シェーンコップ×ヤン
* 過去のキャゼヤン前提で、嫉妬するシェーンコップ、と言う感じのお題をいただいて。

妬心

 「またお前は!」
 キャゼルヌが、何やらヤンに差し出された書類を受け取らずに、幕僚たちに見えないようにヤンの頭を軽くはたいたのが、キャゼルヌからは見えない位置にいるシェーンコップにちらりと見えた。
 「お前のサインがいるって言うのに、俺に書かせてどうする。」
 コーヒーを飲んで、ふたりの会話が聞こえない振りで、シェーンコップはごく自然に耳を澄ませて、キャゼルヌの言葉の間を勝手に補完する。
 どうやら、ヤン自身のサインがいる書類に、キャゼルヌにサインをしておいてくれ──もちろん、キャゼルヌの判断で十分と思われる内容には違いなかった──とヤンが言いでもしたのだろう。
 サインの筆跡など、誰もいちいち気にはしない。書類の署名に限定される、ヤンの悪筆は真似し難いレベルだけれど、付き合いの長いキャゼルヌなら、それも無理ではないのかもしれない。そう思いながら、シェーンコップの形の良い眉が寄った。
 シェーンコップにだって、サインを適当に真似して書いて処理しておけと、連隊長や直属の上官に書類を投げつけられたことはある。どうでもいい報告書や、時間の無駄にしかならない、下から提出された嘆願書などだ。出した後に偽だと見破られて、叱責されたこともない。
 よくある話だ。上官の方も良く分かっていて、仕事のできる、責任感のそれなりに強い部下にしか無理強いしないことでもあったから、遠回しに、おれはおまえを出来るヤツだと見込んでるんだと評価しているのだと言う見方もできる、ずるいやり方ではあった。
 付き合いの長いヤンとキャゼルヌの、馴れ合いのじゃれ合いと、そう思いながらそれを見ていて、シェーンコップは喉の奥にコーヒーの苦味とは違う痛みを感じて、結局ヤンに書類を押し付けられ一旦は受け取っても、まだそこからは立ち去らないキャゼルヌの、険しい振りをしている横顔を凝視した。
 幕僚たちは、それぞれヤンとの付き合いが様々あり、ここでは新参者のシェーンコップは、ヤンに対する知識は情報として得たものばかりで、例えばパトリチェフが、エコニアでとヤンに微笑み掛けても、シェーンコップには何のことか分からず、アッテンボローやキャゼルヌが士官学校時代のヤンの失敗談を笑い話として披露しても、一緒に笑うことはできないのだった。
 艦隊司令官以前のヤンを知る人々、佐官ですらなかった頃のヤンを知る人々、ヤンに出会うのが遅過ぎたと、悔やんだところで何もできないと言うのに、ヤンとの付き合いの浅さを悔しがる自分を止められないシェーンコップだった。
 いずれ自分も、イゼルローンを落とした時はとヤンに話し掛けて、周囲はぽかんとした顔をするだけ、と言う日がやって来るのだろうかと、ぬるいコーヒーの残りをその場で飲み干して、苦味に顔をしかめる振りをした。
 もう一度、キャゼルヌが受け取った書類でヤンの頭をはたき、その書類を司令官卓へ置いて、空になった手を、さも当然と言うようにヤンの肩に乗せるのを見て、今度は別の感情が湧き上がる。
 近々と寄った体。見上げ見下ろして、互いだけに送る視線。そこへ入り込むのを、はっきりとためらわせる、空気。付き合いの長さと言うだけではない、微妙な空気。それを読み取るのは自分だけだろうと、自惚れでなく思いながら、それを案外な必死さで牽制しようと、今動く自分の意外な可愛げに、シェーンコップは驚いている。
 「また、サボるサボらせないと言う話ですかな。」
 できるだけ優雅な物言いで、ゆったりと長い足を運び、ふたりが振り向くのへ、シェーンコップは腕を組んで見せた。
 「小官でよろしければ、司令官閣下の署名の偽造のお手伝いなど──」
 わざと少し大きな声を張り、幕僚たちの耳へ届くようにすると、ヤンが慌てて卓上の書類へ両手を置いた。
 ヤンを挟むように、キャゼルヌとは反対側に立って、シェーンコップはその書類に構わず手を伸ばす素振りをする。
 「いいよいいよ、貴官にそんなことはさせられない。不正は何しろ、キャゼルヌ事務監の、最も嫌うことのひとつだからね。」
 墓穴と知って、足元に大きな穴を掘りながらヤンがシェーンコップを見上げて来る。言いながら、苦虫を噛み潰したように、口元が可愛らしくねじ曲がる。
 シェーンコップは、それに美しく微笑み返した。
 「これはこれは──清く正しい事務監どのの前で、失礼いたしました。」
 シェーンコップの皮肉を正確に聞き取って、キャゼルヌが澄んだ緑の目をちょっと険しくした。
 ヤンの頭越しに、色違いの視線がぶつかる。当のヤンはそんなことには気づかず、急いでその書類に目を通し始めた。
 貴官にそんなことはさせられない──ヤンがそう言うのは、シェーンコップをそこまで信用は仕切れていないと言うことでもあったろうし、シェーンコップを大事な部下と思うからこそ、そんなつまらない、下らない不正をさせるわけにいかないと言うことだったろう。けれど、キャゼルヌにならさせてもいいと、ヤンは思うのだ。
 単なる付き合いの長さと言うだけではない、ヤンの、キャゼルヌへの甘えの態度は、喉に掛かった小骨のように、シェーンコップを時々いらいらさせる。
 キャゼルヌはわざとらしくシェーンコップから視線を外し、ヤンが今読んでいる書類へ、ヤンと一緒に目を当てた。
 2枚足らずの書類の最後に、ヤンはサインしようとして、もちろんペンが見当たらず、そのヤンの目の前に、キャゼルヌとシェーンコップが、それぞれ胸ポケットから取り出したペンと万年筆を差し出したのは、ほぼ同時だった。
 えーと、とヤンは迷って、きょろきょろとふたりを交互に見て、結局キャゼルヌのペンを取り、署名し終わった書類と一緒にそれをキャゼルヌに返すと、キャゼルヌは一瞬の間(ま)に、得意げな笑みをシェーンコップへ向けて来る。
 シェーンコップは万年筆をポケットに戻しながら、それを鼻先で笑って、受け流した。
 「ヤン、後で別のを届けさせるから、お前が目を通して、お前がサインしろよ。」
 ヤンに向かってではなく、シェーンコップへ向かってそう言い、やっとキャゼルヌはふたりへ背中を向けた。
 やれやれ、とヤンが髪をかき混ぜる。椅子の背にあった手をさり気なくヤンの肩へ移動させ、シェーンコップはゆっくりとヤンへ向かって体を倒した。
 「紅茶はいかがですか、提督。」
 自分のコーヒーのお代わりのついでだと言う風に、自分の空のマグを見せながら問うと、案の定ヤンは顔を輝かせ、いいね、とうなずく。
 少しの間体を起こさず、頬の触れそうな距離でヤンの笑顔を堪能してから、シェーンコップは、キャゼルヌを焼き殺しそうだった自分の視線のことを思い出し、まあいずれ、キャゼルヌとの詳細はヤン自身の口から聞き出すさと、肩に置いた手はまだ動かさずに考える。
 今の自分を見ていれば、そんな殺すような視線はキャゼルヌが発するに違いないと思って、シェーンコップは故意に指先を残すような動きで、ヤンの肩から手を遠ざけた。
 ヤンの紅茶のために爪先を回しながら、ヤンの黒髪の上に重なるキャゼルヌの瞳の色を思い出して、そう言えば、緑は嫉妬の色だったなとシェーンコップは思った。

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