夢の中の夢
色鮮やかな夢だった。空の青さも花の赤も雲の白も自分の着ている軍服の濃い深い緑も、何もかも、塗りたての絵のように色が生き生きとして、この色をよく覚えておかなければと目を凝らし、その色ひとつびとつを指差して、シェーンコップはそれについて語るために後ろを振り返った。黒々とした、人の形をした影。誰か分かっているのに、名前が思い出せずに、シェーンコップは指差した姿勢のまま硬直して、必死でその名を思い出そうとした。呼び掛けようとしたその影の人物へ、あの人だと分かっているのに、肝心の名前が思い出せず、シェーンコップの唇はただぱくぱくと空回る。
影が、悲しげに微笑んだ。シェーンコップは焦り、今ではその影へ体全部を向けて、行かないでくれと懇願するのに声が出ない。
そうして目が覚めて、ああ夢だったのだと思った。
何だ、ヤン提督じゃないかと、目覚めて思った。あの影は、そうだった、提督だ。
色の話をしたかったのだ。目にしたそれがあまりに鮮やかで美しくて、言葉にせずにはいられなくて、そんな話を聞いてくれるのはヤンだけのような気がして、だから振り返ってそこにいた影は、ヤンに決まっていた。
夢の中ではあらゆることが筋道通っていて、分かり切っていて、なのになぜ俺はあの人の名前が思い出せなかったんだろう、シェーンコップは考え続ける。
まったく、明日の朝会ったら、夢の話をしよう。名前が思い出せなかったと言ったら、ヤンはきっと面白がって笑うだろう。
君がそんなに焦るなんてね。
そうだ、影の輪郭ですらヤンと分かるのに、なぜ名前が思い出せなかったのか。ヤンが笑えば、シェーンコップも一緒に笑って、そうして下らない夢の話を笑い飛ばして、また1日が始まるのだ。
何の変哲もない、戦争中の1日。明日がないかもしれないと思いながら、それでもこんな日々が何となく続いてゆくのだと、心のどこかでは信じ切っている、そんな日々の中の、ありふれた1日。
明日はどんな日だったか。会議はないなら、朝は少しゆっくりだろう。紅茶を持って行ったら、ヤンと少しくらい立ち話はできるだろうか。
シェーンコップは、まだ眠りに戻れずにだらだら考え続けている。
ぼんやりと薄闇にヤンの面影を手繰り寄せて、明日会うヤンを想像しながら、もう勝手に未来の会話を始めている。
他愛もない話。まだ寝ぼけていて、足を入れたらブーツが逆だったとか、ネクタイを3回も結び直したとか、玄関を出たところで転び掛けたとか、そのくせ執務の合間に読む本を持参するのは忘れずに、けれど栞を挟み忘れて、どのページだったか分からなくなったと文句を言う、そんなヤンが次々に浮かんで来る。
シェーンコップは、ひとりで笑っている。天井に向かって、心の底からの小さな笑いをこぼして、まったく貴方と言う人はと、声に出してつぶやいている。
そうだ、明日の朝まで覚えていられるように、ちゃんと見た色をどこかに描いておこう。シェーンコップは突然思いついて、ベッドの上で体を起こした。リンツみたいに上手く描けるわけはないけれど、見た色をそのまま、紙の上に表しておこう。絵の具か色鉛筆はあったろうか。何ならこれから、リンツを叩き起こしに行くか。
シェーンコップはまるで子どものようにうきうきと、ベッドから飛び降りて部屋の中を引っかき回し始めた。
なぜかベッドの傍の小さな引き出しから、求めていたものが見つかり、床に坐り込んで絵を描き始める。ヤンに見せるために、夢の中で見たままを、シェーンコップは紙の上に描き表す。
絵の具は、混ぜて色を作るのが案外大変だった。リンツはこんなことをしているのかと、今さらその器用さに驚いて、そのこともちゃんとヤンに伝えようと思いながら、覚えている色を何とか作って塗る。
ヤンに見せるために。ヤンに、見た夢の話をするために。
絵の具で湿った紙が、筆の下で裂けた。塗っていたその鮮やかな赤が、紙の下のシェーンコップの膝を汚す。ドジをしたとちょっと舌打ちして、紙を持ち上げ、赤の絵の具の冷たい感触に、血のようだと思いながら、血はもっとなまあたたかいものだと、赤の染みへ指を差し出し、指先も汚して、ふとシェーンコップの心の片隅に、白く閃くものがあった。
血。ヤンの血。
赤く汚れた自分の手を見下ろし、シェーンコップは何かに気づいて、叫びそうになった。
その、出たのかどうか分からない自分の叫び声で、シェーンコップは目を覚ます。どこまでがほんとうの夢だったのだろう。ひと続きではなく、あれは夢の中で夢を見ていたのだと、絞り上げられるような痛みを感じて、シェーンコップは枕に置いたままの頭へ両手を当てた。
ヤンに見せるために。ヤンに伝えるために。ヤンと話をするために。
ヤンはいないのに。
頭を抱えていた両手を滑らせて、シェーンコップは顔を覆った。眠る部屋の闇の中で、掌の中がひと際昏くなり、ヤンの眠りもこんな風に冥(くら)いのかと、手の届かないどこかにいるヤンのことを想った。
ヤンがいなくなってから起こったことすべてを、目にしたこと、聞いたこと、何もかもを、再び出逢えた時に伝えられるように、シェーンコップは常にそんなことを考えいてる。
ヤンを欠いた日々を、ヤンに伝えるために、ヤンの知らないあらゆることを、ヤンに聞かせるために、どんなつまらない、他愛のないことも、何もかもをヤンに知らせるために。
いつか、ヤンに会える日のために。
それは一体いつだ。一体いつまで、こうして何もかもを覚えておこうとしなければならない。何もかもヤンのための人生を、すべてを捧げ尽くした人生を、ヤンを欠いたまま続けなければならない。
ヤンがあの日流したと同じ量の血を、シェーンコップは誰にも見せずに吐き続けている。枯れて乾いた体は、もう空っぽだった。
何度こうして、ヤンがいないことを思い知ることになるのか。何度も何度も、ヤンは死んだのだと自分に言い聞かせて、だからもうやめろと心のどこかから声がするのに、知ったことかと言い返し続けて、ヤンがこの世から消え去ろうと、自分が追うのはあの背中だけなのだと、何があろうと追い続けるのだと、シェーンコップはそうして呼吸を続け、生き続けている。
まだ濃く残るヤンの気配に、懐かしい微笑みを浮かべながら、内臓を絞り上げられるように哀しくなって、自分には似合わない、その切ないと言う感情を、シェーンコップは自分が表現する術を持たないことに愕然とする。
貴方のせいだ。貴方がいれば、こんな気持ちなんか知らずにすんだのに。
そうして、それならいっそ出逢わなければ良かったのかと、シェーンコップは自分に訊く。ゆっくりと首を振り、この辛さもこの悲嘆も、それすら含めて、一瞬たりともヤンと出逢ったことを悔いはしないシェーンコップだった。
ヤンと出逢わない人生の退屈さの方が、ワルター・フォン・シェーンコップと言う人間には苦だったろう。たった千日、けれどそれは、その10倍の長さの人生の、何百倍もの面白さを生み出してくれた。
「ヤン・ウェンリー。」
声に出して、シェーンコップは呼んだ。闇のどこかから、返事はないかと耳を澄まし、目の奥がひどく痛んだ。
ヤンがいないこの世の、その声はどこにも届かず、伝う涙が、代わりに皮膚を滑ってかすかな音を立てる。
掌の中の闇に濃い影が揺らめいて、自分に向かって微笑み掛けてくれていると思った。錯覚をわざと正しはせずに、シェーンコップはヤンのいた夢の中に戻るために、間遠な瞬きを空しく繰り返している。