Bad Taste
厚みのあるステーキには、本来なら赤ワインを一緒に出すべきなのだろうけれど、ふたりとも赤ワインは避けてウイスキーを少しだけ。食後の紅茶にはブランデーを注ぐ──ブランデーの紅茶割りではない──約束になっていた。ヤンはステーキの真ん中へナイフを入れ、中まで火が通っていることを確かめる。これを焼いたシェーンコップの料理の腕を疑っているわけではないけれど、ミディアムレアも、できれば避けたいからだ。
シェーンコップの方は、切ったばかりの側面に見事に血の色の残るそれを、いかにも美味そうに口の中へ入れているところだった。
皿にナイフやフォークの当たる金属音の合間に、ヤンがそう言えばと、ふと思い出したように口を開いた。
「語源も、使い方もよく分からないが、結婚した女性のことを"家桜"と言うって、今日初めて知ったよ。」
「"いえざくら"?」
肉を切っていたナイフを止めて、シェーンコップが口移しに訊き返す。
「妻と言うのの、別の言い方かな。詳しいことはよく分からないけど。辞書でも調べてみようかな。」
「妻ですか・・・。」
何となく可笑しそうに、シェーンコップが唇の片端を上げた。
強いてどちらがどうと言うなら、自分の方がその座へ収まるのだろうなと思いながら、おそよ自分に似合わないその言葉に、シェーンコップはひとりで笑う。
家桜、ともう一度口の中で言ってから、切った肉をまた口の中へ淹れる。
「いると家の中が華やかになるとか、そういう意味じゃないかと思うんだが──わたしたちの場合は、君の方が華だなあ。」
シェーンコップの皿の、肉からあふれた肉汁の赤さを見ないようにしながら、ヤンが言った。
言葉が指す妻と言う意味と、シェーンコップが華だと言うことは、ヤンの中では特には繋がらないようで、シェーンコップが感じた可笑しみはヤンには通じていないようだった。
それもまたシェーンコップには別の可笑しみを誘って、単純に桜と言う、花のことからシェーンコップを連想しただけだと言う、これは恐らく本人は褒めているつもりなのだろうなと、そこまで読み取る頃には、皿のステーキは半分になっている。付け合せの茹でた後炒めた野菜は、まだ色鮮やかにたっぷり残っていた。ヤンの方のそちらは手付かずだ。
「もっとも君は、桜よりも薔薇だけどね。」
「しかも棘だらけの上に手入れのしにくい、ね──。」
いつもの混ぜっ返しに、けれどヤンは生真面目な反応を返して来た。
「バラってそんなに育てるのが厄介な花かい? わたしは植物のことはよく分からないんだが。」
「さあてね、品種にもよるでしょう。育てやすいのもあるでしょうがね。私も薔薇を育てたことなんかありませんよ。ローゼンリッターの新入りの面倒は散々見ましたがね。」
そして今は、元上官の面倒を見ている、と付け加えたい部分は、心の中にとどめておいた。
ふうん、と、ヤンが行儀悪くフォークをくわえたまま相槌を打つ。
ちらっとシェーンコップが自分を見て、さらにちらっと付け合せの野菜の方を見たのに気づいたのか、ヤンはそのフォークの先を、ようやく明るいオレンジ色の人参に寄せた。
「・・・人間よりは楽なんじゃないかな。」
ヤンが、バターの香りのする人参の真ん中へ、そう言ってから歯を立てる。
「何がですか。」
「花の世話が。」
まだもぐもぐ、残りの人参を咀嚼しながらヤンが言う。ちょっと行儀がと、シェーンコップは灰褐色の瞳を上に押し上げた。
フォークとナイフを皿の端に置き、とりあえず酒に手を伸ばし、会話の方へ集中することにした。
「庭いじりにでも目覚めたんですか、提督。」
ステーキはもうほとんど残っていず、残りの野菜は赤い肉汁の中につかり、ヤンがこの眺めを避ける理由を知っているシェーンコップは、ブロッコリーを指先でつまみ上げ、そのまま頭の部分をかじり取る。汚れた指は、舐めると肉の味がした。
ヤンの行儀の悪さへの皮肉のつもりだけれど、ヤンに通じるわけもない。
「わたしが花なんか育てたら、芽も出ないうちにダメにしてしまうよ。わたしの手は緑の手じゃないんだ。」
シェーンコップを見習ったのかお返しか、フォークの先に突き刺したブロッコリーを見せながら、ヤンが唇を突き出す。
ヤンの言った通りが想像できて、自身に対してまめでないこの男が、甲斐甲斐しく花の世話などできるわけもないのはシェーンコップにも自明の理だったから、したいと言えば即反対するつもりだったのに、ヤンが素直に自分のことを認めるから、逆に意地悪をしたくなる。
「薔薇は無理でも、パンジーくらいなら、貴方でも育てられるかもしれませんよ閣下。」
またナイフとフォークを取って、残りの肉を片付けようとしながら、シェーンコップは皿へうつむいて人の悪い笑みを浮かべた。
ヤンが、へえ、と言う表情を素直に浮かべて、
「パンジーは育てやすいのかい。」
肉を口元へ運ぶシェーンコップの手が、そこでびくりと止まった。
上目に、ブロッコリーの茎を皿の端に寄せているヤンを眺めて、そう言えばこの人は世知には疎い人だったなと思い出す。
シェーンコップの皮肉や毒舌を、真っ向から受け取ることもあれば、話にならないと受け流すこともある。今のヤンはそのどちらでもなく、通じなかった趣味の悪い皮肉はそのままシェーンコップへ戻って来て、品のないことを言った自分をシェーンコップはそのまま恥じた。
ヤンは恐らくまったく他意なく、シェーンコップに家桜などと言う言葉のことを持ち出したのだろうし、それを受けて、花の話からパンジーと言い出したのは、ヤンに対する意趣返しと言うよりも、自分の本音を掘り下げて行けば、恐らく行き着くのは自虐だ。
レアのステーキを食べない程度に、血の色のあれこれを避けたがって、相変わらず人殺しの枷から逃れられないまま、同じ人殺しのシェーンコップをぬけぬけと華に例えるヤンの神経は、一体太いのか細いのか。
緑の手ではないそれは、シェーンコップも同様、血塗られたままだ。
戦争のない世界へやって来たところで、生きていた時の嫌な記憶が消えてしまうわけではなく、穏やかな日々に埋没しながら、それに対して抗う気持ちがないわけではない。
これでいいのかと、自分に向かって問う声が、ヤンに対するあてこすりになったのだと気づいて、自分の突然露わになった愚劣さに情けない気分になる。
肉の味が急に舌から消え、それでも最後のひと切れを何とか飲み込んだ後、シェーンコップはヤンがフォークの先でつつき続けていたブロッコリーの茎を、さっと自分の方へ取り上げて食べてしまった。
「明日、花の鉢植えでも買いに行きますか。あまり手の掛からないのなら、貴方にだって世話できるでしょう。」
「・・・そうだね、鉢植えでなくても、たまには花くらいいいかもしれない。家の中がもっと明るくなるよ。」
屈託なくヤンが笑い、ブロッコリーの茎だけまだ残っている皿を、シェーンコップの方へ差し出して来る。
やれやれとそれを自分の方へ引き取って、ヤンから見れば薔薇そのもののようなシェーンコップは、赤いバラの花言葉が"あなたを愛しています"であることも、パンジーのそれが"私はあなたを思う"であることもすっかり失念していて、ヤンの歯型の残るブロッコリーの茎をうさぎのように齧りながら、舌に戻って来た野菜の味へ、ひとり小さく微笑んでいた。