シェーンコップ×ヤンとRR

WWの喜劇 1

 「リンツ、貴官、シェーンコップを見なかったか。」
 キャゼルヌがそう穏やかな声で訊くのに、リンツは眉ひとつ動かさず、小官は存じませんと答えた。
 表情から感情を読ませない、そして無駄口は一切叩かないことには定評のあるリンツの、小さな嘘をけれどキャゼルヌは見抜いていて、ほう、そうか、とあごを撫でながら、こちらも表情には出さない。
 「見つけたら、ヤンをおれのところに寄越すように言ってくれ。できるだけ早くだ。」
 「お探しなのは司令官閣下の方ですか。」
 わずかに首を傾げて、リンツがさすがに訝しげに問い返すと、
 「やっこさんを見つければヤンも一緒にいるからな。頼んだぞ。」
 キャゼルヌが、決して凄むわけではないけれど、確かに声を低めてそう言ったのを、リンツはキャゼルヌには見えないように肩をすくめて聞き、あーあーと胸の内でだけため息を吐く。
 WW(ダブリュー・ダブリュー)か。広い肩を回しながら思って、ちらりと腕の時計で時間を確かめた。
 無駄だろうとは思ったけれど、ローゼンリッターたちのたまり場へ急ぐ。
 今日の分の訓練は終わり、シャワーも浴びて全員身綺麗になった隊員たちが、だらしない姿で好き放題に手足を伸ばし、連隊長のリンツがそこへ入って来ても、いい加減に手を振るだけで誰も敬礼もしない。
 「WWだ、居場所の見当のつく奴はいるか。」
 皆の顔を見渡しながらリンツが訊くと、ひとりが部屋の奥の方から、
 「指揮官どのの方は、訓練の時に見掛けましたが──。」
 「いつだそれは。」
 「さあ、2時間も前のことかと思いますが。」
 はっきりしないその答えに、ブルームハルトが、
 「いつもの、"近づいたら俺が直々に特訓してやる時間”じゃないんですか。」
と言い足す。
 「──やっぱりそうか。」
 WWならそれしか考えられない。そうでなければいいと思いながらここに来たのに、やはりリンツの予感が的中して、思った通り無駄足になった。
 「分かった。いつもの通りだ。WWのことは誰にも言うな。訊かれてもオレたちは何も知らんで通せ。」
 「了解!!」
 隊員たちの元気な声に背中を押されて、リンツは渋々その場から立ち去る。
 キャゼルヌがわざわざリンツに声を掛けて来たと言うのは、それなりに緊急の用なのだろう。知らん振りを通すこともできるけれど、司令官であるヤンとは別の意味で自分たちローゼンリッターの生殺与奪の権を握っている人物に、要注意人物扱いされるのは、連隊長としてはできれば避けたい事態だったから、元連隊長で要塞防御指揮官のシェーンコップに殴り飛ばされる覚悟を、リンツは奥歯を噛み締めながら決めることにした。
 WWと言うのは、元々は、一部の下士官たちがごく身内でだけ使っている、コーヒーに入れる砂糖とクリームの量を示す言い方で、砂糖ふたつクリームふたつと言う意味だ。それをどこかで聞いてきたローゼンリッターの誰かが、Wがふたつなら、司令官と防御指揮官のファーストネームもWがふたつだなと言い出したのが始まりだった。
 自分たちからすれば、ファーストネームなど恐れ多くて口にもできない、イゼルローンのTop2への敬意と、そしてわずかな鬱憤──上官と言う存在に対して、すべての部下が必ず抱く感情──と言うようなものの表れ、そして階級で常に語られる彼らに対する、自分たちだけが理解するあくまで微笑ましい揶揄を含んだ愛称、そのようなものだった。大昔の、世界を巻き込んだ戦争を、同様に頭文字を取ってWW(世界大戦)と呼ぶと言う意味も含んでいるのは、いかにもシェーンコップの部下たちらしい皮肉でもある。要するに、部下たちからの、彼らふたりに対する様々な愛情の表現なのだけれど、じきに、そこには他の意味も含まれるようになった。
 司令官と防御指揮官の、他の組み合わせには見られない、奇妙に親密な空気。それが何か、きちんと内実を把握しているのはリンツだけだ。他の隊員たちは、何となくそれを悟って、その親密さも含めて彼らふたりをまとめてWWと呼び、そして彼らふたりが揃って姿を消した状態も、同じようにWWと呼んでいるのだった。
 今では、彼らふたりが揃っていない時は探すな邪魔をするな、と言う意味の、そう呼ばれる本人の、シェーンコップさえ知らない、ローゼンリッター内でだけ通じる隠語になっていた。
 リンツは真っ直ぐシェーンコップの執務室へ向かった。キャゼルヌも当然そうすべきと思ったろうけれど、彼も恐らく、ふたり──特にヤン──の邪魔はしたくはないのだ。結局自分が貧乏くじかと、リンツは閉じた扉の前でまたため息を吐く。
 不在の印の、パネルの赤いランプを無視して、リンツは中へ入った。
 予想通り、部屋の中には誰の姿もない。けれど、この執務室には簡易の仮眠室がくっついていて、入って左側に小さなドアがある。そこは常に鍵が掛けられ、シェーンコップがそこを使っているのを、実はリンツは見たことがない。
 ソファにいたなら、もう少し心が痛まなかったと思いながら、リンツはそっとそのドアへ近づき、ノックをしようと手を上げた。
 ドアの向こうから、小さな声が聞こえてくる。ひそやかな声に抑揚があり、それが旋律に乗っていることに気づくと、リンツはノックしようとした手を止め、目を細めて、少しの間それに聞き入った。
 低めた声の深みは、しゃべる時より少し浅く、それは彼が歌うと言うことに慣れてないせいだ。やや不安定なメロディーへ、恐る恐る乗せる言葉の語尾が危なっかしく震え、それでも、それは穏やかさと優しさに満ちていて、ドア越しに聞いているリンツにも、それが誰に向かって歌われているのか、どんな気持ちで歌われているのか、はっきりと伝わって来る。
 簡素なベッドへ横になって眠っている司令官、その彼の傍らに、ベッドの端に腰を引っ掛けるようにして坐り、その寝顔を見守る自分の上官。帝国語の子守唄。リンツはその歌を知らない。シェーンコップもきっとうろ覚えなのだろう、同じ歌詞が繰り返され、サビの部分ばかり聞こえて来る。
 絵と言うのは、そこにある音までは描き取ることができない。リンツはそれを今ひどく惜しいと思った。
 3度ほどそれを聞いた後、リンツはやっと目の前のドアを叩いた。歌声が素早く途切れ、沈黙が5秒。
 「何だ。」
 歌声よりもずっと低めた、恐ろしい声がやって来る。
 「・・・キャゼルヌ事務監どのが、ヤン司令官閣下をお探しです。」
 「──緊急か。」
 「と、思われます。」
 リンツが答えた途端、足音が移動して来て、いきなりドアが開く。シェーンコップの向こうの暗い部屋の中に、床面積の半分を占めるベッドが、シーツの白さで浮き上がって見えた。
 上着とスカーフのないシャツ姿のシェーンコップは、リンツが予想していたほどは苛立った様子はなく、一応敬礼をしたリンツを無視するように部屋の中へ首をねじり、
 「キャゼルヌの呼び出しなら、無視するわけには行かないなあ・・・。」
 いかにも寝起きのぼんやりした声へ向かって、
 「直接の呼び出しでないなら、それほど急ぎではないかもしれませんよ。」
 確かに、ほんとうに緊急なら、キャゼルヌはシェーンコップの執務室のドアを蹴破ってでも──そんなことができるなら──ここへ来るだろう。そこまでではないから、リンツがメッセンジャーとしてここにいるのだ。リンツの本意では、まったくないけれど。
 「いいよ、行くよ、どうせもう起きちゃったんだし。」
 これが、泣く子も黙るローゼンリッターの、元連隊長ワルター・フォン・シェーンコップの、現在の上官で、イゼルローン要塞の最高司令官だ。
 暇さえあれば昼寝をしているこの司令官は、司令官卓ではもちろんゆっくりと眠れず、自分の執務室は皆が気安くやって来るし、どこかの公園のベンチで眠ることあるけれど、それはあまりに不用心過ぎると言われるようで、一体シェーンコップが言い出したのか司令官からのひそかな命令だったのか、いつの間にかシェーンコップの執務室へ来ては昼寝をするようになり、シェーンコップはそのことを一応秘密にし、ここに始終出入りするリンツはもちろん始まった最初から知っているけれど、黙っておけと言われなくても口をつぐんでいる。
 ふたりが始終一緒にいるこの理由を、ローゼンリッターの隊員たちは気づいているようないないような、リンツもあえて彼らに確かめたりはしない。ふたり揃って姿を消すこの状態を、いつの間にかWWと仲間内で言い出して、シェーンコップを敬愛する同じレベルで恐れてもいる彼ら──リンツも含めて──は、近づくとシェーンコップに容赦なく殴られる──ブルームハルト曰くの、"近づいたら俺が直々に特訓してやる時間”──と思い込んでいる。そうならないために、WWの時にシェーンコップのところへ行くのは、事情を解するリンツだけだ。
 ヤンはネクタイも取り去ったシャツだけの姿で、ブーツも脱いで、完全に眠りのモードだったらしかった。悪かったなと正直に思って、リンツは目覚めたばかりのヤンから視線を外し、立ち去るために、シェーンコップへ向かってもう一度敬礼をする。
 「──失礼しました。」
 ヤンにも聞こえるように声を張ると、ヤンはあくびをしながら片手をひらひらリンツの方へ振って来る。
 シェーンコップがヤンを、まるで生まれたばかりの子猫のように扱うのは、ヤンのこういうところなのだろうと思いながら、リンツは手を下げて出て行くために肩を回した。
 「リンツ、おまえ、今夜は何か用があるのか。」
 シェーンコップに、普段と変わらない声で呼び止められ、爪先は前へ出したまま、顔だけ振り向いた。
 「いえ、特には。」
 「だったら空けとけ。今夜は俺のおごりだ。」
 憮然とした表情は崩さずにそう言い捨て、シェーンコップはドアを閉める。ありがとうございますと、リンツはドアに向かって言い、執務室を後にした。
 ヤンはのろのろとベッドを下り、シェーンコップは、まだ眠そうなヤンのネクタイを締め直してやり、スカーフも巻き、上着を着せてから寝乱れた髪を何とか撫でつける。キャゼルヌのところへ行く前に、どこかの洗面所で顔を洗うように言って、あるいはシェーンコップならそこまでヤンについて行くのかもしれない。
 そんな風に想像しながら、それをいつものように頭の中にすべてスケッチして、ヤンといる時の自分の表情に、案外当人のシェーンコップは自覚がないのかもしれないと突然思いつく。
 描いて見せたら驚くかもな、あの人は。
 あの歌声と同じように、ただひたすらに穏やかな、優しい彼の表情。誰かの寝顔を見守ると言うのは、あんなにものどやかな表情を生むものなのか。
 今夜のおごりは、メッセンジャーの手間賃と口止め料、そんなところか。素直に受け取っておこうと思って、夜までの空いた時間にスケッチができるかなとリンツは考えている。

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