シェーンコップ×ヤン、RRモブ

WWの喜劇 4

 誰か手の空いている者と言われて、真っ先に手なぞ上げるのではなかったと彼は考えている。
 リンツは急な呼び出しがあったとかで、今すぐ行かなければならず、要塞防御指揮官閣下のところへ持って行く書類を、代わりに持って行けと手渡され、本来なら代理はブルームハルトがその役目をするところなのだけれど、タイミング悪く副連隊長もその場にはいなかった。
 リンツの声にざっと顔ぶれを見渡して、大尉である自分がいちばん階級が高かったし、しょうがないと書類を手に、普段は軽口を遠巻きに叩きはしても、実際に顔を突き合わせて話をするなどしたこともない防御指揮官のところへ、ただ書類を渡すだけにせよ直に挨拶をして代理の口上を述べると、考えただけで舌がこわばる気がした。
 男が見ても惚れ惚れするような造作の美しい、芝居がかった口調や態度がそれに見合っていて、シェーンコップが連隊長だった頃、彼はまだ下っ端の下っ端、出撃のたびに見えるのはせいぜいシェーンコップの不動の背中の一部だった。シェーンコップは、恐らくローゼンリッターだと名乗らなければ、彼をそうと見分けないだろう。
 敬礼の仕方が悪いと突然殴られることがないように──そういう人ではないと知っていはいても──と、彼はびくびくしながらシェーンコップの元へ、急いでいるはずなのに歩幅はつい狭くなる。
 エレベーターを降り、ぶつぶつ口上をひとり練習でつぶやきながら、通路を曲がったところで、彼の足は突然止まった。
 シェーンコップがそこにいて、真っ直ぐ進んで、今手にしている書類を、リンツの代わりに持って来たと渡せばそれで終わるはずだった。それだけのはずだった。
 「君はわたしの身なりをあれこれ言うが、君だって──」
 防御指揮官はひとりではなかった。美丈夫の傍ら──ほんとうに、すぐ傍──に、黒髪の司令官が一緒にいた。
 シェーンコップの顔立ちの美事さを言う時に、誰も司令官のそれを比較にすらしない。その程度に司令官であるこの男はまったく冴えない、ローゼンリッターのたまり場へ入り込めば、新入りか何かと勘違いするような、それが逆にこの男の個性のような、凡庸で恐ろしく印象の薄い見掛けの男だった。
 リンツもシェーンコップも、この司令官のことを語る時に、苦笑いを浮かべて食えない人だからと言うのを、ただ相槌を打って聞くだけの彼にとって、司令官の人となりと言うものは堅苦しい文体の新聞記事ほどにも興味が湧かず、けれどこの人なしにローゼンリッターの今の状況はなく、何しろシェーンコップが、なるほどこんな表情で対するのかと、彼は通路の角からふたりを盗み見て、いつシェーンコップの傍へ行こうかと様子を窺った。
 黒髪の司令官はするするとシェーンコップのスカーフを解いて首から抜き取り、上着の中からさらにネクタイを引き出してそれもほどき、結び直しに掛かった。
 「こんなにだらしがないのは、風紀に関わる。」
 「貴方に服装のことをとやかく言われる筋合いはないと思いますがね。」
 上官に向かってとはとても思えない尊大な口調と裏腹に、シェーンコップは妙に楽しそうにヤン司令官の手元を見下ろしている。
 シェーンコップが上の人間にも、毒舌と皮肉の手を決して緩めないのは彼も知っているけれど、ヤンに対するそれには、毒と言うよりもそれの振りをした妙な甘さがあり、そこでやっと彼は、これはもしかして、例のWWの事態なのかとやっと合点が行って、思わず抱えた書類をぎゅっと握り込んでしまった。
 「自分でやりますよ、その方が早い。」
 「鏡もないのに、できるわけないだろうシェーンコップ。」
 「できますよ、少なくとも貴方にしてもらうよりましにね。」
 言いながら、人目がないと思い込んでいるのか、シェーンコップの腕がヤンの背中へ伸びる。
 ああ、WWだ。彼は目元を空いている方の掌で覆った。
 リンツ連隊長、よりによって、どうして、こんな時に、この俺に、こんなことを──。
 今すぐこのまま、ここから消えてしまいたかった。要塞内で迷った振りで、指揮官閣下どのの元へたどり着けませんでしたと、書類を持ち帰ってリンツに怒鳴られる方がいいかもしれないと、彼は混乱しながら考えている。
 WWでしたと言えば、リンツは苦々しい顔をしても、彼を叱ることはしないかもしれない。WWの時には、見るな聞くな何も喋るな、何も知らない、何のことか分からない、それを貫き通せと言われている。たとえ、ヤンをまるで部下扱いする事務監のキャゼルヌや、歩く正論、頑固が軍服を着たようなと言われる参謀長のムライに、拷問に掛けられようとWWのことは他言するなと、ローゼンリッターの誰もが言い渡されている。
 時には、軍規よりも重んじられる連隊内の暗黙の了解を、彼はこの時初めて心底恨んだ。
 書類を、シェーンコップに手渡さなければ戻れない。けれどシェーンコップは今それどころではない。そしてこの状況を、ローゼンリッターであれば誰もないものとして振る舞わなければならない。
 一体小官にどうしろと──?
 連隊長のリンツの、氷の彫像のような横顔と、見つめられると心臓が凍ったように痛むあの緑の瞳と、彼は思い浮かべて、誰にも言えない泣き言を胸の中でだけ吐いた。
 ヤンはやっとシェーンコップのネクタイを結び終わったらしく、ヤンの指がまだ残るそこへ、シェーンコップはうつむき加減に自分も指を伸ばし、結び目でふたりの指が重なっていて、ふたりともネクタイのことなど実はどうでも良さげに、小声でささやき合っているのが動いている唇で分かる。彼はぎゅっと目を閉じた。そしてまた、ぎゅっと書類を握りしめた。
 シェーンコップが、ヤンの結んだネクタイをスカーフで覆い、それについてまた何か言ったけれど、言葉までは聞き取れず、身繕いが終わったならそろそろ出て行けるかと、彼は曲がり角で爪先の方向をそちらへ定めた。
 「私のことより、貴方の方はどうなんですか、ヤン提督。」
 上着の前をきちんと整えたシェーンコップの手が、そのままヤンのベレー帽へ伸びる。それを取り上げ、片手の指でヤンの髪を梳き、あちこち跳ね放題の黒髪をきれいに撫でつけようとしているように見えたけれど、遠目にもはっきりと、その指の動きのいとおしげな様が明らかで、彼はまた、隊長、WWです、とつい震える声に出してつぶやいていた。
 「わたしはいいんだ、どうぜベレー帽で隠れる。」
 「私のネクタイだってスカーフで隠れてしまいますよ。」
 「隠してるつもりで、君より背の高い誰かなら、多分ちゃんと見えてるよ。例えばリンツ少佐とか。」
 ヤンがその名を出したのに、まったく他意はなかったろう。けれどその名をこのタイミングで聞いた彼の心臓は、上着の上からも形の見えそうなほど大きく跳ねて、首筋の血管が膨れ上がるのを感じながら、ああ俺は今死ぬのかもしれないと、ハイネセンにいる両親のことを考えた。
 先立つ不幸は、ローゼンリッターに入った時に覚悟しているだろう。亡命者の末裔として、これほど悲しい死に方もないなと、彼は自分の心臓と書類を一緒くたに押さえているのに気づかない。
 掌の下で心臓の動きが治まり、気がつくとふたりの声が途絶え、またそちらをこっそり覗くと、ふたりが肩を並べて向こうへ歩いてゆくのが見えた。
 見つからなくて良かったと安堵の息を吐いて、ふたりが相変わらず見つめ合ったまま、肩をぶつけるようにして去ってゆくのを、彼は追い掛けることもできずにただ見送った。
 手の中の書類は、いつの間にかくしゃくしゃになっている。リンツに殴られると覚悟して、彼は悄然と来た途を元に戻り始める。
 WWだったのでと、リンツにはできるだけ小声で報告しよう。
 そうして、彼はふと後ろを振り返り、仲睦まじげに並んで歩くふたりの背中を思い出して、結婚して30年になる自分の両親へ、久しぶりに手紙を書こうと思いついていた。突然どうしたと、きっと驚くだろう。いや別に、ちょっとWWでねと、通じるはずもない、書くつもりもない文面を思い浮かべて、彼の口元には泣き笑いのそれが刷かれていた。

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