背中まで5分
まぶたがひどく重い。階段を上がる足も重かった。後に残した血まみれの足跡、今は自分の流した血溜まりの中に腰を下ろし、シェーンコップは膝の上のトマホークの重みに、自分の体が地の底へ落ちてゆくのかと思う。ああそうだ、落ちてゆくのだ。あそこへ──。
どこへ──?
ヴァルハラは、上がってゆく先ではないのか。いや、この重さはどうだ。こんな重い体を、誰が引き上げてくれると言うのだ。そうだ、自分は落ちてゆくのだと、狭まる視界へ向かって唇の端をわずかに上げて、ワルター・フォン・シェーンコップは切れ切れに考えている。
目の前は銀世界だった。ふっくらとした雪にまみれ、吐く息も輝く光も、何もかもが白い。この雪をどかせなければ、今日は車も出せない。街へゆくと彼が言っていたではないか。
彼──?
シェーンコップはしっかりと首にマフラーを巻き付け、ブーツの足元が滑らないように気をつけながら、幅広のシャベルで雪をかき始めた。軽い、空気をたくさん含んだ雪だ。乾いた空気が皮膚をぴりぴりと刺し、けれどじきに上がった体温で、マフラーの下の首筋に汗が浮かび始める。
彼──?
シェーンコップはまた考える。誰のことを言っている? 彼? 俺はここで何をしている。彼と? 彼とは?
すべてが自明の理とでも言うように、シェーンコップの頭の中に浮かぶ疑問は、どれもこれも些細なこととして、シェーンコップ自身が笑い飛ばして消し去ってゆく。
彼だ。彼に決まっている。それ以外に誰がいる。この俺が、一体他の誰と一緒にいると言うのだ。
車の通る道は8割方きれいにしたと、シャベルの柄に両手を重ねて載せ、体を伸ばした時、背後の家から声がした。
「おはよう。何だもう終わってしまったのかい。」
少し低い、柔らかな声。教壇で、学生たちに向かって講義でもすればさぞ似合うだろう、いかにも学者風の、その声。通りが悪いように思えるのに、ぴしりと何か言うと何万光年の先へも伝わるような、シェーンコップの耳には常に心地の良い、彼の声。
「街に出たいと言っていたのは貴方だ。」
「──そうだった。わたしの方が早起きすべきだったな。」
声に、軽く笑いが加わる。目を細めて笑う彼へ、シェーンコップも目のなくなるような笑い方を見せた。
ヤン・ウェンリー、自由同盟軍元元帥。ヤン提督と、それ以外の呼び方をシェーンコップは思いつけず、こんな風に軍服をもう着る必要もない人生を送っていても、ヤンは永遠にシェーンコップにとっては上官以外の何者でもない存在だった。
シャツを2枚重ねて、それきり上着も着てない。そんな格好では風邪を引いてしまうと、シェーンコップは小言を飲み込んで、玄関のポーチに立っている彼に近づいた。
「提督、せめて何か上に──。」
自分の体温でぬくまったマフラーを外して、それをヤンの首へ巻きながら、シェーンコップの目だけはまだ笑ったままだ。
「ああ、大丈夫だ、部屋はもうあたたまってる。君がコーヒーでも飲まないかと思って──」
体温は上がっていても、手や顔は冷たいままと知りながら、シェーンコップは目の前のヤンに触れずにはいられずに、眼下の額に自分の額を寄せた。さりっと、色も柔らかさも違う髪がそこで重なり絡まり、さっき雪をシャベルですくったと同じような音を立てる。
「君こそ、風邪を引く・・・。」
ヤンが、上目遣いに低く言った。白い息が自分の唇に掛かり、そのわずかなぬくもりに、シェーンコップは思わず目を細める。自分を見る彼の瞳は、今は底なしのようにも見えながら、宇宙で見慣れていた時よりもわずかに明るい色で、この瞳も皮膚も髪も、宇宙の闇と人工の光の中ではなく、こうして輝く陽の明るさの下で見るべきものだと、シェーンコップは思った。
「貴方は紅茶でしょう。私もそれで結構。」
「たまにはコーヒーも悪くないと思ったんだが。」
「──貴方にコーヒーを飲ませたら、ユリアンが紅茶のポットを抱えて飛んで来る。」
「はは、それもそうだ。」
ここはどこなのだろうと、シェーンコップは頭の片隅で考える。ふたり肩を並べて出掛けた小さな街には案外と気の利いた店が揃い、本屋でヤンは目を輝かし、ふたりそれぞれ好きな酒を買い、夕食はどうするかとごく自然に小さなレストランへ入って、片隅のテーブルで少しのワインで食事をする。丸いテーブルの、片側へ肩を並べるようにしながら、テーブルクロスの陰で、ふたりの膝と爪先が触れ合っていた。
帰り道、車へ向かう道々、そっと腰へ回した腕をヤンは拒まず、それは両手が買い物の荷物で塞がっていたせいかもしれなかったけれど、シェーンコップは、今ここで口づけを誘っても構わないのだろうとすら思った。
これは、シェーンコップが夢見た世界だ。戦争が終わり、用無しの軍人たちが、その後の憂いも煩いもなく暮らす、ただ平和な世界。現実なら、恐らくシェーンコップには平穏過ぎて耐えられはしない世界だ。
けれど、夢の中でなら。そして、彼と一緒なら。
本の山に囲まれて暮らす彼の傍らで、シェーンコップも、今は磨くのは車と猟のための銃くらいだろうか。同じように血にまみれても、それはもう人の血ではない。シェーンコップが狩るのは、帝国軍ではない。
ヤンのために、誰かの首を求める人生。悪くはない生き方だった。人に指図されるほど嫌なことがない自分が、膝を折って従いたいと思った男だった。帝国風なら、我が君と呼べたのだろう。私の貴方、貴方の私、そのような表現のない同盟側の語彙には軽く失望しながら、若いと言うよりは稚ない風貌の彼の、シェーンコップが愛したのは頭脳だけではなく──。
一体、何だったのだろう。あれほど、自分をひきつけたのは、一体彼の何だったのだろう。底なしの闇色の瞳。見ているだけで吸い込まれそうな、どんな光もすべて無にする、あの瞳の色。同じほど濃い、彼の髪色。息苦しいと言うほどではなく、それでも指をもぐり込ませれば強く絡みついて来る、あの髪。少年めいた横顔の、頬骨の目立つ線。それとは不似合いに、思いがけずやや低い、彼の声。あの声で呼ばれる、自分の名前。
帝国での発音とは微妙に違う、同盟での共通語の発音からもわずかに外れる、彼の発声。あの音は一体どこから来たものか。彼の父親か。彼の母親か。見知らぬ彼の家族の、彼に言葉を口移しにする、彼と良く似た顔立ちを、シェーンコップは思い浮かべようとした。
子どもの彼を知らず、少年の彼を知らず、三十路の男に、まさか惚れるとは思わなかった。恋い焦がれると言う、自分にとっては冗談にならない状況に追い込まれて、まさか今際の際に、こんな夢を見る羽目になるとは。シェーンコップは胸の中で高笑いする。
そう言えば、彼が声を立てて笑うのを、あまり聞いたことがない。静かに喋り、激昂すると言うことはなく、その沈着さを嫌味と取る輩もいたことだろう。
車を降りると、もう月が出ていた。荷物を下ろそうと後部座席へ回った彼の肩を引き寄せ、開いたままのドアの陰で、シェーンコップは彼の唇に触れた。
冷たい唇だった。月明かりに青白く照らされ、彼の皮膚も同じほど青白かった。血の気のない目元に昏(くら)さが増し、月の光の下で彼を見たことがあったろうかと、シェーンコップはおぼろな記憶を探る。
抱き寄せた体の間にわずかに隙間が空くと、彼がひどく申し訳なさそうな顔をして、ごめん、と呟く。
「何がですか。」
「──君より、先に逝ってしまった。」
いつの間にか、洗いざらしのシャツは消え、見慣れた軍服姿になっている。ベレー帽は耳へ傾き過ぎ、今にも滑り落ちそうになっている。
「提督──?」
「血が、止まらないんだ。」
ヤンの腿から流れ出した血がシェーンコップの脚を濡らし、膝から靴へ血の染みを広げている。ふたりは、血溜まりの中で抱き合っていた。
「・・・貴方の血だ。」
「君のでもあるよ。」
「それなら、いい──。」
シェーンコップの背中へ回っているヤンの掌が、そこへ突き立った斧を抜き取り、どこかへ落とした。吹き出した血でヤンの手は濡れ、いっそう強く自分を抱きしめるヤンを、抱き返す力が、シェーンコップにはもうない。
「私の方こそ、間に合わなかった。」
「誰も間に合わなかった。君だけじゃない。わたしがあそこで死んで、ずいぶん迷惑を掛けてしまった。」
「それは・・・貴方の気にすべきことじゃあない。」
ヤンが、シェーンコップの胸に額を当てて、押し黙る。足元の血溜まりは広がる一方で、今は自分が吐いた血がヤンの髪を汚すのを気にして、シェーンコップはヤンから体を離そうと思うけれど、もう足が動かない。
ヤンは軽く背伸びをして、シェーンコップの肩へ顎を乗せた。
「──もっと、ゆっくり来てもよかったんだ。私は、のんびり本でも読みながら、君やみんなを待つつもりだったんだ。」
「それが戦争と言うものでしょう。みんな死ぬ。遅かれ早かれ、みんなヴァルハラへゆく。」
「・・・君は、もう150年生きるつもりじゃなかったのかい、殺しても死なない男だったはずじゃないか。」
低まっていた声が、やや軽口で明るくなった。シェーンコップも、釣られて口元へ笑みを浮かべ、もう一度接吻をと、思っただけで呼吸は間遠になってゆく。
「貴方こそ、私は、死ぬなど永遠にないと思ってましたよ、ヤン提督。」
死んで欲しくなどなかった。あれほど、胸の引きちぎれる思いをしたことはなかった。人の形にぽっかりと胸に穴が空くなど、小説の中のことだけだと思っていた。胸の穴に風の吹き通る、自分の骨の鳴る音を聞き続けた1年、ヤンなしで生きると言うことは、無人の荒野をひとり歩き続けると同じことだと思った。宇宙の闇の中にひとり取り残され、同じ色の彼の瞳を見たいと、全身を切り裂かれる痛みに耐えながら思い続けた。
その痛みと引き換えに、今シェーンコップはヤンを抱きしめている。
「ヴァルハラはもう少し先だよ。じきに着くがね。」
「貴方がここにいるなら、ここが私にとってのヴァルハラだ。」
ヤンの胸がいっそう寄り添って来て、ふたりの足元へ波紋が走る。もうゆるく固まり始めている血溜まりは、波紋をとどめて時間を止めた。
シェーンコップと、宇宙の闇の底からのように、ヤンの声に呼ばれ、シェーンコップはゆっくりと目を閉じた。
階段の上で、垂れた頭の重みに引きずられてシェーンコップの体が傾いた。膝からトマホークが落ち、先に派手な音を立てて下の帝国軍人たちの足元へ転がって来て、それを追って、シェーンコップの体がごろごろと力なく落下して来る。
彼らは、鬼神のように戦ったローゼン・リッターを恐れ、シェーンコップの体から慌てて飛び退きながら、何十秒かの後に、彼がもう身じろぎもしないことを何度も何度も確認して、ようやくその体の傍らへやって来る。
死体になったシェーンコップの口元には、満ち足りた笑みが淡く浮かび、血まみれの姿には似つかわしくなく穏やかな死に顔に、帝国軍はいっそうの恐怖を煽られたけれど、誰ともなくそこに転がった彼へ向かって敬礼し、残りも次々に同じ姿勢を取った。
ふとそこに、誰かが立っているような気配を感じて帝国軍のひとりが視線を回し、何も見つけられないままゆっくりと敬礼の腕を下ろすと、沈み込むような深い嘆息の後に残るのは、もう沈黙だけだった。