Mr. Scary
今日は10分近く遅れている。出府の定刻まで後7分。フェルナーは自分の席でちらりと時計で時刻を見て、もう2、3分だなと、挨拶のためにいつでも立ち上がれるように気持ちの準備だけはした。予想通り、それから2分を10秒ほど過ぎたところで軽い足音がし、警備兵が開いた扉から、影のように軍務尚書が細い体を滑り込ませて来た。
フェルナーはもう扉が開いた瞬間には立ち上がっていて、オーベルシュタインが部屋の中へ2歩目を踏み出した時には挨拶のために腕を上げ、オーベルシュタインが自分の目の前を通り過ぎる前に、その傍らへ走り寄っている。
ドアが閉じられていることを確かめてから、
「失礼いたします、閣下。」
駆け寄る掌の中には、服の生地をこすって糸くずなどを取り去る小さなブラシが隠れている。
オーベルシュタインが、言葉と同時に自分の足元へしゃがみ込むフェルナーを一瞥して、無言で机へ向かう足をそこで止めた。
スラックスの膝から下、裾回りへ丁寧にブラシを走らせる。白い短い毛をきちんと取り、癇症に磨き上げてある軍靴の表面へ、今日こそ自分の顔が映っているのではないかと、半ば期待しながらちょっと顔の角度を変え、やはり見えるわけもないと分かると、今度はマントの裾をそっと掴んで、そこにもやはりある白い毛を丹念に探して取った。
立ち上がり、ブラシを背中の後ろへ隠しながら、軽く頭を下げる。
「失礼いたしました、閣下。」
オーベルシュタインは慇懃無礼な部下の態度に、よく見てやっと分かる程度に、単に確認の意味であごを引いて応え、感謝の念など唇の端にすら上らせない。
オーベルシュタインの出府の時刻は、きっかり定刻15分前だ。フェルナーは定刻ぴったりを常にしているのだけれど、新しい上司を見習って、少し早めを心がけるようになった。別におもねるつもりはない。今までの上官は定刻ぴったりさえ珍しく、30分も遅れて来るのが普通、1時間程度など遅刻のうちにも考えないのが当然だったから、上の人間など皆そんなものだと思っていたフェルナーは、定刻の出府に既に執務を始めていた新しい上司に驚き、翌日は5分早くやって来て、4日目にやっとオーベルシュタインが15分前を常にする上司だと知った。
オーベルシュタインは、10分程度の遅刻にはせいぜい嫌味程度を吐くだけだけれど、15分を過ぎると即座に降格処分だと言う恐ろしい噂が流れていて、今さら降格処分などどうでもいいと思いながらも、この上官には素直に従っておいた方が良さそうだと判断したフェルナーは、15分前では阿諛追従と受け取るに違いないと読んで、一応は合わせていると伝わるだろうと10分前を新たな自分の定刻にした。
オーベルシュタインは、口にも態度にも出さずに、この10分前をある種の迎合、ある種の敬意、そしてある種の不遜と解釈しているようで、そのどれも、特に彼の機嫌を損ねているわけでもないようだった。
妙な人だなと、フェルナーは初対面以来思うことを改めて繰り返し思うだけで、仕事さえきちんとしていれば、フェルナーの人となりになど一向に興味のない素振りの上司へ、慣れるに従ってそれなりの敬愛を感じるようになっている。
部下として使える人間でありさえすればいい、と言うのが、フェルナーへのオーベルシュタインの態度だった。何を考えているのかは分からないけれど、行動原理は案外分かりやすい人だと、フェルナーは思った。
その、仕事以外には何の趣味も興味もないように思える上司が、ある日遅れて出府した。いや、正確には遅刻ではない。単に15分前到着が、7分前だったと言うだけだ。
フェルナーはその日、まだ無人の執務室の中で呆然とし、扉を閉め掛けていた警備兵へ向かって、
「おい、閣下はご無事か? 何かご自宅の方から連絡は?」
と、我ながら問い詰めるように慌てた声を投げて、ちょっと青褪めて首を振る警備兵を突き除けるようにして再び通路へ出ると、オーベルシュタイン邸へ連絡を取るように指示を出そうとして、薄暗い通路をさらに薄暗くする人影がゆっくりとこちらへ向かっているのを見た。
本人がまるで影そのもののように、オーベルシュタインは毛足の短い絨毯の通路を、足がないのではないかと言う気配のなさで歩いて来て、
「騒ぐな。何事もない。今朝は家を出るのに少し手間取っただけだ。」
幽霊のように部下と警備兵のすぐ傍を通り過ぎ、自分で扉を開けて執務室へ入り、フェルナーを振り返りもせずぶ厚い扉を閉めてしまった。
遅れた理由は──遅刻ではないから──一切説明なく、フェルナーももちろん訊くことなどしない。ただその日、オーベルシュタインの後ろを歩きながら、ふわふわと自分の方へ舞って来るマントの裾へ、何となく目を凝らしてそこへ白い毛を見つけた時に、今朝の遅刻──では決してない──の理由を悟って、フェルナーは小さな笑みをそこで噛み殺したものだった。
いらぬ気を利かせるのは、フェルナーの趣味ではなかった。余計なことをするなと、腹を立てる上官が多かったせいもあるし、些細なことで上官が困った立場に立たされたところで、自分は腹の中で舌を出すだけだと言う、横暴な上司を持った部下特有の意地の悪さもあった。けれどオーベルシュタインは、フェルナーに対して冷淡ではあっても理不尽でも横暴でもなかったし、こちらの顔を潰すような叱り飛ばし方はすまいと上司の人となりを読んで、フェルナーは翌日、自分の机の引き出しに、服の埃を取る小さなブラシをこっそり入れた。
なるほど、15分前出府が時折7分前や5分前になるのは、さてと玄関の前に立ったところで、飼い犬にまといつかれるせいか。行かないでと、つぶらな瞳で見上げられて、足元を散々うろうろされ、もしかするとマントの裾を引っ張られたりもするのかもしれない。首をかしげ、くうんといかにも悲しげに切なげに鳴いて見せる。そんな生き物を、知らん振りで振り払って出府できるような冷血漢ではないらしい。
人間には誰彼の区別なく冷然と接する軍務尚書の、唯一らしい泣きどころが飼い犬とは。
この人らしいと、フェルナーは思った。
ブラシを使った最初の日、オーベルシュタインは、冷たい、けれど常よりも強い声で、
「何をする。」
と、明らかに咎める声を足元のフェルナーへ投げて来た。
「今日は、風が強いかと思いまして。」
犬の毛がついているとは言わなかった。あくまで、外から来た埃とその場では言い繕った。気づかないような上司ではなく、次からは黙ってフェルナーへ任せ、咎めもしないけれど礼も言わない。
出府の車の中で、自分できれいにすると言う手は当然あるはずだけれど、運転手にそれを見られるのを嫌がってか、あるいはもしかすると、愛犬の毛を取り去るのがほんとうは心が痛むのかもしれないと、こっそりフェルナーは思った。
真実のところは、フェルナーの、そうした自分への気遣いへの照れ隠しと、なぜかそんな距離の詰め方をして来る部下の態度が不快ではない不思議を自分でも持て余していると言う、その中間のどこかだったけれど、新参のフェルナーにはまだそこまでは読み切れない。読ませるはずもないオーベルシュタインだった。
ブラシについた毛が、今日はいつもより多い気がする。犬に、普段より余計にまとわりつかれたようだ。
犬とはそういう生き物だと思いながら、オーベルシュタインが明らかにこの飼い犬を──人間よりもずっと深く──愛して、犬もオーベルシュタインを慕っているのがよく分かる。
人間からの評判は芳しくない方だが──。
けれどフェルナー自身は、この上司を決して嫌いではなかった。好きかと言われれば、強いて言うなら好ましい方へ天秤は傾きつつある、と答えたろう。
敬愛の強まった理由が、この犬の毛だとは、フェルナーは誰に漏らすつもりもなかった。
面白い人だ。上目遣いに、ちらりと上司を見て、フェルナーは思う。
いつか犬のことを尋ねたら、言葉短かにでも何か応えてくれるだろうか。写真など持ち歩くタイプには見えないが、案外これで、懐ろのすぐ取り出せるところに、愛犬のいちばん良く撮れた写真など忍ばせているのかもしれない。
書類へ目を落としながら、ぼそりぼそり、聞き取りにくい声で犬の話をするオーベルシュタインを想像していると、勝手に口元がゆるんで来る。
慌てて紙の端で口元を覆い、不届きな態度に気づかれてはいないことにほっとして、フェルナーは改めて口元をきちんと引き締めて仕事へ心へ戻す。
オーベルシュタインが、義眼の調子を見る振りで自分を盗み見て、ごく淡く唇の端を上げたのには気づかないまま、また執務の1日が静かに始まった。