ルージュの伝言
傍を通り掛かったブルームハルトの背中を叩き、シェーンコップが上機嫌に何か話し掛けて、何を言われたのかブルームハルトは頬を赤らめ、ローゼンリッター副連隊長も、要塞防御指揮官で元連隊長に掛かるとただのガキ扱いだ。リンツは表情も変えずにそれを眺めて、シェーンコップの前ではすぐに新米陸戦兵士の貌(かお)になるブルームハルトの、無邪気な賞賛の目の輝きを脳裏に描きとめて、描きためたブルームハルトのスケッチのどれに手を入れようかと、そんなことを考えている。
シェーンコップは、皆の調子はどうだと言いながら、リンツの方へやって来た。
一応は椅子から立ち上がり、現連隊長として、先代連隊長へ礼儀の敬礼をする。
「何も変わりはありません。」
誰も訓練には熱心だし、連隊内での仲間としての繋がりも変わらず強固、けれどイゼルローン駐留以来、排他的で、隊外へ向かっての敵意丸出しの態度はすっかり和らぎ、それは主にシェーンコップと司令官ヤンの友好で良好な関係のおかげだったし、隊長であるリンツの、怒りを表せばためらいなく鬼神と化すにせよ、基本的には気分の上下の少ない、常にごくごく普通である態度のせいもあるように見えた。
シェーンコップも元々、何かで機嫌が悪いと言って部下に八つ当たりをするタイプではなく、負の気持ちはひとまず置いて、部下の方をまず大事にする上官ではあった。
気に食わない上へ向かっては、喧嘩腰に怒鳴り込むよりも、毒舌と辛辣な皮肉で相手をやり込めるのがほとんどで、素手での喧嘩ならシェーンコップに勝てる人間はほとんどいないだろう現実を前に、皮肉られた上の面々は、ローゼンリッター全体に対して冷たい扱いをすると言う形でそれをやり返していた。
シェーンコップがどういう隊長であっても、どうせローゼンリッターへの扱いに違いがあるはずもなく、それへ対しては、せいぜいが能無しの役立たずどもと軍上層部を罵るのが、隊員たちにできる精一杯の腹いせだった。
上への敬意はなくても、どれだけ捨て駒扱いで理不尽に小突き回されようと、与えられた任務はきちんと果たす。それは、ローゼンリッターの誇りであり、シェーンコップの好む皮肉であり、そうして、あまり陰湿には陥らない、軍と政府への嫌がらせでもあった。
シェーンコップの、太陽のような明るさ、翳りのないように見える快活さは、明らかにその頃のローゼンリッターと言う集団の色を決定していたし、それを好ましいと常に思っていたリンツは、新隊長の自分の色などと言うことは一瞬も考えずに、シェーンコップの築いた空気をそのまま受け継いだつもりでいる。
シェーンコップに比べれば地味な、まぶしいような陽気さはない自分のことは分かっているつもりで、その色は多分、次に連隊長になるだろうブルームハルトが、その時に彼らしいさらに明るい色を塗り足せばいいのだと考えていた。
自分がすべきなのは、常に足を前に出し続けるローゼンリッターの、その強さを維持し続けることだと、リンツは弁えている。
部屋に入って来ただけで、照明が2割増しになったように周囲を明るくする元隊長の、上機嫌の笑顔につられながら、目の前のシェーンコップから少しきつい香料の香りを嗅ぎ取って、笑みの半分を真顔に戻す。
「隊長・・・。」
元、だと言うのに、いまだシェーンコップを時々そう呼んでしまうリンツは、匂いのことを言おうとしてから、シェーンコップの襟元のスカーフに、赤い口紅がべったりとついているのを見つけた。
歪んだ形はどうも下唇に見えて、そこのスカーフの下の、首筋には上唇分の口紅の跡があるのかもしれないと、これもまた無表情に考える。
けれど単なる事故だろうと思ったのは、香料の匂いが複数めちゃくちゃに混じり合った、いわゆるひとり分の心地好いものでは決してなく、大量の女性ばかりの場所へ行った時の、香水の水飛沫でも浴びたような、良いを通り越して胸を悪くする類いのそれだったから、またどこかで女性の集団に囲まれて来たのかと思って、リンツは、さてこれは妬む──振りだけでも──するべきか、気の毒にと思うべきなのか、迷って結局表情を変えはしない。
「スカーフに、口紅が・・・。」
小声で指差すと、あ?と示されたところをシェーンコップが掌で覆い、珍しく大きく舌打ちをして不機嫌を露わにした。
「さっき、エレベーターがいっぱいでな・・・。」
視線の届くはずのないそこへ、顔をねじ向けようとするのに、リンツは薄く苦笑して、何も言わずに自分のスカーフをほどいて取る。
それを一旦自分の肩へ掛けると、長い指でシェーンコップのスカーフをさっさと抜き取り、そうしながら、シェーンコップの首へ触れるのは慎重に避ける。
そこに無遠慮に触れることをシェーンコップが許すのは、イゼルローンではひとりだけだと、リンツは知っている。
予想した通り、唇の半分の跡があり、それは拭っても落ちないから、巻きつける自分のスカーフがそれを完全に覆うようにしながら、
「司令官閣下が、それをお信じになるといいですが。」
嘘は言っていないと知っているくせに、シェーンコップの皮肉をせいぜい真似て、リンツは笑いを含んで言った。
上着の中へ、結んで垂れた分を押し込むのはさすがにシェーンコップ自身へ任せて手を離すと、
「おまえに心配される筋合いじゃあない。」
上着の前と襟元を整えながら、シェーンコップがちょっと憮然と言い返して来る。
元連隊長と司令官の、良好な関係。見た目は、光と影のようなふたり。自分たちを真っ当な一(いち)軍人として扱う司令官へ、リンツは口にしたことはまだない感謝の念を抱いている。
派手な振る舞いでわざと嫌われ者になり、常にローゼンリッターと言う鬼子集団の矢面に立ち続け、あらゆる心無い誹謗中傷を自分ひとりの身に受け続けたシェーンコップを、もうそんなことをする必要はないと、司令官に信頼され重用される部下──英雄と呼ばれる人の、片腕──として認めさせた、ヤン・ウェンリーと言う男が、シェーンコップをどれだけ幸せにしているのか、派手に表すことはせずにシェーンコップを年の離れた兄のように思うリンツは、自分の家族の幸せを喜ぶように、そのことを喜んでいた。
「後で、返しに来る。」
「いいですよ、そのままでどうぞ。おれも替えは山ほどあります。」
この上機嫌は、やはりこれからヤンに会うせいかと、リンツは内心で大笑いしたいのをこらえて、せいぜいあの人と仲良くして下さい、それがおれたちローゼンリッターのためでもありますと、悪ぶっていかにも利己的なことを考えて、この人が幸せならおれも幸せなのだと、本音のところをちらりと思う。
自分の大切な人の、屈託のない笑顔が見れるのは、こんなにも心をあたたかくするのだと知らなかったリンツは、じゃあなと手を上げて、その手をまだ首筋へ持って行きながら去ってゆくシェーンコップを見送り、口紅の跡でちょっとうろたえたシェーンコップの顔をスケッチしておこうかと、意地の悪い気持ちを、しばらくひとりで楽しんだ。
シェーンコップの残したスカーフを手に、そんな想像を楽しみながら、シェーンコップそっくりの面白げな笑みがリンツの口元に浮かんでいるのを、ブルームハルトが向こうで不思議そうに見ている。