本の森の棲み人 16
ブルームハルトの、書物の整理とやらは遅々として進んではいなかった。「数が多過ぎるんですよ。」
まだまだ奥へ続く山を見て、ブルームハルトがぼやく。今日は一緒にいるのはヤンだけだ。
「確かにね。これだってごく一部で、全部じゃないんだろう。」
「そうです、こんなのが後一体いくつあるのやら。私が死ぬまでには終わりそうもありません。」
今も足元へ、他の小さな山を作りながら、まだ若いブルームハルトが冗談めかして言う。
近頃は、こんな物言いにもいちいち神経の立たなくなったヤンは、竜たちの狩りの話や、狩った獣を自分で吹いた火で焼く話や、血なまぐさい話題になって特に耳を塞ぐこともなくなって、そろそろまた肉も食べられるかもしれないとひそかに考え始めている。
とは言え、思うだけでまだ試してみる気にはなれず、まだ木の実が主なヤンの食事だ。今朝食べたひどく酸っぱい赤い実は、あれはもう摘まずにいようと思いながら、穴の壁際からヤンはブルームハルトへ声を掛けた。
「変身の術について、何か書いたものはあるかい。」
「変身ですか。」
「うん、リンツやシェーンコップが人間の姿になるみたいな、ああいうの──」
ブルームハルトは、濃い青色の瞳を上下に動かして、それから書物の山を見やり、まるで人間みたいに小首を傾げた。
「・・・見た覚えはありません。あれはどちらかと言うと、学ぶと言うよりも、我々はすでに知っていると言うような・・・。」
歯切れ悪く、ヤンに対して申し訳なさそうに言うのへ、ヤンはやっぱりなあと眉の端を下げる。
「剥がれた鱗を新たに生やすような、その延長のようなことですので・・・どうやってと言うのをわざわざ記したものはないと思います。」
剥がれた鱗を生やす、ああ、また竜特有の話だと、ヤンは苦笑いした。彼らはきっと、指の先の鋭い鉤爪だって、伸びろと念じれば実際にそうなるのだろう。髪も爪も、体のほとんどが自分ではどうすることもできない人間とはまったく違う。
「じゃあ君も、しようと思えば人間の姿になれるんだろう。」
「なれると思いますが、なりたいと思ったことはありませんし、私は人間と言うものを、あなた以外にろくに見たこともないので。」
願うこと、望むこと、そうしたいと欲すること、そうなればいいと思うこと、なるほど、竜と言うのはそういうものなのか。何しろ、念じることで文字や絵を残す生きものなのだから、思念と言うものが人間などとは比較にならないくらい強いのか。
今さら、自分の考えることなど、すべて素通しだろうとヤンは思って、束の間上目にブルームハルトを見る。とは言え、幸いと言うべきかどうか、この竜はシェーンコップやリンツに比べると、ややその辺りが鈍いと言うのか、読み取ってもらえないもどかしさはたまにあるにせよ、すべてを読まれてはいない気楽さの方が勝って、ヤンはブルームハルトといるのは気安いのだった。
同時に、ヤンの何もかもを読んで、それでも何をどう読んだかをすべては悟らせないシェーンコップの聡明さに馴染んでしまった今、言葉は通じても、思うことの万分の一も伝わらない人間同士の付き合いなど、考えるだけでうんざりしないでもなかった。
わたしはますます人間から遠ざかるなあ。
遠ざかっても、だからと言って竜に近づくでもない自分の中途半端さに、ちくりと胸を刺される。
変身の術を学んで竜の姿になっても、それでヤンが竜になったと言うことにはならない。無理はするなとシェーンコップが言う通り、自分が求めているのはそういうことではないのだと、はっきりとヤンは理解していた。
ヤンは人のままであり、シェーンコップは竜のままであり、互いの差異を何とか飲み込みながらこのまま行けないものかと思って、それを飲み込むのはシェーンコップだけではないのだと、本の山を一生懸命崩しているブルームハルトを見て、ヤンは思う。
彼らも、ヤンがシェーンコップのつがいでなければ、こんな風に付き合ってはくれないだろう。
あの白い竜のように、はなからヤンに拒絶の態度を示す竜もいる。それを狭量だと責める権利は自分にはないと、この竜の谷の闖入者であり、居候であるヤンは冷静に考えた。
無理を飲み込むのは、シェーンコップや、親しい竜たちばかりだ。自分ではない。
ため息がこぼれそうになったところで、何やらヤンに話し掛けていたブルームハルトのひと言に、ヤンは思わず顔を上げる。
「え、何だって。」
「しばらく、ここへは来れなくなるんです。」
え、とヤンは再び聞き返す。
「卵をあたためる役が回って来まして──ここの整理はしばらくお預けです。」
ブルームハルトが、それを晴れがましいと思っている、あるいは面倒くさいと感じている、どちらとも分からない言い方で説明し、また書物の山へ向き直った。
鉤爪で、書物を傷めないように気をつけながら、ブルームハルトは話し続ける。
「一度抱えると、しばらく飲まず食わずです。もちろん誰かが何か運んで来てくれたり、交代してくれたりしますが、できるだけ体温を途切れさせない方が卵にも良いので──」
この間の弔いの後でできた仔なのか。生んだのは一体どんな竜なのだろうかと、鱗の色や首の長さを想像しようとしても、自分の知る数頭の竜を適当に混ぜた姿しか思い浮かばない。
「君がやるってことは、シェーンコップやリンツも?」
「いえ、今回は私だけが行きます。元々は隊長がと言う話でしたが、隊長が断ったのが私に回って来まして。」
「断った? シェーンコップが?」
「ええ、今は卵を抱いて身動き取れなくなるのが何となく嫌だと。」
すっと、頭から血が下がったような気がした。根拠はなかったけれど、シェーンコップがそれを断ったのは間違いなく自分のためだとヤンは思った。自分の傍から離れないためにだ。ヤンをひとりにしないために、仲間たちの卵をあたためると言う役目を、シェーンコップは断ったのだ。
ごくっとかすかに喉を鳴らして、ヤンは震える声でブルームハルトに訊いた。
「卵をあたためてくれって頼まれるのは、それなりに晴れがましいことなんだろう。」
ブルームハルトが、深い青の目を輝かせる。
「ええ、それはもちろん。生んだ者が、適当に頼む場合も当然ありますが、手荒に扱えばすぐに壊れてしまいますし、あたためて必ず無事に孵るわけでもありませんから、それなりに責任は重大です。頼まれた方だって、元気な仔が孵って欲しいですから、ちゃんと最後まで抱えてあたためられるかどうか、引き受ける前に考えなければなりません。」
「君は、卵をあたためるのは初めてなのかい。」
「いえ、これが2度目です。初めての時は、皆そうですが、どちらかと言うと交代の埋め合わせのための頭数で、手足の下にうっかり敷き込んで割ってしまわないか、心配でひと晩中眠れませんでした。あれはひどく疲れました。」
思い出して、口ほどは苦労を感じさせずに、いつもの明るさでブルームハルトが笑って言う。
足元にいくつも書物の山を作るブルームハルトの、堂々とした竜の巨体が小さく丸まって、小さな丸い卵を腹の辺りに抱え込むのを想像すると、自然にこみ上げて来るはずの笑顔が、今はヤンの口元で固まっている。
その口元の強張りを何とか剥ぎ取りながら、ヤンはブルームハルトにまた訊いた。
「君があたためて孵った卵なら、その竜の仔は、君みたいな鱗の色になるのかな。」
軽口の、冗談のつもりだったけれど、ブルームハルトは生真面目な表情を浮かべて、
「例の年寄りはどちらかと言うと金色の鱗でしたし、卵を生んだ竜は、ちょっと青みがかった鱗なので、色はそちらに寄ると思います。私みたいな鱗は、ここでは珍しいですよ。」
崖の向こう側の竜の一族の血が混じっているのだと言うことを、ヤンに思い出させるようにブルームハルトが言う。
ふうん、とヤンは、何となく自分の黒い髪を指先にかき上げた。
ヤンのその仕草を見て、ブルームハルトが思い出したと言う表情で、自分の足元を見下ろした。
そう言えば、と言いながら、ヤンの背丈ほどもある巻かれた書物の束をつまみ上げ、
「面白い話を読みましたよ。ある人間たちの街に、提督のような、黒い髪と黒い瞳ばかりが暮らしているのだと──。」
どうやら、話に夢中になって、本の整理に飽き始めていたらしいブルームハルトは、その書物の束を手に、壁際にいたヤンの方へやって来る。
「ですがその人間たちは、膚の色も、髪や瞳そっくりに黒いんだそうで・・・。」
竜の鉤爪を、案外器用に使って束を開き、ヤンの前に、1枚目と2枚目をめくって取り除くと、その街の記述のある場所をブルームハルトは指して見せた。
「その街は海の傍にあって、その街の真っ黒い人間たちは海の生きものを取って暮らしていて、その海には、私たちよりずっと体の大きなものたちも棲んでいるんだと──」
面白そうにブルームハルトが、自分の指の先の文字を読みながら、ヤンに説明してくれる。
「へえ、海かあ。」
「海を、ご存知ですか。」
ブルームハルトの青い目──きっと、その海にそっくりの──に、好奇心の色をひらめかせてヤンに訊く。ヤンは申し訳なさそうに肩をすくめて、
「実際に見たことはないよ。君と同じで、こうして読んで知っているだけだ。」
「そうですか。」
残念そうに言うのへ、ヤンは一緒に書物の上へ、傷めないように注意して乗り掛かって記された文字を読みながら、ブルームハルトの指先よりもっと先へ視線を進めた。
「君らのうちの誰かは、海を実際に見たことがあるのかい。」
さあ、とブルームハルトは長い首を振る。
「私はその、黒い人間と言うのも、これを読んで初めて知りました。海まで飛んで行ったことのある者が、この谷にいるかどうか・・・。」
書物は、海への方角と、海までの距離を示し、街の様子も、実際に見たように記されている。
ヤンはしばし、竜との暮らしも、竜の卵のことも、すべて忘れて書物に見入り、黒い人間たちの住む、海の傍の街とやらへ心を飛ばした。
ヤンと同じ黒い髪、黒い瞳、そして黒い膚、ヤンとは少し違う、けれど同じ黒を背負って、彼らは一体どんな風に、何を受け入れ、何を拒んで暮らしているのだろう。ヤンのような人間を、彼らはどんな風に扱うのだろう。
自分と言う人間と竜と言う生きものとの差異と、ヤンと言う人間と黒い人間たちの差異と、どちらがどれだけ大きいのだろう。
この黒い人たちは、ヤンと同じ言葉を使うだろうか。そこにも本はあるだろうか。魔術を使うヤンを、彼らも化け物のように眺めるだろうか。
竜たちは、ヤンをそんな風には見ない。明らかに、自分たちと違う生きものとしては見ても、ヤンがあまりに小さくて脅威にもならないせいか、あっちへ行けと追い出すことはしない。それももちろん、大半はシェーンコップのおかげだ。
自分の傍にいて、自分を守るシェーンコップの、その大きな羽の下でぬくぬくと暮らす今の自分へ向かって、そろそろ傷は癒えたのではないかと、ヤンは小さな声で語り掛けている。
腹が空いたと、ヤンはまた思い、けれど今のその空腹感は、シェーンコップへのそれではなく、自分の歯列が噛み切りすり潰して喉から胃へ送る、現実の肉片へ向かってのものだった。
腹が空いた。ヤンは自分の胃へ掌を当て、そこで消化されているわずかの木の実の気配を感じ取りながら、何か考え込むように、まだしばらく書物から目が離せなかった。