* みの字のコプヤンのお話は「耳触りのいいその声が、好きだと思った」で始まり「本当に嬉しいとき、言葉よりも涙が出るのだと知った」で終わります。
Calling You
耳触りのいいその声が、好きだとヤンは思った。シェーンコップはあれこれと語る声、自分を呼ぶ声、穏やかな時に聞くその声を、とても好きなのだとヤンは思った。訓練中にちょっと怪我をしたと言うシェーンコップに、以前戦闘中に、負傷で動けず行方不明になるところだったと言う話をされたせいかもしれない。ヤンは、帝国軍の基地を落として来てくれと、ローゼンリッターを送り込む夢を見た。イゼルローンに比べれば、ずいぶんと易しい作戦だったはずだ。
シェーンコップは意気揚々と隊員たちを引き連れて出撃し、そしてローゼンリッターたちは、シェーンコップを欠いてヤンの元へ戻って来る。
血まみれ──帝国軍の血──のリンツが、基地のどこかで行方知れずになって、まだ見つからないのだと沈んだ声でヤンに報告する。
ヤンは思わずその場にずるずるとへたり込み、パトリチェフに抱え起こされる羽目になった。
情けない姿を部下たちに晒して、ヤンは震える声で、シェーンコップを探してくれと言う。ええ、もちろんです、と皆が声を揃える。
そうしてヤンは、まだ敵が残っているかも知れないその基地を、リンツたちに無理を言って訪れる。自分で探さなければ気が済まない。ローゼンリッターたちが、必死で探して見つからないのに、ヤンがそこへ行って何の助けになるわけもないのに、それでもそうしなければ気が済まなかった。
ヤンは、右も左も分からない帝国軍の基地の中を、盲滅法に走り回る。シェーンコップの名を呼び、自分の気配に気づいて、あちらの物陰からきっと姿を現すに違いないと、思いながら走り続ける。
あちこちにまだ兵士たちの死体が転がり、その血だまりに、時々足を取られながら、ヤンは倒れて動かないその死体がシェーンコップのそれではないかと、恐怖に神経を逆立てながら、シェーンコップの名を呼び続ける。
死体につまづき、死体をまたぎ、そのひとつびとつが自分の命令の下に死んだのだと、心の端を少しずつ削られながら、それでもただひとりの人を求めて、ヤンは死体だらけの基地を這いずり回った。
シェーンコップ。
どれだけ呼んでも返事はない。
最後に見た時に、怪我をした様子はなかったと、シェーンコップと一緒にいた隊員は言う。それならどこかに、必ず生きているはずだと、ヤンは基地のさらに奥へ奥へ迷い込んでゆく。
いつの間にか、一緒にいたはずのローゼンリッターたちの姿はなく、死体も血だまりもない、洞窟のような暗がりの中にいる。シェーンコップを呼ぶヤンの声が響き、届かせたい場所へ届いているのかどうか、それがもう自分の声ともヤンは聞き分けられず、疲れに重い足を引きずって、分かれ道を右か左かと迷って、もう帰ることも考えずにただ進む。
この暗がりのどこかに、シェーンコップはいるのだ。隠れているのか、何かに阻まれて外へ出ることができないのか、どんな状況なのかは分からない。それでもヤンは、シェーンコップが生きていると一心に信じた。
君が死ぬはずがない。君が、わたしの知らないところで死んだりするはずがないんだ。
勝手に死んだら許さない、ヤンはぶつぶつとひとり言を言いながら、死んだ兵士たちの血で汚れた姿で、自身が幽霊のように歩き回っている。
叫び続けて、喉がひりひり痛んだ。
シェーンコップを呼ぶたび、自分の声が周囲に響く。聞きたいのは自分の声ではない。シェーンコップの声だ。皮肉の響きを含んだ、そのくせどこか甘い、あのシェーンコップの声。
耳にあの声が聞こえるたび、耳朶に唇の触れているような、そんな感覚が甦る。今ヤンは、覚えているシェーンコップの声を思い出しながら、シェーンコップを呼び続けていた。
ヤンは、暗闇の中を歩き続けている。もう帰る道も分からず、ひとりきり、いるとも知れないシェーンコップを探し続けている。
伸ばした指の先も見えない闇は、酸化した血のようにどす黒く、そしてどろりと体にまといつく。ヤンの声はもう、響きもせず、その闇に即座に吸い込まれた。
シェーンコップ。
より濃さを増す闇に手足を取られ、ヤンはもう身動きできなかった。
闇が、開いた口から喉へ侵入して、ヤンの声を塞いだ。闇は血の味と匂いがし、吐き気を催しながら、ヤンはもう一度シェーンコップの名を叫ぶ──。
自分の叫びに全身が震え、そのせいで目覚めた目の前に、シェーンコップの背中が見えた。左の肩甲骨に沿うように、ガーゼが貼ってあるのが今日の怪我だ。血の滲みなどない、清潔なガーゼの白さに、ヤンは闇の中で安堵の息を吐く。
シェーンコップの背中へ、起こさないように手を伸ばし、ガーゼにそっと触れた。ガーゼはシェーンコップの体温でぬくまり、触れていると背中にも伝わる寝息へ、ヤンは額を近づけ、そのまま腕を前へ回した。
眠っているシェーンコップの、声は今は聞くことはできない。声はなくても、呼吸の音と心臓の音は聞こえる。
夢ですらヤンは、シェーンコップの死の予感に耐え切れず、夢で良かったと、思いながら間遠に瞬きをした。
明日の朝目覚めて、いつものようにヤンを起こし、シェーンコップは、おはようございます提督、とヤンに向かって言うだろう。眠り足りた冴え冴えとした顔色で、もう怪我のことなどすっかり忘れた素振りで、ヤンがここにいることも自分がここにいることも、ごくごく当然と言う顔で、ヤンをベッドから引きずり出しに掛かるだろう。
シェーンコップの笑う声。ヤンの耳の奥へ染み通ってゆく、その声。今日の予定がどうの、次の任務がどうの、そんな話をしながら、出掛ける準備に掛かる朝。
朝が来れば、シェーンコップの声をまた聞くことができる。
今いる薄闇の穏やかさを確かめるように、ヤンはいっそう近くシェーンコップの背中へ胸を重ね、傷のガーゼへそっと口づけた。
眠りの中に落ち込んだままのシェーンコップの寝息に呼吸を揃えて、ヤンも再び眠るために、もう閉じた目を開かない。
まぶたの中がうっすらと潤んで来るのを、噛み殺した小さなあくびのせいにして、その潤みをシェーンコップの背中でこっそり拭った。
本当に嬉しいとき、言葉よりも涙が出るのだと知った、そんな夜だった。