小さな弔い
いつもよりずっとしょぼくれた顔で、ヤンが突然ローゼンリッターたちのたまり場へ顔を出し、隊員たちは一瞬その男をヤンと見分けられずに、上ずった声で、「し、司令官閣下!」
と誰が叫んだものか、ふた拍遅れながらも、一斉にだらけていた椅子やソファや床やテーブルの上から立ち上がり、慌てて敬礼をする。
ヤンはなぜか胸の前で掌を合わせるように重ねていて、
「シェーンコップはいるかい。」
ぼんやりした声が訊くのに、部屋のいちばん奥にいた隊員が、背後のドアを素早く叩いた。
「閣下! 閣下がお呼びです!」
誰が誰のことやらさっぱり分からない呼び方で、開いたドアからまずリンツが顔を出し、その後ろからブルームハルトが、いちばん最後に、ふたりの間を割るようにして、呼ばれた当の本人が出て来る。
シェーンコップがヤンの方へ来るのに、隊員たちはさっと道を開け、こういうところはさすがだなと、ヤンは大きな歩幅でこちらへやって来るシェーンコップを見ていた。
「どうかされましたか、こんなところに。」
用があるなら端末で呼び出せば済むのに、わざわざこんなところへ要塞司令官が足を運んで来るなど、一体何だとシェーンコップの表情が訊いている。
「うん、ちょっとね、個人的な頼みがあってね・・・。」
沈んだ声でヤンが言うその声音を、シェーンコップが聞き逃すはずもなく、
「私にできることなら何でも。」
胸に手を当てて言うのが、まるで騎士の仕草だった。
「スコップかシャベルを借りたいんだが、どこに行けばいいかな。」
「シャベル?」
「うん、土を掘りたいんだ。小さい穴でいいんだが・・・。」
言いながら、ヤンが自分の手元へうつむき、重ねていた掌をずらしてそっと開く。掌の中の薄闇に、ぼんやり白っぽい固まりが見えた。
それが何かきちんと見極める前に、シェーンコップは後ろの部下たちへ声を張る。
「誰か資材課に行って来い。シャベルを1本──でいいんですか?」
ヤンに横目で確認すると、ヤンはうんと浅くうなずいた。
「この鳥の雛を埋められればいいんだ。」
ヤンがまた自分の掌の中を覗き込む。シェーンコップはそのヤンを数秒見つめて、改めて後ろへ声を投げた。
「オレが行きます!」
ブルームハルトが挙手して、さっさと部屋の中を後ろから進んで来る。
自分の傍を通り過ぎる彼に、
「──悪いね、わざわざ。」
ヤンは声を掛け、それからシェーンコップの方へ顔を上げて、
「君にも、悪いね。」
と、シェーンコップにだけ聞こえる小さな声で行った。
土のあるところと言って、公園しか思いつく場所もなく、憲兵か何かに見咎められたら、防御指揮官の権限で黙らせることにして、シェーンコップはブルームハルトの借り出して来たシャベルを肩に乗せ、とぼとぼ歩くヤンに付き合って、そんな姿のふたりを見て、通り過ぎる人たちは一体何事かと言う表情を浮かべてゆく。
「シャベル1本に、ローゼンリッターの副連隊長を使いっ走りに使って、悪かったね。」
ヤンがまた言うのに、シェーンコップは笑いを返して、
「なあに、ブルームハルトのヤツ、資材課の受付にいる女の子を気に入ってましてね、会いに行くちょうどいい口実ですよ。」
そう言うのがほんとうか嘘か、ヤンには分からない。
ヤンは相変わらず胸の前に両手を重ねたまま、それへ視線を当てたままでいる。
いつものように、日光浴をさぼる口実にして思索のベンチへ行った。ベンチの下で、何かかすかに動くものがあって、その何かに、ヤンはしゃがんで目を凝らした。
羽毛もない鳥の雛だった。灰色がかったピンクの体は骨の形が透けて見えるようで、正直可愛らしい見掛けではなくむしろ不気味な、ヤンはちょっとたじろいでそのまま立ち上がり掛けた。
周囲に、親らしい鳥の姿はなく、一体どこから来たのか、巣から、もっと大きな鳥にさらわれて落とされてしまったのか。
考えて、その雛を無視してベンチで昼寝をする気にはならず、せめて固いコンクリートではなく土の上へ移してやろうと、恐る恐る手を伸ばす。できるだけそっと掌に乗せて、小さな体にもうぬくもりなどないのに、ヤンはもう死が近いのを悟り、もう一度、親が辺りにいないかと頭上の人工の空を見渡した。
小さな黄色いくちばしは、少しずつ白っぽくなり、ヤンがどうしようかと掌を見下ろしている間に、それでもはたはた震えていた羽がついに動きを止め、雛は半目のまま、動かなくなった。
すぐに冷たくなるわけじゃないんだな・・・。
ヤンは片手に収まる小さな体を、それ以上何かに襲われたりしないように──とっくに手遅れだけれど──、もう一方の手で覆って包み、しばらくの間、胸の前に雛の死骸を抱えてうつむいていた。
埋めてやろうと思いついた瞬間、穴を掘るなら道具がいるが手を貸してくれるのは誰だと、肩を回しながら考えて、すぐに浮かんだのがシェーンコップと言うわけだった。
ヤンが頼めば、思いつく誰も、笑ったり馬鹿にしたりせずに手伝ってくれたろう。たかが小鳥と、思いながらも口にはせずに、ヤンの頼みを聞いてくれたろう。それでもなぜか、それを頼む相手にシェーンコップしか思い浮かばず、わざわざ死体の雛を素手で運んで来たのかと、皮肉のひとつでも言われるかと思ったのに、シェーンコップはそんなことはひと言も口にはしない。
部下の目の前で、自分の上官に対して不遜な態度を見せるわけにも行かないと、そう思ったのかもしれないとヤンは思いながら、いや多分そうではないとも思う。
ヤンが、死んだ鳥の雛を抱えて埋めてやりたいと言った気持ちを、シェーンコップなら、それ以上言葉を重ねなくても分かってくれる気がした。そして恐らく、シェーンコップはヤンがそう期待した通り、この小さな弔いの意味を理解している。
「ここらにしましょう。」
思索のベンチから少し離れて、大きな樹の木陰を選び、シェーンコップが早速シャベルの先を土に突き立てる。
犬がうろつくわけではなし、掘り返されないために、それほど深くする必要はなかった。それでもシェーンコップは、額に浮いた汗を時々拭いながら、自分の腕の長さ程度の深さの穴を素早く掘り終えた。
ヤンはその間、シェーンコップと深くなってゆく穴と、掌の中の雛鳥を代わる代わる見て、美しく成長した、少なくとも鳥と分かる姿になった雛を想像していた。
ヤンの小指の長さほどもない羽の部分は、育てば羽毛にきちんと包まれて、ヤンなど想像もつかないような高さにはばたいて、そうして自由を楽しめたはずだったのに。こんな小さな体で、親も兄弟もいないところでひとりぼっちで死んだのか。コンクリートの上でなかっただけましかと、自分の掌を見下ろして、
「もう、いいですか。」
とシェーンコップに声を掛けられるまで、今はヤンの体温よりも確かに冷たいその小さな体を、そっと指先で撫でていた。
穴の縁へしゃがみ込み、できるだけ静かに、穴の底に雛を横たえる。ヤンの小指よりも細い首がふらふらと揺れるのをできるだけ真っ直ぐにしてやり、開いたままの羽を体に添わせて、ヤンはやっと空手になって立ち上がる。
シェーンコップが土を掛けようとするのを、
「わたしに、やらせてくれ。」
ヤンはシャベルをその手に受け取った。
土は意外と重く、最初のひとすくいでもう鳥の姿は見えなくなり、ヤンは黙ってシェーンコップが掘った分の土を穴の中に放り込み、最後に、取り避けて置いた芝生の部分を上に乗せて、中心は避けて境いの部分だけをシェーンコップが丁寧に踏んで馴染ませるのを、ヤンも真似した。
「後で、花でも持って来ますか。」
シャベルの柄に両手を乗せて、決してからかうようではなく、シェーンコップが言う。
そうだねと、あまり気乗りしない風にヤンは答え、
「花は枯れてしまうからな・・・。」
小さな埋葬のしるしに、死んでしまうものを据えるのは何となく気が進まず、ヤンははかばかしい返事もせずに、たった今雛鳥を埋めた場所をじっと見ている。
「人殺しのわたしが、鳥の雛1羽で大騒ぎするのも笑止千万だろうが・・・。」
「死ぬのに、人間も鳥も違いはありませんよ。もうちょっと育ってせめて鳥と分かる姿になって、空でも飛べれば、それほどこの世に未練もないかもしれませんが・・・あるいは、幼過ぎて何も分からない、そんなところですかね、もしかすると。」
声を落としたヤンに倣ってか、シェーンコップの声を低めてそんな風に言う。シェーンコップをちらりと見て、ヤンは肩をさらに落とした。
「ひとりで死なせたくなかったんだ・・・。」
掘り返した土に染み込むような声で、それはもしかしたら穴の底に横たわる雛鳥に届いたかもしれない。自分の言い草に対してシェーンコップの毒舌か皮肉を予想して、ヤンは先に、
「単なるわたしの感傷だがね。」
そう言い足した。
予想に反してシェーンコップは苦笑すらこぼさずに、真顔のままヤンを見つめている。
「貴方の手の中で死ねたなら、死に方としては上等の方でしょう。おまけに簡素ながら弔いつきだ。小鳥も文句は言いませんよ。」
シェーンコップは、どうやら本気で、ヤンが鳥の死を悼んでいるのを下らないとは思っていないようだった。ヤンはそれを不思議に思いながら同時に、だからこそ、この弔いの連れに自分はシェーンコップを選んだのだと悟っている。
もっとましな死に方はもちろんあったろう。それが実際に叶うかどうかはともかくも、そもそも雛鳥は、自分が死ぬなどと考えていたのか。
動物たちの思うことは分からない。同じ人間であっても、自分でない他人の思考など読み取れない。何十万の人間を一瞬で殺すヤンが、小鳥1羽を掌の中で死なせて、それを悲しむのを愚かしい偽善だと、ヤン自身が理解しているのだとしても、小鳥の死に心が痛むと言う事実は変わらない。
誰かが死ぬたび、ヤンはそうとは言わずに心を痛めている。自分のせいで起こった、無数の死。小鳥を弔ったくらいで償えるはずもない、それ。それでも、目の前の小さな命が喪われたことに、自分が積み重ねて来た死に対してと同じほど、ヤンは悼む気持ちを止められない。
「行きましょう。」
短く、シェーンコップが言う。伸ばされた腕に従って、ヤンはやっと雛鳥の墓から離れた。
生まれ変わった魂は、星間も自由に行き来するのだろうか。次は人工ではない空と太陽と土のあるところに生まれて来ればいいと、祈る言葉を持たないヤンは、死んだ雛鳥のために、どこへとも誰へともなく願う。
隣りを歩くシェーンコップが前を向いたまま、
「石でも探して、リンツに、絵でも描くように言いますか。墓石代わりに、何かあってもいいでしょう。」
ヤンは思わずシェーンコップの横顔へ視線を当てて、
「・・・そうだね、彼に、迷惑でないなら。」
そう答える声に、かすかな安堵が混じる。
感情の流れも何もかも、シェーンコップに委ね切って、ひとりでは抱え切れないなら、助けてくれと腕を伸ばすことも今は許される。際限なく甘えることは戒めても、自分の脳の内側を読み取ることに奇妙に長けたこの男の肩へ、荷物の何分の一かを渡してしまうことを、甘えだと思う罪悪感は、今はない。
ひとりではないのだと、ヤンは思った。小鳥の死を、ひとりきりで哀しむ必要はないと知っている。
リンツが描いてくれるだろう絵を想像しながら、自分に合わせてゆっくりと歩くシェーンコップの爪先へ、ヤンはほんの少しだけ軽くなった気持ちで視線を当てた。