可愛いもの
スケッチブックをぱらぱらとめくり、以前書いたスケッチに、気まぐれに実線を入れて、飽きると別のページへ行くと言うことを、時間つぶしにしていた。やるべきことはあるのだけれど、急ぎではないそれを脇に置いて、こんな風に何となくぼんやりと手を動かしている時がいちばん心が休まる。
リンツはまたページをめくり、日付によれば2週間ほど前に描いたらしいスケッチに目を止め、そのページへ鉛筆を置いて、今めくったばかりのページを戻る。7、8枚前の、それはふた月ほど前に描いたことになっている、同じシェーンコップのスケッチを、鉛筆を挟んだページと行き来して、リンツは思わず観察する目を投げた。
同じ人物を、大体同じような視点で描いて、他人が見れば同じ絵に見えるのだろうけれど、描いた当人のリンツにはその横顔の、目元から口元へ掛けての線の明らかな違いが見えて、うっかり眉をしかめて2枚の素描を見比べる。
2ヶ月前、一体何があったかな。思い出そうとしても記憶は確かではなく、描いた線に露わになっているそれがリンツには心当たりがなく、単に自分の気分か体調のせいかと、また繰り返しその2枚を比べている。
ふた月前に出ていた、硬い、いかにもシェーンコップらしい彫像のような線が、2週間前の絵では妙に和らぎ、微笑んでいるわけでもないのに、口元がほころんでいるような印象を受ける。
何だ、と自分で不思議がって、リンツは口元へ指を当てて、考え込む表情を作った。
「なんですか隊長、難しい顔して。」
ブルームハルトが、いつもの明るい調子でやって来て、手近にあった椅子を引き寄せると、その背を胸の前に抱え込むように腰を下ろす。
「ブルームハルト、おまえ、2ヶ月前、何かあったか思い出せるか。」
「2ヶ月前? えーと・・・えーと・・・。」
天井の方へ瞳をくるりと上げて、1分近く真剣に考えて、結局頭をがしがしかきながら、
「思い出せません。誰も怪我もしてないし、誰も振られてないし、誰かがうまくやったって話もないし、分かりません。」
隊員の誰かが、どこかの誰かとうまくやったと言う話は、皆ブルームハルトの耳には入れないようにしている。結婚までは清らかなままでが信条のこの副隊長には絶対に聞かせないための、隊員たちの優しさだと気づいていないのは、一体幸いなのかどうか。リンツは、苦笑を見せずに耐えた。
「じゃあ2週間前はどうだ。」
「2週間前は、司令官閣下の誕生日パーティーだったじゃないですか。」
こちらは即座に答えが返って来て、ああ、とリンツはうなずいて、自分の手元へ目を落とす。
そうだった、ヤンの誕生日で、ローゼンリッターからは酒の詰め合わせを贈ったのだ。シェーンコップも一緒にと声を掛けたら、俺は個人的にやるからいいと、うきうきと断られ、今噛み殺したとまったく同じ苦笑を、喉の奥に隠したことを思い出した。
「何ですか隊長、また閣下を描いてるんですか。」
リンツがかすかに微笑んだのに気づいたのか、ブルームハルトがスケッチブックの端を指先でつまんで、見せろと言う風に引っ張って来る。
隠すこともないから、覗き込むブルームハルトの方へスケッチブックを少し傾けて、リンツはシェーンコップのスケッチを見せてやると、ブルームハルトはシェーンコップを見掛けるたびに必ず浮かべる、憧憬の笑みを見せて、それから上目にリンツを見て来る。
「閣下を描くの、楽しいですか。」
「描き甲斐はある人だからな。」
もちろん、リンツは目につくものはたいていスケッチしていて、隊員たちも、リンツの周囲にいる誰も必ず1、2枚はどこかに描いたものがある。たまたまシェーンコップは、その中で飛び抜けて数が多いと言うだけのことだ。
そうして、話し掛けて来るブルームハルトに相槌を打ちながら、あまり顔を合わせる機会がない割には、ヤンのスケッチも増えていることに気づいていて、それは多分、シェーンコップを見掛ける時の半分くらいは、傍らにヤンがいるせいなのだろうと思う。
この2週間前の素描は、きっとヤンが傍にいた時の顔に違いない。覚えてはいないけれど、見掛けて、素早く頭の中に描き取って、後でスケッチしたのだったかと、そこまではおぼろに思い出していた。
穏やかな、安らぎの見えるシェーンコップの表情。ヤンといる時には多分必ず浮かぶのだろう線。自分たちには見せたことのない、シェーンコップの横顔の、驚くほど優しげな線。
「──で、びっくりしたんですよ、閣下がそんな、子どもが行くみたいな店にいるなんて。」
話し続けているブルームハルトの声が、そこで聞き流せないほど高くなって、リンツはスケッチブックから視線を移し、
「閣下が何だって?」
と緑の目がひときわ濃くなる。
ブルームハルトが、言ったことをもう一度繰り返した。
「いやだから、ぬいぐるみとか、可愛いおもちゃみたいなのを売ってる店に閣下がいたんですよ。ひとりでしたけど。」
今付き合っている女性に、子どもか幼い弟妹でもいるのかなと、ブルームハルトが無邪気に付け加える。
「黄色い、あひるのゴムのおもちゃ──ほら、風呂とかに浮かべて遊ぶヤツ、あれがずらっと並んだ棚の前で、妙ににやにやしてて、閣下じゃないみたいに楽しそうで──」
その脳に侵入できたら、その光景を直に見れるのにと、珍しいシェーンコップのゆるんだ表情を目撃したらしいブルームハルトを内心ひどく羨ましがって、リンツは話の先を促した。
「で、見てたら、次は別の棚に行って、茶色いぬいぐるみ──あれ、カワウソとかラッコの類いかな、顔の丸い、目が離れてて、鼻がぺちゃっとしてて、可愛いっちゃ可愛いですけど、ちょっと間の抜けた顔の──。」
丸顔で、目の間隔が広くて、鼻が短くて、可愛いけれど少し間抜け顔──ブルームハルトの説明で、リンツの脳裏に思い浮かぶものがあった。
ブルームハルトに視線を当てたまま、こっそり横目でスケッチブックを繰り、目当ての絵を見つけ出す。
「けっこう大きいのを両手で持って、閣下がそれをじぃっと見てて、買うかどうか迷ってる感じで・・・さすがに買わずにそのまま店出てましたけど。」
「おまえそれ、ずっと見てたのか。」
「だって、あのワルター・フォン・シェーンコップ少将のあんな顔、リンツ隊長だってずっと見てたくなりますよ。」
ブルームハルトの言うことは正しい。リンツなら間違いなく、その場でこっそりスケッチを始めたろう。
「まさか、ほんとにどこかに子どもでもできたんですかね、閣下。」
「・・・さあな。」
開いたページをブルームハルトからは見えないようにしながら、リンツは視界の端に、自分の描いた線を見ている。
目の間が広い、鼻が短い、可愛らしい間抜け顔──子どもではない。多分、間違いなく、それは子どもやその類いのためではない。
カワウソだかラッコだかのぬいぐるみの描写は、そのままそっくりヤンの特徴に当てはまる。シェーンコップがにやにやそれを見ていたのは、きっとそのせいだ。まさかそんなところを部下に見られていたとも知らずに、見ていたのがブルームハルトだったのは僥倖だ。
リンツはわざわざ厳しい顔を作って、隊長の威厳を強く声にこめた。
「おまえ、他のヤツらにそんなこと言うなよ。閣下のプライベートだ。結婚するでも子どもができたでも、閣下が言いたければ言いたい時にオレたちに言うだろう。」
「あ、はい、そうですね。」
自分の軽口をたしなめられたと思ったのか、ブルームハルトが殊勝な顔でうなずく。
スケッチブックをゆっくり閉じて、
「──閣下が幸せなら何でもいいさ。」
本音は素の声で言い継いだリンツに、ブルームハルトも同意を示して何度も小さく首を折った。
リンツはスケッチブックを唇の辺りに当てて、目の前のブルームハルトから、ついゆるみそうになる表情を隠している。
カワウソだのラッコだの、あの人の目には、あのヤン司令官がそんな風に見えているのか──ぬいぐるみを抱えて、思わずにやにやするほど。
そんな類いの可愛げとは対極にある人だと思っていたのに、大切な人に似ていると、ついぬいぐるみを手に取るほど、そんな可愛いことをする人だったのか。
その場にいて、そのにやにや顔を見たかったと、リンツは心底思う。見て、描きたかった。描いてヤンに見せたら、どんな顔をしたろう。見たヤンも、見られてしまったシェーンコップも。
自分は案外意地が悪いなと、何とか表情を変えずに、そんなことはちらとも思わないらしいブルームハルトの純真さを自分も見習わなければと心にもないことを思って、その類いの店の前をうろうろしていたら、シェーンコップを目撃できるかもしれないとろくでもないことを考えた。
どうせならカメラで映像を撮った方が、と考えたところで、邪心はブルームハルトの邪気のない笑顔で霧散し、リンツは、シェーンコップのゆるみ切った顔とやらを想像するだけにとどめておくことにした。
これからリンツの描くシェーンコップの顔は、今よりもずっと優しげになるだろう。そしてヤンを描く時に、ラッコやカワウソを思い浮かべないように気をつけなければと、リンツはもう笑いをこらえ切れずに、ブルームハルトから顔を背けて背中を震わせる。
「大丈夫ですか隊長、オレ、何かしました?」
ブルームハルトへ向かって、否定のつもりで手を振って、リンツは顔を隠したまま椅子から立ち上がる。
「ちょっと行くところがあるから、じゃあな。」
カワウソとラッコとヤンでいっぱいの頭の中から、何とかそのイメージを振り払おうとしながら、リンツは爆笑をこらえて足早にその場から立ち去る。
残されたブルームハルトが、元隊長の幸せに感涙している現隊長と言う美しい誤解で、自分も涙ぐみそうになっていたのをリンツは知らない。
ブルームハルトの純粋さで、今日もイゼルローンは平和なままだった。