シェーンコップ×ヤン

恋泥棒

 「できるのにやらないのを無能とは言わないのですよ提督。」
 「他に有能な人物がいるのに、明らかにそれ以下のわたしが無理にやる必要もないだろう?」
 「なまけものの言い草ですな。」
 「なまけもので結構。」
 手渡された分厚い書類の束を、いつもの皮肉笑いで見下ろして、シェーンコップはすぐには立ち去らずにヤンに突っ掛かる。シェーンコップがヤンにあれこれ言うのは、単なる趣味だ。
 獣がじゃれ合うように、シェーンコップがヤンにふざけ掛かる。時々混じる本音を、ヤンが聞き分けるかどうか試すように、ヤンは聞き分けようが聞き分けまいが、大半のそれをただ受け流す。心にはとめても、本気の言い合いになどする気はない。
 シェーンコップは、言葉をもてあそびはしないけれど、盲信もするタイプではない。言葉を大事にしながら、それの虚しさもきちんと知っている。ヤンは言葉を信じながら、それがうまく機能はしないことにやや落胆もしている。絶望はしない。してしまったらそこで思考は停止する。言葉と思考が結びつき、言葉が生き続けることは思考も生き続けることであり、思考があれば、そこに思想が生まれる。ヤンは、ほとんど子どものような無邪気さを捨てられずに、それを信じている。
 そんな風にふたりは、言葉を使ってじゃれ合いながら、少しずつ違う互いの考えを探り探り、表面上は際どい冗談と毒舌と皮肉と辛辣さの掛け合いで、周囲は時々ふたりの親密さを誤解するのだけれど、誤解をまた訂正もしないふたりだった。
 「ああ言えばこう言う、まったく貴方と言う人は。」
 呆れたと言う仕草をしながら言うシェーンコップの、口元にははっきりと笑みが浮かんでいる。
 「残念だね、わたしと言う上官の元にとどまることを選んだ君の責任だよ。そういうわけで、責任を持って君がそれを処理するといい。」
 シェーンコップに渡した書類を、ペンの先で指し示しながらヤンが言う。こちらも皮肉笑いに見せ掛けた微笑を浮かべて、完全にただの馴れ合いだった。
 「明日にでも転属願いを出しても構いませんよ、私は。」
 ヤンが軽く首を傾げて見せる。
 「君ごとローゼンリッターを引き取ると言うところがあるとも思えないし、そこで君が、君の目に叶う上官に出会えるとも限らない。とりあえずわたしで満足しておくのが、結局は最善の選択じゃあないかな。」
 「貴方が、私にとって最善の上官であると?」
 シェーンコップがにやにや訊くと、ヤンも同じようにやにや笑うだけで、それには答えなかった。
 「まあいいでしょう、ペテン師で詭弁家の貴方の相手をするのも、まあ悪くはない。」
 やれやれとわざとらしくため息をついて見せながら、シェーンコップが書類を小脇に抱えて、そろそろヤンの執務室を辞そうと、一応は敬礼の手を上げ掛けた。
 「ひどいな、世間はわたしを魔術師ヤンと呼んでくれると言うのに。」
 これもいかにもわざとらしく、大仰に顔をしかめてヤンが言った。
 「ペテン師の、耳触りの良い言い換えですな。同盟政府に作られ、持ち上げられた英雄に相応しい呼び名だ。」
 英雄、と言う言葉には、ヤンはちょっと本気で眉をひそめた。言葉遊びの冗談が、一瞬で冗談ではなくなる。シェーンコップはそれでもにやついた口元を引き締めはせずに、ヤンの、ぎゅっと寄せられた眉間へ面白そうな視線を当てたまま外さない。
 そう呼ばれるのを、本気で嫌っているヤンをわざとつついて、こんな表情をさせるのがやめられない。ヤンの方も、いい加減シェーンコップがそれを愉しんでいるととっくに気づいても良さそうなのに、そちらよりも自分の不愉快が勝つらしい。それもまた面白いことだと、シェーンコップは内心で考えている。
 なまけものだのルドルフ大帝並みの詭弁家だの、キャゼルヌには無駄メシ食らいに首から下は無用の長物とまで言われるのは平気なくせに、政府がヤンに与えた、英雄と言う呼ばれ方を、ヤンは心底嫌悪している。
 まあ、そんな見え透いたおだてに乗るような輩なら、俺は今ここでこんな風に突っ立っているわけもない。
 ローゼンリッターを率いる元帝国人の美丈夫は、裏切り者と浴びせ続けられた罵声を思い出して、それをいつも平気な振りで聞き流しながら、心の中では手の中の戦斧を振り回したくて仕方のなかったことを思い出す。けれどその戦斧を、味方である同盟軍に向かって振るうわけには行かず、元同胞の、現在は敵である帝国軍へ向かって力いっぱい振り下ろし、もしかしてあれの何分の一かは、単なる怒りの発散ではなかったのかと、やや苦い思いとともに、今になって考えている。
 そう考えられるだけの気持ちの余裕を生み出してくれた、目の前の黒髪の司令官をまだじっと見つめながら、俺もずいぶん変わったなと、シェーンコップは自嘲でもなく冷笑でもなく、ただ自分へ向かっての小さな苦笑いを、ヤンにはそうとは見えないように、唇の端へごく薄く刷いた。
 「少なくとも貴方は、人をペテンには掛けても、人から奪うことはしない人だ。他人の自由を奪って踏みにじったルドルフ大帝と、同じとはさすがに言いませんよ。」
 ルドルフの名を、わざと帝国語のままで発音する。少なくとも、シェーンコップがその名を出す時には、皮肉にせよ毒舌にせよ、自分に対する特殊な敬意の表明ではあることを知っているヤンは、困惑の中にそれでも感謝をひと色混ぜて、やっと眉の間を開いて見せた。
 シェーンコップが声に含むトーンを、ヤンが理解できるからと言って、他の人もそうとは限らない。ヤンをルドルフに例えるのは、同盟内では極めて危険な発想であることをシェーンコップはもちろん知っていて、これはほんとうにふたりきりの時にだけ口にできる冗談──ほんとうに?──だった。
 シェーンコップは、ヤンがひとまず機嫌を直したのを見て取って、言い置くように付け加えた。
 「とは言え、嘘つきは泥棒の始まり、他人の自由を奪う強盗にならないように、せいぜい気をつけることですな。」
 独裁者になれと言う同じ口で、ルドルフのようにはなるなと、一体どうして言えるのか、どこまでが冗談でどこまでが本気か、ヤンにも分からなくなるシェーンコップの軽口を、ヤンはたしなめるように声を低めた。
 「わたしは嘘つきかもしれないが、泥棒ではないよ、シェーンコップ。」
 返事をせずに、ヤンには意味の読み取れない笑みを、シェーンコップは軽く浮かべた。そして切れそうな敬礼をして、ヤンへ背を向ける。
 大きな歩幅で執務室を出ながら、泥棒と言った意味をヤンが正しく受け止めなかったことに、シェーンコップは安堵もし落胆もしている。
 もっとも、シェーンコップがそう言った通りに受け止められても、シェーンコップにはまだ心の準備ができてはいないのだった。
 他人の自由を奪う泥棒になど、ヤンがなるはずもない。そうではなく、シェーンコップの言う泥棒とは──。
 無意識に、つい自分の胸へ掌を当てて、ヤンにすっかり奪われている自分の心の位置を確かめるように、いつもより確かに早い心臓の音に、シェーンコップは今度こそはっきりと苦笑を浮かべた。

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