丑三つの頃
眠れずベッドを抜け出して、何となく思いついて、酒のグラスをふたつ出した。ひとつにはウイスキーを指の幅ふたつ分、もうひとつにはひとつ分で、氷のかけらをふたつ。指幅ふたつ分の方を手元へ置いて、氷入りのグラスの方は、寄り掛かったカウンターの何もない右側へ、腕の長さ分の距離の向こうに置いた。
今さらもう、飲み過ぎの心配もないだろうから、深夜にこんな振る舞いも悪くはないだろう。どこかを、もしかすると迷子のようにうろうろしているかもしれないあの男が、今夜は不意の気まぐれで、酒の匂いに惹かれてここを訪れてくれないとも限らない。
もっとも、彼がまず訪れる先は、愛妻と、よく出来た養子の息子と、長い長い付き合いの人々と、そうやって思い浮かぶまま並べれば10年掛かってもその訪れは終わりそうになく、自分の番が回って来るのは百年先かと、灰褐色の目を細めて、ふっと穏やかに微笑む。
「貴方が今どこにいようと、元気ならそれでいいですがね。」
死者に向かって、元気ならと、我ながら可笑しな言い草だ。自分で自分を嗤って、シェーンコップは再び酒を口元へ傾ける。
夢寐の訪いを待ち切れずに、防腐処理の施された遺体を、まるで自分の胸を抉るように訪れ続ける。青白い、眠っているだけのように見える彼を、強化ガラスの棺の中に見下ろすたび、いつ目を覚ますつもりかと、なじるように語り掛けて、斧を振り下ろしてそこから彼を取り出し、誰も知らない星にでも逐電しようかと、愚かしいこともずっと考え続けている。
誰にもそんなことは語らない。
いつだって、失ってから気づくのだ。胸に空いた穴の大きさを、見下ろして驚いて、そこから流れる血の量に驚愕して、いつまでも塞がらず、乾かず、流血の止まらない断面が次第に広がる様を、為す術もなく眺め続けている。
驚きの大きさが痛みをごまかし、自分の傷の深さに気づくのは、ずっとずっと後だ。
戦争の煩いはなく、腐り切った政治にかかずらわることもなく、好きな酒と好きな本を手元に置いて、あの男は今、穏やかな時を過ごしているだろうか。
あるいは、置き去りにする羽目になった人々を心配して、彼もまた、あちら側で心を痛めているのだろうか。
──貴方が今考えているのは、誰のことですか。
新婚の夢も覚めやらぬまま、残して行った妻か、まだ少年期を抜け切らずに、彼の後継者に据えられてしまった息子か、あるいは彼を常に後方で黙って支え続けた、幸せな家庭持ちのあの男か。
自分ではない。それだけは確かなことのように、シェーンコップはまた自分で胸の傷をわざと引っかくように考えた。
こんな時に思い出して味わえる、彼と交わした他愛もない言葉のやり取りの記憶はなく、どれもこれも血なまぐさい、殺伐とした話題ばかりだった自分たちの関係を、彼が今懐かしく思い出すわけもなく、せめて彼が最期の時に思い浮かべた顔の中に、せめて自分のそれが含まれていたことを夢見るのがせいぜいだ。
彼の夢を見たと、誰かが語る。相変わらず飄々と、眉の下がった困り顔だったよと、誰かがそんな風に彼を描く。
シェーンコップは、氷が静かに溶け続けるグラスを見やって、知らず奥歯を噛み締めていた。
「次に貴方に会えるのは、一体いつにしましょうか。」
まるでその時を選べるかのように、シェーンコップはグラスに向かって話し掛けた。
からんと、グラスの中で氷が溶けて滑り、立てた音を答えのように聞いて、シェーンコップは思わずそこに彼の姿を探した。
グラスに巻かれた指。くしゃくしゃと、常に収まりの悪い黒髪をかき回していた、彼の指。
その手を取りたいと、思っていた気持ちはまさか伝わっていたのだろうか。一方通行の秘めた想い。告げられるわけもなく、いつかはと、夢見るように思っていたその機会は、すでに失われている。
提督、とシェーンコップは思わずグラスの方向へ向かって呼び掛けた。
再び応えるように、グラスの中の氷が鳴る。そうして、ふっと空気の揺れた気配に、確かに誰かが、何かがそこから去る後ろ姿を見たように思った。
「ヤン提督・・・!」
絞るように出した声は終わりがかすれ、それが涙に湿るのに、シェーンコップは必死で耐えた。今まで耐えたのなら、これからもずっと耐えられるはずだ。泣くのは、すべてが終わって彼と再会した時だ。恨み言と一緒に、あの襟首を引っ掴んで、肩口に顔を埋めて、好きなだけ泣き喚いてやる、俺を置いて行った罰だと、シェーンコップは今心の中で叫んでいた。
その声を聞き取ったように、気配がそこで立ち止まり、シェーンコップの方を振り向いた。
眉の下がった困り顔をそこに見つけ、けれど伸ばした腕の先で、空気の中にかき消える。
ただの幻。深夜の薄暗いキッチンで、物の影の重なりが見せた、シェーンコップのひそやかな願望。
自分のグラスを空にして、そしてもうひとつのグラスも空にして、さっさとベッドに戻ろうと思うのに、シェーンコップはまだ動けずにいる。
溶けて小さくなった氷が、もう触れ合うこともなくただゆらゆらと、琥珀色の液体の中で揺れていた。