描くってのが、それほど重要ではなかったろうから、あの色気はもちろん、そういう路線の受けを狙ったものでは、もちろんないと思う。
 まあ、怖いけどさ、ああいう大御所が、同人作家なんぞの目を気にして描くなんてことがあったら。
ちなみに、手塚治虫は、どこかの講演か何かで、大人に嫌われるマンガがいいマンガなんです、なんておっしゃって下さったらしい。かの、大人に嫌われるマンガ家No1喜国雅彦(こいつ好き)は、それで、そっかー、オレはこれでいいんだ、よっしゃー、と決意を新たにしたらしい。手塚先生、罪作り(爆笑)。
 話がそれた。
 いやだから、何を言いたいかと言えば、004って色っぽいな、って、ただそれだけ(瞬殺っ)。
 いいよなぁ、日本にいるとアニメが見れるんだよね。見たいなあ。
 004のせいで、最近ソワソワしてるので、同居人の目が冷たい。西部警察にハマってた時も、何か、お願い、スーツ着て、角刈りにして、サングラスかけて、ショットガンかまえてっ、とかって無茶を言って、白い目をされたよな。いいじゃん、人の趣味にケチつけんなよな。そっちだって趣味悪いくせにー。
 ・・・・・・こういうのを、何とかが何とかを笑う、とか、五十歩百歩とか言う(笑)。
 まあ、そういうわけで、今だけとりあえずハイだったりする。恋をするって、大事だと思うんだ(爆笑)。

 とりあえず、しばらくこの調子でサイボーグ009。裏コンテンツも、これのせいで増えそうで、ちょっと怖い今日この頃。
 
フリーク・フェチ - 2002/05/24(Fri)
 好きな漫画家は腐るほどいますが、死ぬ時まで好きな作家というと、やっぱり大御所、手塚治虫、それに多分石森章太郎。
 歴史は巡るというか、けっこうネット上で彼らの作品について語ってる人達や、パロで遊んでる人達がいて、そういうちょっと斜めな部分からも、彼らの作品を楽しんでる今日この頃。
 そういう中で、ちょっと考えてみたりしたんだけれど・・・どちらの作家も、やたらと不完全な人間にこだわりがないかなって?
 手塚治虫の代表作、ブラックジャック(以下BJ)は、体中傷だらけで、しかも顔半分の皮膚の色が他と違うっていう強烈なキャラクターだし、さらに彼は、過去に受けた心の傷のせいで、かなりな天の邪鬼、というのもある。いわゆる彼は身体障害者と呼ばれる立場にあったりする(した、かな、少なくとも)。
 彼の助手兼同居人で養女のピノコは、体中がばらばらで生まれて、それをBJにくっつけてもらって、とりあえず普通の体にしてもらったってな過去がある。
 他には、どどろの百鬼丸。生みの親のエゴで、体の色んな部分を妖怪に奪われて生まれてきたっていう、とんでもねーキャラだし。
 彼の相棒のどどろは、背中に、財宝を埋めた場所を記した刺青を背負い、おまけに男の子のふりをしてるっていうオマケ付き。
 マイナー系では、きりひと讃歌の主人公切人(こういう字を書いた、と思う)は、発病すると外見が犬のようになるっていう奇病に感染し、日本社会から完全に隔離される。
 この切人と一緒に行動する羽目になるのが、色情狂で殺人マニアの、サーカスの女、とか。
 こいつのお気に入り、MWの主人公(名前、失念)は、売れっ子歌舞伎役者の弟で、女を利用しては捨てたり殺したり、その一方で、本命は幼なじみの牧師、という、倒錯度では、手塚治虫のキャラの中では群を抜くと思う。
 彼は一体どこから、こういうキャラを生み出すアイデアを得てたんだろう? 実に疑問だ(爆笑)。
 ぶっ飛んだ同人作家でも、ここまでツボにはまったキャラっつーのはないんじゃなかろうか。しかも、彼の恐ろしいところは、ここまでブっ飛んだキャラに、異様な現実性があるってことである。
 この辺りが、やっぱり天才たる所以か。フリークのオンパレードにくらくら。
 一方、石森章太郎は、何しろ代表作が改造人間キカイダー。仮面ライダー。(超能力者の集団が主人公の)幻魔大戦。それに最近アニメが人気らしいサイボーグ009。
 彼はどうも、悪者(世界征服を企んでる)に捕まって、半分機械の体に改造されてしまう主人公、というのに、ほとんどフェティッシュとも言えるこだわりがあるような気が、する、のはこいつだけ?
 まあ、どれもこれも、機械化されてしまった自分に対して、まともな人間じゃないんだ的なコンプレックスがあって、そのために、自分を改造した連中を憎み、結果として、征服されようとしてる世界を守る羽目になるっていう、まあ、まっとうなヒーローとしても、何だかこう、屈折した面があったりする。正義感から世界を守るのではなくて、自分自身の、一種の単純な復讐が、たまたま世界を守ってるように見えてるだけっていう。
 石森キャラは、そういう意味で、いつも何だかこう、斜に構えて世界に向かってるように見える。ニヒリストって言うか。でなきゃ、まっとうな正義に対して、何かこう、照れがある、みたいな。
 自分がまともな人間ではないって言う、単なる思い込みではない事実が、どちらの作家のキャラを、ひどく魅力的にしているのは、これまた否定できない事実で、あの現実味のなさが、彼らの作品を一層作品として面白いものしてるというのも、これまた事実。
 キャラとしてはお子様向けなんだろうけど、作品が含む、作家からのメッセージってのは、決して子ども向けではないと思う。
 どちらの作家も、自然破壊を破壊する人間に対して(そういう人間の傲慢さに対して)、秘かに警告を発してる部分があったし、特に手塚治虫(石森章太郎の経歴はあんまり詳しくないので)は、戦争を青年として経験した分、道徳や正義っていうのが絶対的なものではなく、その時その時で都合よく変えられてしまう、っていうのは身にもしみてたろうし。
 人生の虚無、みたいなものを、マンガ家が、現実味のない、非常に異質な存在(キャラ)を通して、マンガとして表現してるってのは、こいつはすごく面白いと思う。
 彼ら自身、天才と称されることで、世間的には充分異質な存在だったろうし、まあ、彼らの頭の中は、いわゆるフリークと称されるに充分な、気狂いじみたアイデアで、満たされてたろうと思う。
 名前を言えば、誰でも知ってるような大御所作家ふたり(故人であるけれど、もう)が、何故か、違うレベルであるけれど、フリークと称されるだろうキャラばかりで作品を描いたって辺りが、何だかこう、思わずほくそ笑みたくなったりするんだけれど、こいつは。
 早く日本に帰ってマンガが読みたい。ドラエもんだっていい(爆笑)。近頃、やたらとDr.スランプアラレちゃんが読みたいんだが、どうしてだろう。
 まあ、一番読みたいのは、サイボーグ009なんだけどさ(爆死)。
 次回は、ガクラン八年組について語ってみよう。誰も知らねえよ、そんなマイナーな作品。いいけどさ、別に。
 結論もなく、突然終わり(殺っ)。


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