WWの喜劇 2
エレベーターの先客は、要塞司令官と要塞防御指揮官だった。自分たちの直属の上官である防御指揮官のシェーンコップへ、ローゼンリッターたちは、よく磨かれた戦斧の刃よりも鋭い敬礼をし、それから、彼の向こう側からひょいと顔を出し、自分たちへ気の抜けた敬礼をする司令官へ向かって、思わず苦笑がこぼれそうになるのに、全員が頬の内側を噛んで耐えた。
リンツはさり気なく隊員たちと上官ふたりの間へ立ち、ふたりが自分を見て、あまり他の隊員たちへ意識を集中しないようにさせる。
シェーンコップは元連隊長として、当然馴れ馴れしくリンツにも他の隊員へも声を掛けて来るけれど、それもせいぜい1分足らず、じきにヤンの方へ完全に向き直り、隊員たちへは元通り背を向ける形になった。
やれやれ、とリンツは、シェーンコップの大きな背に向かって、見えないように安堵の息をこぼす。ヤンはシェーンコップの陰に完全に隠れて、隊員たちのことは見えないだろう。良かった、と思いながら、自分の後ろの隊員たちへ、おまえたち、黙ってろ素振りにも見せるなと、鋭い一瞥をくれておく。
リンツ連隊長の眼力にもめげずに、年若の隊員たちは興味津々で、これがあのWW(ダブリュー・ダブリュー)かと目を輝かせて、傍の誰彼へ口をぱくぱくさせて、見えないのをいいことに、無礼にも上官ふたりを指差しさえする。
後で説教だと、リンツはその隊員の顔と名前を頭の隅に書きとめ、とは言え、このふたりを見て何となく胸がざわめくような気持ちになるのは理解ができると、自分もシェーンコップの背中と、その肩越しにちらりと見えるヤンのベレー帽を見て思う。
自分たちの連隊長──今では元だけれど──が、防御指揮官と言う重職に就くなど想像もしていなかったし、おかげでローゼンリッターは、近頃では薔薇の騎士団の、"騎士"の部分が過去の記憶に上書きされつつあるようで、名乗って空気が微妙になると言うことも目に見えて減っている。
やっと、まともな軍隊の一部として受け入れられつつあるのだ。リンツは素直にそのことを喜んでいた。
それもひとつには、このふたりの極めて良好な関係のおかげだし、連隊内では、イゼルローンのTop2と言う意味と彼らふたりに対する敬愛──ほんのわずか、苦笑が混じるにせよ──をこめて、こっそりWWとまとめて呼ばれるこのふたりの間の、少なくとも見ていて微笑ましい空気を、隊員たちは隠して歓迎している。
とは言え、秘密の合言葉のようなこの愛称は、知れば司令官のヤンは笑って聞き流すだろうけれど、シェーンコップの反応が分からず、ふたりの仲の好さに対するからかいも当然含まれているから、隊員外には決して漏らさないと言うことになっていて、当の本人たちの前で笑いを噛み殺すなどもっての他だった。
ばれてまず呼び出されるのはリンツに決まっているし、シェーンコップは鉄拳制裁を常にする上官ではないけれど、いくら愛情がこめられているとは言っても、そんなあだ名で呼ばれていると知れば怒るのは目に見えている。彼自身の怒りと言うよりも、ヤンをばかにされるのに、この男は耐えられないのだ。
決してばかにして始まった呼び方ではないと、きちんと話せば納得させられるかもしれないにせよ、黙って殴られた方が話は早いと、シェーンコップと違ってあまり口の回る方ではないリンツは思う。
ふたりはどこの階で降りるのかと、扉の上の数字へ視線を投げた時、ヤンがシェーンコップの陰から体を斜めにして、自分の方を窺っているのをリンツは横目に捉えた。
「司令官閣下、何か・・・?」
ヤンは落ちないようにベレー帽を押さえながら、リンツを見て、シェーンコップを見て、
「いや、その、顔立ちが、君たちは、さすがに似てるなあと思って。」
通りは良いし、その気になれば切れ味鋭く発声できるくせに、ぼそぼそ言うのがいかにも覇気がない。あるいは、全員が元帝国人である隊員たちに、それなりに気を使っての言い方なのだろうか。
言いながらヤンの視線はさらにリンツの後ろへ走り、隊員たちの顔をひと通り眺めて、
「眉の間の距離と、眼窩の深さが、わたしとは全然違うんだ・・・。」
何だかちょっと悄然としたように言いながら、自分の眉間へ人差し指と中指を広げて当て、それをそのままシェーンコップの眉間へ移して、自分の言ったことを確かめようとする。シェーンコップはもちろん驚いた様子もない。
シェーンコップの顔に、何の前触れもなく突然触れると言うのは、ヤンにとってはきっと何の他意もない仕草だったのだろう。絵を描くリンツも、つい目の前の相手──シェーンコップにでは断じてない──にそんな素振りをし掛けてしまうことはないでもない。けれど、この場のローゼンリッターたちなら、場合によっては影さえ踏めない自分たちの上官へ、ヤンが何のためらいもない様子でその顔に触れ、触れられた上官の方は、かすかに口元には笑みさえ浮かべていると言う、ああこれが例のWWかと、その場の全員が思った空気が、エレベーターの狭い箱の中に瞬時に満ちてゆく。さっきふたりをこっそり指差した隊員は、今では微動だにせずにふたりをぽかんと見ていた。
やっと扉が開き、軽快な足運びでシェーンコップがそちらへ動く。動きながら、ごく自然に腕はヤンの背中へ添えられ、世界すべてからヤンを守るように、ヤンよりも半歩早くエレベーターから出てゆく。
失礼します、と隊員たちは声と敬礼を揃えてふたりを見送り、ふたりは閉じかけたドアの隙間から、いかにも気軽な風に手を振って来る。
再びエレベーターが上昇を始めると、WWだ、と一斉にそれぞれの口からつぶやきがこぼれた。
「ああ、WWだ、だからおまえたち、しっかりその口は閉じておけ!」
リンツは思わず隊員たちへ怒鳴った。
あのふたりにはその言葉と意味がばれないように、キャゼルヌ含め幕僚たちには、ローゼンリッターの誰も、あのふたりが揃って姿を消した時に彼らの居所に実は心当たりがないでもないと言うことを知られないように。WWは、永遠にローゼンリッターだけの秘密だ。
ローゼンリッターは排他的な集団だから、無闇に外の人間にあれこれ口軽く何か言ったりはしないのだ。
ああしかし、相変わらずあの人といる時の閣下はいい顔をするなと、リンツは頭の中でスケッチブックのページを繰りながら思う。胃の痛い思いの多い連隊長と言う立場は、けれどWWを身近に見れる機会にも多く接することになる。
常に何もかも面倒くさそうなヤンの態度へ、今はかすかな共感を覚えながら、絵になる構図の多さで相殺だと、胃の辺りへ掌を置いてリンツは思った。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
エレベーターを降りてからずっと、ヤンはちらちらとシェーンコップを見ていた。シェーンコップの執務室に、シェーンコップの体の陰に隠れるように滑り込むと──一応の用心に──、ヤンはもう遠慮なくシェーンコップの顔に手を伸ばして来る。
ヤンがシェーンコップの顔に触れたり髪を撫でたりするのは別に珍しいことではないけれど、今日は何となく手付きが違う。
頬骨をなぞり、突き出た眉に触れるのは、明らかに頭蓋骨の形を探っていて、ヤンのつるりとした指先の感触が、リンツの、見るものを線にして頭に描いているらしい時の視線の具合とそっくりに思えた。
「リンツ少佐も、こんな感じかな。」
シェーンコップの額の真ん中から、鼻筋を中指と人差し指を揃えて撫で下ろして、唇に触れて来るかと思ったのに、ヤンはそのままその指を遠ざけてしまった。
「君と、骨格は似てるが。」
「さあ、触って比べたことはないので小官には分かりかねますな。ご自分で、リンツに触ってみたらいかがです。」
「レントゲン写真を見せろって言う方が早そうだな。」
「プライバシーの侵害ではありませんか。」
シェーンコップが面白そうに言う。にやにやしているその口元を見て、ヤンが唇を突き出した。
「ひと皮剥けば、ただのしゃれこうべ、ただの白い骨です。どれも同じですよ。」
敵をその手で直に殺すシェーンコップがそんな風に言うと、奇妙に生々しく、血まみれの頭蓋骨が思い浮かぶ。眼球のない空の眼窩の闇が虚ろで、せめて瞳が見えれば色で誰のものか分かるのにと、ヤンは感傷的に考える。
ヤンに黙って触られているお返しか、シェーンコップはにやにや笑いのまま自分もヤンへ手を伸ばし、頬を両掌で包んだ。
「貴方の頭蓋骨は、見分けられそうですがね。」
「どうせわたしだけ、君たちとは骨格が違うよ。」
ヤンがさらに唇を突き出して見せるのに、シェーンコップは思わず苦笑をこぼした。
「・・・そういう意味ではありませんよ・・・。」
まったく、こんなにはっきり伝えても、この耳には届かないのか。いや、耳には届いても、この頭蓋骨の中の脳に届かないのか。
ヤンが覇気なく見えるのは、態度だけのせいではなく、眉の間の開いた、場合によっては茫洋として見える顔立ちのせいもあるのかもしれない。シェーンコップたちとは違って、表情も出にくく、ヤンの掴みどころのなさは、脳の中身のせいではなく、単純に、今ヤンが口にした骨格の違いのせいなのかもしれなかった。
ヤンの頬へ手を添えて、やや強引に自分の方へ上向かせて、さっき自分がそうされたように、シェーンコップはしげしげとヤンの顔立ちを観察する。浅い眼窩、短い鼻、薄いと言うのか印象と言うものがそもそもないと言うのか、目立つ特徴と言うものがなく、唯一印象的なのは闇色の目と奥行きのある黒髪の照りだ。髪の方は、艶を目にするよりも先に、その跳ね具合の方が気になって、結局黒だったと言う程度にしか記憶に残らない気がする。
リンツが、白い紙に丸だけ描いてこれがヤンだと見せても、シェーンコップはああそうだな、提督だなと思う気がする。
単なる骨格の違いだ。皮膚を剥げば、誰もただの骨だ。それでもヤンの髑髏は、シェーンコップにとってはただのそれではない。
シェーンコップに見つめられて照れくさいのか、ヤンは瞳をしきりに左右に動かして、シェーンコップの視線を避けている。
「もういいかい・・・。」
突き出た唇がやっと言うから、シェーンコップは素直にヤンの顔から手を離した。
唇は突き出したまま、ヤンが上目遣いにシェーンコップをにらんで来て、今度は目元ではなく口元へ触れて来る。
「わたしを首から下は無用の長物と言うのはこの口か。」
突然、指先にシェーンコップの唇の両端をつまんで外へ向かって引っ張るのが、子どもの頃祖父母にされた仕置きを思い出させ、おい、俺は一体今幾つだったかなと、ヤンの口にも同じことをしてやりたい気持ちを必死に抑えていた。
「私が言ったんじゃありませんよ、言ったのはキャゼルヌ少将です。」
唇が横に広がって、発声が少し変になる。ヤンは明らかに、それをざまあみろと楽しんでいて、
「キャゼルヌがそう言った時に否定しなかったんだから、君も同罪だ。」
「否定して欲しかったんですか。」
シェーンコップはヤンにされるがまま、ローゼンリッターの隊員たちにこの様を見られたら、口止め料で年金まで使い込むことになるなと、思いながら決して指先に力は入れ過ぎないヤンの可愛げを愉快にも思っている。
「否定してくれたってよかったじゃないか。わたしは君の大事な上官だろう。」
「なるほど、"大事な上官"に、せいぜい阿れと。」
馴れ合いの、ヤンの言い掛かりに付き合って、
「そうは言ってない。でもわたしの味方をしてくれたってよかったじゃないか。」
「私はいつだって貴方の味方ですよ司令官閣下。」
しれいかん、と言うのが、しゅれいかん、と聞こえた。ヤンが吹き出したいのを我慢して下唇を噛んだ表情に、シェーンコップの方が耐え切れず、
「私が味方でないと言うのはこの口ですか。」
ヤンの手付きをそっくり真似て、今度はシェーンコップがヤンの唇の両端をつまんで引き伸ばした。しかも、指先には、ヤンよりは少し力を込めて。
「痛い痛い痛い痛い痛い、シェーンコップ、痛い!」
「迎撃と反撃を予想されなかったとは、あまりに間抜けが過ぎますな閣下。」
口元は笑っているけれど、目元はわざと無表情にして、シェーンコップが、幼年学校の生徒にでも言うように言う。
抵抗して逃げようとすると、腕の長さだけシェーンコップの方が有利だったし、力の差は言うまでもない。ヤンは即逃げの一手でさっさとシェーンコップから手を離したけれど、シェーンコップは大人気なくヤンの口元をつまんだまま、ヤンが自分の掌に手を掛けると、いっそう指先に力をこめた。もちろん、手加減はしながら。
ヤンが暴れてもシェーンコップの方はびくともせず、体つきは薄いくせに、指先に伝わる頬の肉付きは豊かで、皮膚のなめらかさと相まって、シェーンコップはずっとこうしてヤンの顔をつまんでいたいような気分だった。
これで自分とたった3つしか違わないと言うのは、人種の違いとは言え嘘ではないのかと、頬の手触りまで少年めいたヤンの、頭蓋骨ももしかしたら同じようにやわらかいのではないかと思い始めてから、ようやくシェーンコップは我に返ることにした。
ヤンから指先を外すと、ヤンは大袈裟に痛がりながら自分の頬を撫で、
「仮にも上官に──君ってヤツは──」
「仮にも上官なら、部下の行動の予測くらいつきませんとな閣下。」
「君みたいなのを部下に持ったのは初めてだよ!」
「お褒めに預かり恐縮です。」
「褒めてないよ。」
「では思う存分、気の済むまで褒めていただきましょう。」
結局もう2回、ヤンの口元はシェーンコップの攻撃に耐えることになった。口先だけでもシェーンコップを、素晴らしい、得難い部下だ、何もかも君のおかげだと褒め称えてヤンがやっと解放されたその頃、今日はムライがブルームハルトにシェーンコップの──つまりヤンの──行方を尋ねていた。もちろんブルームハルトは知りませんと答えて、ムライの眉間の縦じわのその深さにも怯まなかった。
ローゼンリッターはWWの事態にその唇を固く閉じ、気の毒なヤンの悲鳴は誰の耳にも届かないし、シェーンコップは、自分の部下たちのその献身ぶりに、まだ気づいていない。