優しい世界
ああ眠いなあと、ひとりエレベーターの壁にもたれて、ヤンは自分の目的地への到着をぼんやり待っていた。ムライに呼び出されて、司令室までゆくのすら面倒くさくて、呼び出しを無視するわけにも行かない自分の立場へ、やれやれと頭をかく。
あーあーとため息をついたところで、頭上の数字が点滅し、一時停止したエレベーターの扉がするりと開くと、外からどやどやと男たちの集団がなだれ込んで来た。
「司令官閣下に敬礼!」
先陣から2列目にいた、他より少し背の高いプラチナブロンドが張った美声に、ヤンは思わず丸めていた背を伸ばして自分も慌てて敬礼のために腕を上げる。
ローゼンリッターの連中だった。現連隊長のリンツの声に、全員がヤンを取り巻きながら鋭く敬礼の姿勢になって、途端にぎゅうぎゅうになった箱の中に、それでもヤンへ礼を取って多少の隙間を残してくれる。
「何だい、これから何かあるのかい。」
自分の目の前へやって来たリンツに、いっそう壁際へ体を寄せながらヤンが訊く。
「隊ち──防御指揮官閣下じきじきの、訓練の時間です。」
いまだ自分が連隊長と呼ばれることに慣れないらしいリンツが、シェーンコップとは少し系統の違う、これも整った顔立ちの線をいっそう厳しくして、ヤンへ答えた。
「相変わらずだなあ、シェーンコップは。」
ローゼンリッター元連隊長を呼び捨てにできる、数少ない人間のひとりであるヤンへ、彼らは礼儀正しく背を伸ばし、決して直視することはせずに視線はどこかへ据えて、エレベーターを待つ間はさぞかし騒がしかったろうに、ヤンが同乗となった途端しんと口を閉じてしまった。
別にいいのにと思いながら、わざわざ彼らにそれを言うのも面倒くさくて──何もかもが面倒くさいのがヤンだ──、ヤンも彼らと一緒に黙った。
そして、満杯のエレベーターはじきに再び一時停止し、扉が再度開いた時にそこに現れたのは、乳母車にさらに子どもをふたり連れた母親らしい女性だった。
女性は、扉から今にも溢れそうな男たちへ明らかに驚きと怯えを刷いて、開いた扉の中へすぐにも飛び込もうとしていた子どもたちと一緒に、乳母車を後ろへ引く。
扉近くにいたブルームハルトが、
「半分降りろ。おまえたちは後ので来い。」
鋭い、けれど決して怒鳴るような声ではなく素早く指示し、ローゼンリッターたちは言われた通りに、音もさせずにこの子連れの女性の脇を距離を開けて通り抜け箱から降りると、ブルームハルトが開いた扉をきちんと押さえ、女性と子どもたちへどうぞと中へ招く仕草をする。
彼女らは明らかに戸惑いながら、のろのろと中へ入って来て、子どもたちは母親の服を掴んで、嵩張る男たちの群れをきょろきょろ見上げている。
パネルの前にいるブルームハルトが母親に階数を訊き、再びエレベーターは上昇を始めた。
彼らはヤンの時以上に礼儀正しく、彼女らと距離を開け、正面は向かずにけれど背中も向けず、子どもたちが怯えないようにただそこにいる。
「・・・すみません、主人のところに、子どもたちを連れて行こうと思って・・・。」
まるで言い訳するように、薄い細い肩を縮めて女性が小さな声で言う。
「そうなんですか。」
ブルームハルトが明るく相槌を打ち、それでやっと、ふたりの子どもの、背の低い女の子の方が微笑んだ。幼女に微笑み返したブルームハルトは、ちょっと体を傾けて乳母車の中を見て、そちらに向かっても、作り笑いではない笑みを投げた。それを見て、もうひとりの男の子が笑い声を小さく立てて、箱の中の空気がやっと和らぐ。
彼女らの目的の階へ着くと、
「おまえとおまえ、一緒に来い。」
ブルームハルトは自分の後ろのふたりを指差し、この母子家族を先に降ろすと自分たちもその後へ続き、
「リンツ隊長、案内について行きます。では後で。」
さっとまた敬礼を残して、狭まる扉の隙間に姿を消した。
「すごいな・・・。」
自分とローゼンリッターだけになると、ヤンは思わず嘆息した。リンツが、何がですかと言いたげに首を傾げて見せる。
「いや、ずいぶんさっさと行動するもんだと思ってね。」
ブルームハルトは尋ねもせずに彼女らの案内役に立ったし、無言のままそれが当然と言うリンツの表情で、普段からこんなことはし慣れている風なのが、ヤンには驚きだった。
「狂犬だからって、誰彼構わず噛み付くわけじゃありませんからね。せいぜい礼儀正しく非戦闘員には優しく、です。」
にこりともせずにリンツが言う。狂犬と言いながら、自虐にも卑屈にも響かないのがいかにも彼ららしく、
「それ、シェーンコップが言うのかい。」
ヤンが肩をすくめて苦笑交じりにさらに尋ねると、
「いえ、12代目にも同じことを言われてました。もっともその頃は、民間人と行き合うことはなくて──。」
本来なら、司令官と直接口を聞くなどないだろう佐官の立場で、リンツが礼を失しない言い方を探り探りの様子なのがヤンには少しおかしく、この辺はシェーンコップこそリンツを見習って欲しいと、心の中でだけ苦笑をこぼしていた。
「指揮官閣下に曰く、武器や弾薬と違って、優しさはいくら使おうと補給も手入れもいらないからどんどん使え、だそうです。」
「へえ、シェーンコップがねぇ・・・。」
思わず眉を上げて、ヤンは意外なことを聞いたと言う表情を浮かべる。
そうしてふと、以前見たある場面を思い出していた。
ヤンは珍しい丸1日の休日で、日光浴──ユリアンにそう言われたからだ──を兼ねた散歩の途中で、公園の中を通り過ぎながらそろそろ元来た道を戻るかと立ち止まって、ぐるりと植えられた木々の間から、外の通りへ視線を投げたところだった。
ランド・カーへ向かって体を傾けている軍服のシェーンコップをそこへ見つけ、せっかくの休日に会いたい人物ではなかったから、ヤンは姿を消そうと肩を回し掛けたところで、何かに気づいたらしいシェーンコップが背を伸ばし、さっさと道路を横切り始めるのを見た。
走る車の間を縫うようにして小走りに向こうにゆくシェーンコップの長身を、ヤンは一体どうしたのかとそこから眺めていた。
渡った先に、両手に買い物の紙袋を抱えた、やや背中の曲がった女性がいて、髪の白さから彼女はそこそこの高齢に見えた。シェーンコップはその女性に向かって体をかがめ、耳元で何か言って、彼女の腕から買い物の袋を取り上げる。そうして、彼女をかばうように走る車へ背を向ける形に、ふたりでゆっくりと車道を渡り始めた。
ほとんどの車はふたりのために速度を落としたけれど、1、2台、苛立たしげにクラクションを鳴らす運転手もいて、それへ向かってシェーンコップはいつもの不敵さ──ヤンにはそう思えた──でわざとらしく肩をすくめて見せ、悠々と、いつもよりずっと小さい歩幅で彼女と一緒に道路を渡る。彼女は支えのためかシェーンコップの腕へ自分の手を置き、やや危うい足元を気にしながら、時々シェーンコップへ向かって顔を上げる。そのたび、シェーンコップが何か小さくうなずいているのが見えた。
やっと車道を渡り切ると、彼女はそこから2台先のランド・カーを指差し、シェーンコップはそこまで彼女を送って、車の中に荷物をきちんと入れ、彼女の車が動き出して去るまでその場を動かなかった。
その後は、手を動かして時間を確かめる素振りで、急ぎ足に自分の車へ戻り、あっと言う間にそこから姿を消した。
そんな場面を目撃したと、ヤンはシェーンコップに言ったことはなかったし、誰にも──ユリアンにすら──話したことはない。今、リンツの言った優しさ云々で、その日のことを思い出して、ヤンはへえと改めて何とも言えない微笑ましい気分になった。
初めてローゼンリッターを見たのも、そう言えばウェイトレスの若い女性を助ける場面だったと、記憶をたどるうちについ口元がほころんでいる。
ローゼンリッターたちの目的の階へ着き、彼らはヤンへ背を向けないようにしながら下りて、狭まる扉の向こうでまた敬礼を返して来る。いらないいらないと、ヤンはぞんざいに手を振って、
「シェーンコップに、わたしにももっと優しくするように言っておいてくれ!」
扉が閉まる直前に思わず思いついて、口元へ手をやって、リンツへ向かって怒鳴った。
え?と、リンツが訊き返したそうに口を開いたのがちらりと見え、やっとひとりきりに戻った箱の中で、ヤンは残りの時間をくつくつ笑って過ごした。
その日1日、妙にヤンの機嫌が良かった理由を誰も知らない。