Call It Mad
乱れ切った髪がシーツの上に散って、頭は半分ベッドから落ちかけていた。むやみに動く手足は、持ち主の意思に従っているのか逆らっているのか、こちらを見てはいる瞳はけれど焦点は合わずに、闇をそのままはめ込んだような、何もかもを無にする虚ろな色をたたえている。
ヤンの呼ぶ自分の名が、かすれて途切れて名前とすら確認できない、ただのぶつ切りの音になると、シェーンコップは自分が誰かも定かではなくなり、自分があやふやになると、ヤンのことも曖昧になってゆく。
今夜は少し無理をし過ぎた自覚はあった。どの時点からだったのか分からない。下でねじれる体が、今夜は妙に白っぽく目を刺して、かすれた声で何度目か名を呼ばれた時に、頭の後ろで何かが切れる音を聞いた覚えはある。
服と一緒に、地位や階級を剥ぎ取り、生身のただの人間になったところで、こすり合わせる皮膚の温度に合わせて、頭蓋骨の中で脳がとろけてゆく。そうして、人間の記憶すら失うと、互いの名前もおぼろになって、声はまともに名も発せなくなる。
提督、と舌と喉は自動的に動いて慣れた呼び方をしていても、それが目の前の、この男のことだと脳の中できちんと繋がらずに、ただ自分が今抱いている、体温の上がった躯としか、頭蓋骨の中の液状の何か──脳と呼ばれているはずだ──は認識しない。
抱きしめると、あちこち骨の当たる、薄い体。力いっぱい抱けばほんとうに骨でも折ってしまいそうで、いつだって触れる時には手加減を忘れない。体重すべてを掛けて敷き込むと、苦しがって喘ぐから、用心しながら触れている。
今夜は、それがどこかで壊れてしまった。ヤンの目が、自分を見ているようで見てはいないからだと、とろけた脳の奥の方で思う。単なる言い訳だ。分かっている。それでも止められずに、折った膝ごと全身の下に抱き込んだ。
繋げた躯の、出入りの刺激に、ヤンのそれは確かに反応していた。絡みついて離さない粘膜の奥へ奥へ引きずり込まれながら、シェーンコップもまた、ヤンをここではないどこかへ引きずり込んでいる。虚ろなヤンの目は、そのどこかに在ってどこかを見ている。自分のいる場所が分からずに、シェーンコップはそれだけは確かな、ヤンの躯をまた抱きしめた。
別々のままの躯の、手足は絡み合って、皮膚はこすれ合って、とろけた脳が頭蓋骨の外へ流れ出て、シーツの上で同じ染みになる。そうやって融け合うふたりは、呼吸と体温だけの生きものになって、ひと時現実のすべてを忘れながら、忘れ切らないために互いにしがみつき続ける。
逃げ出すわけにも放り出すわけにも行かない現実。それでも存在の大半を、ここではないどこかへ飛ばして、記憶を置き去りにする。ほんのひと時だけ。
焼けそうに熱いヤンに触れて、シェーンコップは汗に湿った黒髪の中へ指をもぐり込ませた。形の良い頭へ指を馴染ませると、休みなく働き続けている思考機械が今はようやくその動きを止めて、しんと静まり返っているのが分かる。
互いに、考えることを放棄するにはこれしかなく、考え続けて焼き切れそうな脳を休めるには、抱き合って肌を交わすのが何より手っ取り早かった。
躯の内側を真空にして、頭を空にして、体温だけを保つ体を絡め合わせて、運が良ければここではないどこかへ行ける。ヤンはそこへシェーンコップを引きずり込み、シェーンコップもヤンをそこへ引きずり込む。一緒にいても、いる場所は別だ。互いがどこにいるのかは分からない。ヤンの見ている何かをシェーンコップは見ることができず、今自分の見ているヤンがほんとうのヤンかどうか、シェーンコップには分からない。
触れている躯は確かにここに在るのに、心はどこかへ飛んでいる。ヤンの虚ろな瞳に映りたいと思って、シェーンコップは体を倒してヤンへ近づいた。額と鼻先の触れ合う近さで、視界にヤンの前髪が入り込んで来る。それでもヤンの黒い瞳には何も映らず、近々と見つめる瞳のその端から、潤みがひと筋、あふれてこぼれた。
涙のように見えて涙ではなく、汗のようなそれがこめかみを伝わり、髪の中へ消えてゆく。提督、とそこから呼ぶと、ヤンの瞳がわずかに動いて、シェーンコップを見たように、見えた。
俺が抱いているのは誰だ。呆けたように考える。白く、今は記憶が飛び飛びの脳の中を探って、すべてを剥ぎ取られてただの肉体になったこの男のことを、それでも大切な誰かなのだとは憶えている。
少年の風貌に、実際よりも何倍も老成した魂を抱え込んでしまった、矛盾と不均衡の塊まりのようなこの男。すでに朽ち果て掛けている理想を、捨てられずに大事に抱え込んだままでいる男。
その腕の中に無理矢理入り込んで、理想を捨てさせようとしても無駄だった。結局のところ、シェーンコップは、その擦り切れた理想ごと、この男を抱く羽目になった。
押し込むたび、痛みにかどうか、ヤンの背中が反る。引くと、かすれた声が鼻から抜ける。瞳の虚ろの幕はますます厚くなり、もう何をしているのか、何をされているのかも定かではないように見えた。
ヤン提督、と呼びながら、シーツを握りしめていた手をそこから、指を1本ずつ外して、自分の掌を滑り込ませた。重なった手指をゆっくりと握り込み、触れ合った手首からかすかに伝わる脈に合わせて呼吸の間を空けると、同じように躯の動きも一緒に緩めた。
届いた最奥へ、ふた呼吸の間とどまって、またゆっくりと躯を引く。引きながら、引きずり込まれる感覚に逆らい切れずに、シェーンコップは何度も息を止めた。
そうして、されるままのヤンを自分の方へ強引に抱き上げて、ふと変わった繋がる角度へ一瞬正気に戻ったのか、ヤンが慌てたようにしがみついて来るのに、自分もヤンへ腕を巻いて支えると、シェーンコップはまるで少年のような、触れるだけの口づけをヤンの唇へかすめて行った。
動かずに、ただ抱き合って、繋げた躯はそれでも絡み合うまま、シェーンコップの肩にあごを乗せたヤンが、そこでシェーンコップを呼んだ。途切れずに、名前の最初から最後までをきちんと呼んで、そうして、また目からあふれた潤みが頬を伝い、シェーンコップの肩を濡らす。
ここではないどこかは、ここなのだと思いながら、シェーンコップはヤンの髪を軽く掴んで顔を近づけ、ヤンの目を見ながら、提督とまた呼んだ。
瞬きのまま閉じてしまったヤンの目を、それ以上見ることはできずに、代わりに開いた唇の間から覗く舌先を軽く噛んで引き寄せ、シェーンコップは動かない躯の代わりに、喉の奥へ吸い込むような口づけをした。
ヤンの喉が震えて、何か言ったのは、シェーンコップを呼んだのかもしれなかった。その声も呼吸もすべて吸い取って静かなまま、シーツと皮膚のこすれ合う音だけが響いている。