"Do Not Disturb"
失礼しますと、声だけは掛けて部屋の中へ入る。1歩踏み込んだ瞬間に、唇に指を立てた上官がこちらへ素早く目配せをよこして来た。その彼の膝に乗った、乱れた黒髪。リンツは思わず背を反らして、そのままきびすを返そうとした。
いい、来い。ただし音を立てるな。
閉まるドアの音にさえ耳をそば立てて、リンツはそう上官が思ったのをテレパシーのように正確に読み、長い足を持て余すいつもの歩き方で、けれど気配はいつもよりさらに消して、再び部屋の中へ向かって動き出した。
「次回の訓練要項の、変更箇所の確認を──。」
ほとんど耳元でささやく小声にして、手にして来た書類を、紙の擦れる音を気にしながら差し出し、シェーンコップがちらりとそれに一瞥をくれたのを見届けて、リンツはすぐに退室するつもりでいた。
受け取った書類の端で口元を覆い、シェーンコップもリンツに負けない小声で、耳元へささやいて来る。
「ちょっと、手伝ってくれ。」
何を、と思うと同時にシェーンコップがリンツを自分の後ろ、ソファの背の向こう側へ手招き、素早く上着のボタンを外すと腕を斜め後ろへ上げて来る。肩周りだけを動かし、このリンツの上官のさらに上官の、つまり艦隊の司令官であるヤン・ウェンリーの仮眠を決して妨げないように、膝の辺りは意地でも動かさない。
ゆるめられた襟を引き、リンツはシェーンコップの上着の袖を、それぞれの腕から抜いた。これも、決して音を立てないように。
3人掛けのソファは、それなりにスペースはあるけれど、その2/3に手足を軽く縮めて寝入っているヤン司令官は、あった試しのない威厳を今はさらに欠いて、ローゼンリッターの新入りと言われればそのまま信じてしまいそうに少年じみて見える。
手にしたシェーンコップの上着を、これも手真似で、ヤンに掛けろと示されて、リンツはできるだけそっと、横になったヤンの体の上にそれを置く。
特に寒いだろうとも思わなかったけれど、リンツも覚えがあるこの上官の、部下へ見せる優しさが、彼の上官にも同じように向くのを目撃して、少しばかり居心地の悪い思いを味わった。
自分の部屋では、邪魔が入って仮眠も取れないのかもしれない。シェーンコップの膝を借りて眠るヤンの目元には薄暗く隈が見え、目を閉じるとますます印象の薄くなる顔立ちだと、リンツはつい絵を描く人間の目線でヤンを眺めてしまう。
思いながら、すでに頭の中には架空のスケッチブックのページが開かれ、架空の鉛筆が走り始めている。印象が薄いのか、残りにくいのか、絵にもしにくい顔立ちだった。平面に写しては彼の人となりを表す空気がすっかり消え失せ、彫刻にすると単なる置物じみるに違いない。この人は、動くそのままを映像で、できれば声や音をつけたままがいいと、シェーンコップが書類に目を通している間に、リンツはひとり考え続けていた。
いわゆる端正と言う造作では決してない。けれど、顔のパーツのひとつびとつは、描き出すと完璧な形を描いてゆく。美しさと言うのはバランスの問題だ。そのバランスが、恐ろしく難しい、微妙なレベルで成り立っている顔立ちなのだと、リンツは今は閉じられて見えないヤンの目を、記憶から引き出して頭の中の紙に描き写しながら、どれも実際の、ほんもののヤンのそれとは似ても似つかなくなるのに、内心で勝手に焦れていた。
童顔と言うよりも、無垢と表現した方がより近い、彼の顔立ち。それを彼の内面と見誤ると、手ひどいしっぺ返しを食らう。食えない人だと言う評価を、その通りだと思って、ちらりとシェーンコップを見た。リンツが目の前にいるのを忘れているのか、それとも気にもしていないのか、空いた方の手はヤンの髪をそっと撫で、自分以外の物音や気配は気にしても、自分がそうやって眠るヤンに触れるのは気にしないらしい。
こんな形で見せられる、上官からの信頼を、今は面映ゆく思うよりも少々忌々しく感じて、リンツは天井近くへ視線をさまよわせた。
返された書類を受け取りながら、リンツは少しだけ意地の悪い気持ちで、小声でまたささやいた。
「絵に、描いておきたい気がしますね。」
シェーンコップはそれを鼻先で笑った。
「描きたいなら、お目覚めの時にご本人に許可を願い出るんだな。その場で一兵卒に落とされても知らんぞ。」
なるほど、シェーンコップすら、寝顔を盗み見る以上のことはできないらしい。難しい題材の方がやる気も出ると言うものだけれど、将官の可能性を目の前にして降格処分を選ぶ愚は犯せない。
それなら記憶に頼ることにしようと、リンツは、シェーンコップの膝を借りて眠る、まるで小動物のような司令官の顔立ちへ数秒ひたと視線を当てて、それから、こちらは彫刻にしたいような伊達男の上官へ敬礼のために腕を上げ掛けた。
シェーンコップはヤンの方へ視線を落としたまま、
「悪いがついでだ、コーヒーと本を持って来てくれ。」
ヤンの耳の辺りへ掌をかぶせて、去ろうとしたリンツへ言う。はい、と素直に返事をしながら、上官の手指とヤンの髪の色のコントラストに、また頭の中では勝手に絵の具を混ぜて色を作っている。
自分たちといる時よりも穏やかな空気をまとうシェーンコップは、ぬくぬくと日向で体を伸ばす獣のように見えて、自分の膝で眠るヤンを見て、彼もまた安心の中にいるのだとリンツは思った。
「緊急でない限り、提督がここにいるのは内緒だぞ。」
言わずとも通じるはずの部下に、そうわざわざ言い足したのはシェーンコップの照れ隠しだったろうか。
滑るように部屋を出て、背中で閉じたドアに、"入室不可"と言う札でもぶら下げておきたいと思いながら、リンツの頭の中はたった今見た光景を表す線でいっぱいだった。奇妙に神々しくなる構図に、ひとりで苦笑いをこぼして、指先はもう鉛筆を握る形になり掛けている。
その鉛筆の先がヤンの、薄く開いた唇の線を最後まで描いたところで、ヤンを行方を探すキャゼルヌの尖った声が天井付近のスピーカーから聞こえて来て、リンツはそっと肩をすくめた。