シェーンコップ×ヤン、キャゼルヌ

WWの喜劇 5

 朝のうちに送った大量の書類の山への詫びと言うわけではなかったけれど、キャゼルヌはおごってやると、ヤンを休憩のつもりで昼へ誘い出し、昼食のラッシュは終わってしまっている閑散としたカフェテリアの隅の席で、相変わらず疲れた顔の後輩にまず紅茶を差し出してやった。
 「ありがとうございます。」
 書類の山から逃れられてほっとしたのか、ユリアンの淹れたのではないそれに、ヤンは文句を言わずにすぐ口をつける。
 朝から仕事漬けにし、昼にはわざわざひと休みを口実にこうして誘い出したのは、ヤンが書類仕事の途中で行方不明にならないようにだ。せいぜい半時間から1時間程度とは言っても、行き先も告げずに姿を消されるのは心臓に悪い。
 その告げない行き先にはとっくに見当はついていても、それをヤンに面と向かって正す気も、その見当のついている場へ探しに行くのも、どちらもする気のないキャゼルヌだった。
 とは言え、ちくりと釘を差しておくのは忘れない。
 「ヤン、お前、ずいぶんとうまく薔薇の騎士の連中を手懐けたもんだな。」
 紙コップを口元から遠ざけ、ヤンが不思議そうな顔をした。
 「ローゼンリッターがどうかしましたか。」
 何だ知らないのかと、キャゼルヌの方が、さらに驚いた表情を浮かべた。
 「お前がいなくなるたびに連中を捕まえてお前の居場所を知らんかと訊くが、揃って存じませんと抜かしやがる。ひとり残らずだ。ありゃ、拷問でも口を割らんぞ。」
 「ローゼンリッターを拷問なんて、誰がそんなことしたいんですか。」
 即返り討ちに遭いますよと、ヤンが笑う。
 「第一、ローゼンリッターがわたしの居場所を知ってるはずがないでしょう。」
 笑みの続きで言うのに、何か隠している色はなく、キャゼルヌは、今度こそはっきりと淡い緑色の目を大きく見張った。
 「お前の居どころは知らんかもしれんが、ヤツら、シェーンコップのいる場所なら分かるだろう。」
 ヤンが口元へ近づけた紙コップをそこで止め、キャゼルヌを上目に見た後で、不自然に視線をずらす。泳ぐ視線を捉えたまま、キャゼルヌはにやっと意地の悪い笑い方をした。
 なぜ自分の回りには、こんな笑い方をする人間が多いのだろうかと、ヤンは、たった今突然名前の出た、元ローゼンリッター連隊長、現要塞防御指揮官の、大理石の彫刻のような造作を思い浮かべて、やれやれと空いた方の手でぼさぼさの髪をかき回す。
 「・・・シェーンコップが、隊員たちにそんなつまらない隠し事をしろと命令するとは思えませんがね。」
 ヤンがぼやくように言うと、キャゼルヌは胸の前で腕を組んだ。
 「命令なんぞいらんさ。部下の方が勝手に元隊長の意を汲んで、と言うヤツだ。何しろ連中、シェーンコップがそう言えば、白でも黒と言うに決まってるからな。そしてお前は、そのシェーンコップの上官だ。お前が飛べと言ったら、連中はどのくらいの高さですかと訊くって寸法だ。」
 「そんな──。」
 シェーンコップのひと声で、ローゼンリッターが整然と動く姿は想像できても、自分が彼らに直接命令を下すなど、考えただけでヤンは内心萎縮して、指揮官として彼らに対して振る舞うなど、必要がない限りしたくもないのが本音だった。
 ローゼンリッターがヤンの元にいるのは、ヤンの傍にシェーンコップがいるからだ。シェーンコップを間に欠いて、ローゼンリッターがヤンの指示に従うと言う図が、ヤンにはどうしても思い浮かばない。彼らがヤンに反抗したり、命令違反をしたりとも思わないけれど、喜々としてヤン自身からの命令を受けると言う姿が、単純に思い描けないのだった。
 「わたしはそんな器じゃありませんよ。」
 困ったように手元へ目を伏せるヤンへ、キャゼルヌは苦笑を刷いて、
 「まあいい、お前の居場所は知らんことにしてやる。ローゼンリッターをつつけばシェーンコップに伝わるし、シェーンコップに伝わればお前に伝わる、それが分かっていれば十分だ。」
 大目には見るが図には乗るなと、言葉の間に含ませて、ヤンは亀のように首を縮めてそれを聞いた。
 叱られた子どもみたいにちょっと唇を尖らせて、そのまま紅茶を飲むヤンへ、キャゼルヌは今度はすっかり声音を変えて、なあヤン、と優しく訊く。娘たちを叱る時の、父親の表情になっていることに、キャゼルヌは気づかない。
 「お前、なんでシェーンコップなんだ。」
 ヤンが黒い目をますます黒くして、眉を弓の形に上げると、考え込むように視線をあちこちにさまよわせる。また困ったように髪をかき回し、うーんと首を傾げた。
 「帝国語の子守唄が、昼寝にちょうど良かったか。」
 考え込むヤンに、半ばは揶揄で、助け舟を出すように訊くと、さらに呻吟が深くなるだけだった。
 空になった紙コップを掌の中で遊ばせながら、ヤンは小首を傾げたままで、キャゼルヌにと言うよりも、自分が答えを探すように、ひと言ひと言区切るように口を開く。
 「あの男なら、昼寝の最中に何か起きても、わたしを抱えて逃げ出せるからですかね。」
 そう言われれば、ヤンを小脇に抱えて、あるいは肩の上に担ぎ上げて、戦斧を振り上げながら走るシェーンコップがはっきりと思い浮かび、それはようするに、あの男の傍らなら心底安心できると言ったと同じことなのだと、ヤン自身が気づいているのかいないのか、キャゼルヌはちょっと胸を突かれたように思って、数瞬黙り込んだ。
 他人の心の機微に、鈍感なのか気づいていて無視しているだけなのか、他人が自分に悪意や害意を抱いているとか、嫉妬されているとか、あらゆる思惑に無関心のヤンは、それでもどす黒い感情が自分を取り巻いているのは皮膚で感じるのか、それを吸い取ったようにむやみに疲労して見えることがある。
 不眠は、ヤンの長年の歓迎されざる友人だ。酒の量が増えるたびに、キャゼルヌも含めて周囲はそれとなく注意し、だからヤンがちょっとばかり姿を消しても、ああ昼寝かと皆あまり目くじらは立てない。それでも居場所だけはちゃんと知らしておけと、キャゼルヌは思っているけれど。
 その昼寝と言う休息のために、ヤンがシェーンコップの傍らを選んだと言うのなら、せいぜい嫌味を言う程度で、キャゼルヌに異論と言うほどのものはないのだった。
 ヤンの唇の端が、不意に何か思い出したように軽く上がった。
 「それに、あの男は──」
 二度目に、あの男、とシェーンコップを指した言い方が、オルタンスがキャゼルヌを指して、あの人とかうちの人と言う言い方そっくりで、キャゼルヌはちょっと虚を突かれて戸惑った。
 ひどく狎れ狎れしい、他の間柄では絶対に出ない、その特別な響き。ヤンがそれをするりと口にしたのに、キャゼルヌはどぎまぎとうろたえてヤンを見る。
 「花を踏まないんですよ、外を歩く時に。」
 一瞬、言葉は理解できても話が繋がらない。何だって、とキャゼルヌは、自分の困惑を一緒に問い詰めるように、ヤンへ問い返していた。ヤンはもう、すっかり表情をなごませていた。
 「花を、踏まないんです。雑草に花がついてると、それを避(よ)けて歩くんですよ、あの男は。」
 へえ、と、声が裏返りそうになって、キャゼルヌは逆に喉を締めて声を低めた。薔薇の騎士が花を大切にする、それは別におかしいとも思わなかったけれど、あの男、ワルター・フォン・シェーンコップと言う、食えないことこの上なく、毒舌家で不逞の輩で、娘の父親であるキャゼルヌから見ればあらゆる女の敵で、そして今は、大切な後輩にこんな表情をさせるその男に、そんな一面があるとは、人は見掛けによらないなと、キャゼルヌは思った。
 そうか、とキャゼルヌが浅くうなずくと、ええ、そうです、とヤンが深くうなずいた。
 それがすべてを説明すると言うように、ヤンはそれきり黙り、けれど口元には淡い笑みを浮かべたまま、明らかに今シェーンコップのことを考えている様子で、キャゼルヌは、ごく自然に、シェーンコップの肩や膝に頭を置いて眠るヤンの姿を思い浮かべて、その眺めにちくりと胸を刺されながら、そうか、とまたひとり胸の内でうなずいていた。
 キャゼルヌは自分のコーヒーを終わらせると、ヤンを置いて立ち上がった。
 「もう行くんですか先輩。」
 まだサンドイッチが少し残っているヤンが、訝しげにキャゼルヌを見上げる。
 「もう少しゆっくりして行け。締め切りは3時と言ったが、5時にしてやる。」
 そう言った途端、ヤンが現金に目を輝かせた。
 5時なら、昼を終わらせた後で、1時間くらい昼寝ができるはずだ。シェーンコップが捕まるかどうかは知らないけれど。
 今日はローゼンリッターの連中には何も訊くまいと決めて、ありがとうございますと言うヤンへひらひら手を振り、キャゼルヌはひとりカフェテリアを後にする。
 つるりとした通路を進む足先に、あるはずもない小さな花をつけた雑草を見て、キャゼルヌは、それをきちんと避けて、大きな歩幅で歩く背の高い肩幅の広い男と、とぼとぼ下を向いて歩く黒髪の後輩の、並んだふたつの背中をひと組に思い浮かべて、微笑むべきか苦笑すべきか、決めかねてただ小さく頭を振った。

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