仔ワルターと仔ヤン
* みの字のコプヤンさんには「知らないふりをしていたんだ」で始まり、「さようならは言わなかった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字程度)でお願いします。

夢の途中

 知らないふりをしていたんだ。その子がそこにいて、その子をじっと見つめて、傍に行って話し掛けたいと思うのが一体どういうことなのか、ワルターは知らない振りをしていた。 
 その男の子は、自分より小さく弱々しく、自分よりずっと年下に見えた。
 投げ出した細い頼りない足の上に乗せた本は、大人の読むきちんとした装丁のそれで、ほんとうに読めるのかどうか、その子は真剣な視線をそこへ据え、近づくワルターに気づきもしない。
 本を持つ、それも細い指。本に挟まれたら折れてしまいそうじゃないかと、ワルターは思う。そういう自分だって、その子と大して変わらないか細い手指だと言うのに。
 重そうだから、その本持ってやろうか。胸の中でその子に話し掛ける。一緒に、子どもの薄い狭い肩をくっつくほど並べて、本の表紙のこちら側をワルターが持ち、あちら側をその子が持ち、そうして頬を寄せ合うようにして、一緒に読めばいい。ワルターはそう思った。
 やっとその子のすぐ傍へゆく。さすがにワルターに気づいて、その子は本から顔を上げた。
 あちこちはねた、けれど柔らかそうな髪。真っ黒いくせに透明な輪が見えて、つるつるつやつやしている。その髪を撫でたいと、ワルターは思った。
 「その本──」
 一緒に持ってやろうかと言い終わるのに、舌がもつれてしまった。
 ワルターを人が見る時に、常に人々──例外はない──が浮かべる表情を、この子はまったく浮かべなかった。無反応に、本の字を読んでいる時よりも関心のなさそうな色合いでワルターを見つめて来る。
 ワルターは、息を呑むほど美しい子だった。金髪には少しくすみの強い、けれど褐色と言うには淡過ぎる、ゆるく巻いた髪が顔を覆い、髪よりはすでに色のはっきりし始めた瞳は幼い子ども特有の輝きに満ちて、ふっくらとした薔薇色の頬や、同じ薔薇の花びらをはりつけたようなくっきりとした唇や、まだどこもかしこも柔らかく円やかな線に縁取られたそこに、これから一体どんな男が現れて来るのかと、大抵の女たち──そして男たち──は、年齢問わず胸をときめかせている。
 そのワルターを見て、この子は何の反応も見せなかった。
 黒々した瞳。髪よりもさらに潤みの強い、けれど関心のないものは一切そこに映らないと言うような、底の見えない漆黒。
 瞳の他は、申し訳程度につまんだような小さな鼻と、そこだけはぬれぬれと、髪や瞳の艶と同じほど目立つ、明るい紅色の唇。
 丸い頬はふわふわつるつる、ワルターですら触れてみたいと思うほど、柔らかそうだった。
 せっかく声を掛けたのに、なに、とすら応えてもらえなかった仕返しかもしれなかったし、単にその子に触れてみたかっただけかもしれないし、あるいはどんな反応でもいいから引き出したいと、ワルターは知らず渇望していたのかもしれなかった。
 とすんと彼の傍らへ腰を落とし、ワルターは突然その子の頬をつまんだ。
 彼はそれでも、無関心の色を驚きには取り替えず、ただぼんやりワルターを見ている。ワルターは、溶けるような頬をつまみ上げた指先に、ぐっと力を入れた。
 体のどこかをつねるなど、子どものいたずらに過ぎない。けれど意地悪には違いない。けんかを吹っ掛けたつもりはなく、ワルターはただ、その子に自分に向かって反応して欲しかっただけだった。
 なに、とその子の目が見開かれ、けれど言葉は引き出せず、ワルターは指先にもっと力を入れた。
 その頬は、見掛けよりさらに柔らかくほのかにあたたかく、生まれたてのけものの仔の、毛の薄いちょっと湿った腹を思わせた。片方では足りず、ワルターはもう一方の腕を伸ばし、もうひとつの頬もつねり上げる。
 今度こそ、見開かれた黒い瞳はその大きさのまま、顔を向けて真っ直ぐワルターを見る。それでも、声は出ない。
 「なにか言えよ。痛いだろ。」
 意地の悪い声を出した。指の力はそのまま、頬を外側へ引っ張ってやる。彼が何か言う。何を言ったのか聞き取れない。
 「ちゃんと言えよ。わからないだろ。」
 我ながらひどいことを言っていると、意地悪なワルターは思う。
 また彼が何か言う。また聞き取れない。そうしてワルターはやっと、彼が自分と同じ言葉をしゃべらないのだと気づく。
 帝国語をしゃべらないのか。それならこれは同盟の言葉か。
 それでは、何か言ったところでおしゃべりなどできない。つまらないと、さらに意地悪にワルターは思う。
 それならこの本は同盟語の本なのか。
 まだ字はあまり読めないワルターは、やっと本の表紙に視線を滑らせ、けれどそこに帝国の文字を認めて、子どもらしくない不審に、恐ろしく形の良い眉を、これもまた意地悪く寄せた。
 「帝国の本は読むのに、帝国語はしゃべれないのか。それともボクが帝国からの亡命者だからってばかにしてるのか。」
 「ぼうめい?」
 それだけは聞き取れたのか、彼が舌足らずに聞き返して来る。
 「ボクは亡命者だ。おまえは同盟の人間だろう。」
 「どうめい?」
 ぼうめいとどうめい、脚韻などと子どもに分かるはずもなく、けれどその言葉の同じ響きを気に入ったのか、突然その子が微笑んだ。まだ、頬をつねられたままだと言うのに。
 「おまえ、変なやつだな。」
 ワルターは、その思わぬ明るい反応に、自分のしたことをやっと恥じる気持ちが湧いて、彼の頬から指を離した。
 指の跡が残る頬をそっと撫でてやり、彼と肩をくっつけるようにして、同じように足を投げ出してそこに坐る。
 「変なやつ。」
 言いながら、彼の小さな膝の上の本を、半分自分の膝の上に引き取る。
 「普通は意地悪されたら、泣いたり怒ったりするもんなんだぞ。そんなんじゃ、ずっといじめられるぞ。」
 やり返せよと、小声で言いながら、彼が逃げもせずにワルターに本を寄越して来るのに、嬉しいような切ないような苛立ちのような、たとえ大人でもきちんと表現はできない複雑な気持ちに襲われた。
 「変なやつ。」
 それきり黙って、一緒に本のページへ視線を移した。
 装丁から知れる通り、子どもの読む本ではなかった。書いてある言葉の半分も分からない。それを一体、この子は理解しているのかどうか、目は動いてきちんとページを移動し、そしてちらりとワルターを見上げて、先に進んでもいいかと目色で訊いて来る。
 ワルターは大人ぶって、ふんと肩を揺すって見せる。
 自分が楽しんでいるほどは、ワルターがこの読書を楽しんでいないと空気に読んでか、彼は不意にワルターを指差し、
 「ぼうめい。」
 そして自分の、あるとも分からない小さな鼻を指差し、
 「どうめい。」
と言った。
 「・・・変なやつ。」
 見つめられて、黒い瞳の潤みの中に、自分が揺れている。ワルターの瞳の中にも、この子が小さく映っているに違いない。
 もう一度その頬に触れたいと思った時、彼の方がワルターの顔へ手を伸ばして来て、ちょっと爪のいびつに来られたその指先で、そっとワルターの頬をつまむ。
 彼の頬に比べれば、柔らかさはやや負けるワルターの頬に、ワルターよりもずっと小さい指先が押し当てられ、けれどそれは痛みを呼ぶものではなく、ワルターは薔薇色の唇を尖らせて、
 「もっと強くしないと、仕返しにならないだろ。」
 励ますように思わず言うのに、彼はただきょとんとワルターを見つめて、ゆっくりと手を離して行った。
 「おまえそんなんじゃ、帝国にやられっ放しになるぞ。やられっ放しになったら、今度はおまえが帝国に連れて行かれて帝国人になっちゃうんだぞ。」
 それとも、とワルターは突然彼の頭を自分の方へ抱き寄せ、震える声で続けた。
 「ボクがいつか帝国に戻る日が来たら、一緒に帝国に行こうか。その時はきっともうおじいさまもいないから、ボクはひとりぼっちだから。」
 帝国ではまず見掛けることのない、真っ黒な髪と真っ黒な瞳。物珍しさだけで魅かれているのかもしれない。けれどワルターは、なぜかこの子と離れ難い思いに襲われて、どれだけ待とうと来るはずもない、いつか帝国へ戻る日へ、この子を傍らへ引き寄せながら思いを馳せた。
 「ていこく・・・。」
 彼は言いながら、ワルターの感情の揺れに気づいてかどうか、自分を抱き寄せるワルターの腕を慰めるように撫で、そうして支えを失くした本はぱたりと閉じて彼の膝の傍へ落ちた。
 本の表紙の題名が、提督と言う言葉を含み、それが帝国とまた韻を踏んでいることにふたりは気づかず、いつの間にかワルターの腕をすり抜け、彼は本を手に立ち上がっている。
 「ウェンリー、もう行くぞ、戻って来なさい。」
 どこかから、大人の男の声がする。それをワルターは聞き取れず、それでも、その子の様子から呼ばれているのだと、それだけは分かる。
 「じゃあね。またね。」
 彼が手を振る。重そうに本を抱え、ワルターを見下ろし、初めてにっこりと笑う。
 ワルターは手を振り返し、どこへともなく消えてゆく、彼の小さな背中を見送った。
 こんな時、同盟の言葉では何と言うのだろう、考えながら、まだ覚えていない言葉を思いつけるわけもなく、それでもワルターは、帝国語も引き出さず、ただ手を振っていた。
 ぼうめい、ていこく、どうめい、ていとく、そんな言葉を頭の中に散りばめながら、さようならは言わなかった。言えなかったのに、言わなかった振りをした。言う必要がない、彼の消えた方を見たまま、そんな気がした。

戻る