シェーンコップ×ヤン

Forget Me Not

 ヤンには、ごく軽度の健忘症の気がある。
 戦闘中に頭を打ったことがあるとかで、その時起こした脳震盪の名残りか、そう言えば直後には頭痛と吐き気が止まらなかったなあと言う呑気さで、本人はさして重大事だとも思っていない風だった。
 ふと忘れることがことごとく些細なせいか、軍務に関する一切合財には影響がないからと、そのために医者に掛かると言う気もないようだった。
 通路でふと足を止めて、きょろきょろと辺りを見回す。
 あれ?ここはどこだっけ? ここで何をしているんだったか。
 司令室へゆく途中でそうなっても、持ち前ののどかさでパニックに陥りもせず、そのうち何となく、司令室へ行く途中だと言うことさえ思いつけば、後はその場に着けばそこにいる顔ぶれで目的は知れる。
 たとえヤンが、1時間のうちに同じ質問を5度しても、副官のフレデリカ・グリーンヒルは顔色ひとつ変えずに同じ答えを繰り返すし、間違っても、閣下、さっきも同じことを訊かれましたわなどとは言わない。
 ヤンは元々そういう人間だと皆思っていて、だからこその記憶力抜群の副官であるのだし、事務処理は天才的なキャゼルヌがいるのだし、ヤンの周囲は、自分の担当については才能豊かな人間ばかりが集まっていて、忘れっぽいところがあると言う、司令官の少々の瑕瑾など大した問題ではないように見えた。
 シェーンコップもそのひとりだ。
 フレデリカほどではなくても、記憶力は人並み以上だったし、キャゼルヌほどではなくても、事務処理の能力は案外高く、何よりあのローゼンリッターを率いて、隊員たちの人望の厚さが、ヤンほどではなくても、彼がリーダーとしての資質に十二分に恵まれているのを何より雄弁に物語っている。
 そしてシェーンコップも、ヤンが同じ質問を何度繰り返そうと、閉口した様子もなく、同じ答えをそのたび繰り返すひとりだった。
 ヤンはペーパーバックの本を手に、司令官卓の中でだらしなく体を伸ばし、足は前に投げ出している。ぼんやりとして、けれど視線は紙面の上を動いていたし、見ていればページを繰るために手が動くから、起きてはいるのだと分かる。
 本は、ヤンの手の中で容易に開き、表紙の四隅は軽くめくれ上がって、明らかに新しい本ではない、何度も繰り返し読まれたそれで、中身と言えば、ヤンにしては珍しい、ごく軽いフィクションの短編集だ。
 それは元々、シェーンコップがヤンに貸したものだった。何でもいいから何か読むものをと、活字中毒気味のヤンに言われて差し出したそれを、ヤンはその場では読み終われずに持ち帰り、例の健忘症のせいかどうか、それが自分のものではないと思い出せないように、持ち主のシェーンコップに戻さないままになっている。
 返せとも言わずに、シェーンコップ自身も単なる暇つぶしに手にした本だったから、手元になくても別に惜しくもなく、一体何が気に入ったのか、ヤンがそれを読んでいるのを何度か目撃して、もしかすると、印象の薄い中身のせいで、新鮮な気持ちで繰り返し読めるものなのかもしれないと、シェーンコップは薄く刷かれる苦笑をヤンから隠す。
 どんな物語だったか、シェーンコップ自身もよく覚えていないその短編集の中に、1編、先天的に記憶障害を持つ男の話があって、病的に忘れっぽいその男は、あらゆることを覚えているために、あらゆることを書き留め、自分の周囲をメモだらけにすると言う、そんな内容だった。
 朝食べたものから、仕事へ出掛ける時間、家を出るまでにすること、したこと、どのバス停からどのバスに乗ってどこへゆく、降りたらどちらに曲がってどのくらい進んで、と、男はあらゆることをメモし、すべてを忘れないために、滑稽なほど必死で、痛々しいほど執拗で、そうしてある時、ある場所で出会った人のことを、他のことを一切忘れても、その人のことだけは絶対に忘れたくないと思って、その日から男のメモはすべてその人のことになる。そして最後には、男のメモにはその人の名前だけが書かれるようになり、男は、その人の名を書き留めた、何千何万と言うメモに埋もれて、と、最後がどうなったかはシェーンコップも覚えていない、その程度に、強烈さには欠けた、淡々しい話ばかりの短編集だった。
 ヤンにその本を渡したのは単なる偶然だったけれど、ヤンの忘れっぽさは、間違いなくその記憶障害の男へ重なって、ヤンがその本を読んでいるのを見掛けるたび、シェーンコップはその男の物語を思い出し、ヤンとその男を重ねながら、忘れたくないと言う人の名の書かれた何万と言うメモの山の描写に、ヤンへの自分の想いが重なってゆくのだった。
 司令官卓の後ろへそっと行って、驚かせないように、最後の2歩はわざと音を立てて、ヤンがあごを突き上げるようにして自分を見上げて来るのに、
 「面白いですか。」
と、シェーンコップは、手の中の本について訊く。毎回同じ質問をしていると言うのに、ヤンは初めてそう訊かれたように、
 「うん、割りとね。趣味ではないんだが。」
 その表情に、自分はどうして、別に好みでもないこの本を読んでみようと思ったんだろうと、訝しむ色が走る。
 誰の印象にも残らない本。読んでも読んでも記憶に引っ掛からない内容と、健忘症のおかげで、ヤンはこの本をいつも初めてのように楽しめるのだろう。
 ただ色だけを重ねたような、明確な輪郭線のない平凡な表紙のデザインも、記憶に残らない役に立っていて、ヤンはきっと本棚からこの本を取り出すたび、これはどんな内容だったかなと思いながら、背表紙のそれほどでもない厚みに、思い出そうとするよりも読んだ方が手っ取り早いと本を開くに違いないのだった。
 そうして、シェーンコップは、深くも考えずに手に入れたその本が、今ではヤンの持ち物になり、1度読んで読み捨てにされてもおかしくないと言うのに、様々重なった偶然のおかげで、ある意味ではヤンの愛読書のひとつと言っても決して間違いではない頻度で再読されて、ひそかに、その本の幸せを、自分の幸せのように感じている。
 ところで、とシェーンコップはヤンの耳元へ上体を伏せるようにしながら、低くささやいた。
 「そろそろ会議の時間ですよ、閣下。」
 ほんとうは、まだ30分近く時間があった。フレデリカに先んじると言うつもりがないと言ったら嘘になる。
 案の定、ヤンは眉を寄せて瞳を左右に動かし、そうだったっけと言う表情を浮かべて、慌てたように本を閉じた。
 しおりを挟まずに閉じてしまった、たった今読んでいたページを、きっとヤンは思い出せないことだろう。そうしてまた、この辺だったかとすでに読み過ぎているところから読書を再開するのか、それともいっそ、最初のページからまた読み直すのか。そうやってこの本に、ヤンの視線がいっそう深く染み込んでゆくのだ。
 ヤンは本を手に立ち上がり、そのヤンの背へ、シェーンコップは導くために手を添える。
 足を前に踏み出す前に、果たしてヤンが置き去りにしかけたベレー帽を、素早く、ヤンには見えないように司令官卓から取り上げ、会議の始まる前にきちんとヤンの頭に乗せるつもりで、自分の体の影に隠した。
 会議の議題について話し始めるヤンへ耳を傾け、その話し振りには一分の隙もないのに、差し出されるまでベレー帽がないことにすら気づかないのだろうと、シェーンコップは苦笑を噛み殺す。
 そしていつか、ヤンが忘れるものの中に自分も含まれるようになるだろうかと、愉快ではない想像をして、その時にヤンは、あの物語の中の男のように、シェーンコップの名を書き留め続けてくれるだろうかと思った。
 ヤンの名を書いた紙片に埋もれた自分を思い浮かべて、すべてを忘れたとしても、自分は決してヤンのことは忘れないだろうと確信を抱いて、シェーンコップはヤンが迷子にならないように、背中に当てた手は離さない。
 またふと、ヤンの目が遠くなる。かすかな戸惑いを横顔に刷いて、それでも今足を止めないのは、隣りに肩を並べたシェーンコップがいるからだ。会議に行く途中ですよと、声を掛けようかと迷った間(ま)に、ヤンはシェーンコップを見やって、ぼやけた記憶を瞬時に取り戻したのか、再びいつもの目の色が戻って来る。
 シェーンコップによって、繋ぎ合わされる記憶の断片。その代わりのように別の記憶が抜け落ちたものか、ヤンは不意に自分の手にある本を持ち上げると、
 「君の趣味じゃないかもだが、読みたいなら貸すよ。」
 シェーンコップはヤンへ向かってにっこりと笑う。ヤンがそう言うのは、少なくとも5度目だ。
 「ええ是非。提督が読み終わった後に。」
 今度もシェーンコップは、過去の5回とまったく同じ返事をした。
 ヤンには気づかれない程度に歩幅を狭めて会議室への道程を引き伸ばし、行き先を忘れたヤンが迷子になるならそれに付き合って会議に揃って遅れるのも悪くはないと思いながら、シェーンコップは、ヤンの手の中にある、元は自分のものだった本へちらりと視線をやり、それが永遠に自分の手には返って来ないことを、無機質な通路で晴れやかに予感していた。

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