ふたりはナポリタン 1
ナポリタンが食いてえと突然アッテンボローが言うから、リンツは黙ってアッテンボローの腕を引き、尉官までがゆく食堂へ連れて行った。中佐のリンツには縁のない場所であるはずだけれど、ローゼンリッターの面々といまだ出入りは絶えていず、物珍しげに辺りを見回すアッテンボローへ説明もしないまま、リンツは厨房へ通じるドアを押して、さっさと中へ入った。
「おい、いいのか。」
アッテンボローが及び腰になりながら、リンツの後を、珍しくびくびくした態度でついて来る。
「ここの責任者が、元帝国人でしてね。我々と同じ亡命者なので。」
それですべてが説明されたと言う風に、リンツは天井の明かりを必要なだけ点け、隅の方へある休憩用のパイプ椅子へあごをしゃくり、アッテンボローがそこへ、まだ居心地悪げな様子を隠さずに坐ると、その背へ脱いだ上着を掛け、まるでいつもここで仕事をしていると言う風に、誰のものかいちばん白いエプロンを壁から取り、さっさと体の前に着ける。
装甲服か訓練着か軍服ばかり見ているアッテンボローの目に、黒のタンクトップから太くて厚い首と肩を剥き出しにして、そこへくたびれた白いエプロンを巻いたリンツはいっぱしの料理人に見え、こいつ職業選択間違えたんじゃねえかと、色の淡い姿が、無個性なまでに清潔な厨房の中にぴったりと収まるのを、アッテンボローはちょっと胸を高鳴らせて眺めた。
滅多に他人と肩のぴたりと並ばないアッテンボローと、リンツはほぼ背の高さが同じだ。ヤンから見れば同じ系統だろうけれど、目の色と言い髪の色と言い、ふたりは身長以外似たところがひとつもなく、石を削り取ったようなリンツの、どこから見ても帝国人の風貌と、粘土を掌であたためながら形作ったようなアッテンボローの、祖先は赤毛とそばかすを特徴にしたはずの柔らかみを帯びた線と、ふたりが、長い長い間隔たったところで生まれ育った後で、こうして同盟で出会ったのだと言うことがよく分かる。
リンツは冷蔵庫から必要な食材を探して取り出し、戦斧を手入れする時と同じ手つきできちんと並べ、それからまた冷蔵庫を開けて、ちっと舌打ちをした。
「ハムがないので、ベーコンにします。」
上官に報告する部下のような口調で、銀色の冷蔵庫の扉の向こうから、いつ聞いても耳から脳の奥へ直接滑り込んで来るような、厚みのあるベルベットのようなリンツの声が、吸い取るものの少ない厨房で、いつもよりもたっぷりとした音量でアッテンボローの鼓膜を音楽的に震わせる。
アッテンボローは、きびきびとリンツの立ち働く姿を眺めながら、その声へ向かって目を細めた。
リンツはたまねぎを、涙の出ないように注意しながらざくざく切った後、包丁を一度洗って、ピーマンを半分に切った。
自分を見つめているアッテンボローを見ないようにしながら、ピーマンの断面の、外の緑の鮮やかさと、中身のさわさわとした白身の対比に、首筋の辺りへ熱が上がるのを感じて、そうなれば逆に、氷のような動きのない表情を保って、さくりとピーマンの種へ長い指先を差し入れる。
触れるその柔らかさは、まるでひとの体のようだ。剥き取れば手の中のピーマンが、痛みに身を震わせて悲鳴を上げそうに、リンツはそうはさせないために、そっとピーマンに触れ、種を取る。痛くはしない、そっとするからと、そう心の中で声を掛けながら、丁寧に種を取り除く。指先で、取り切れていない種はないかと中をなぞり、そうする自分の指先が今触れているのが、ピーマンでないような心持ちに陥って、静かに胸の中で掛ける声に、他の誰にも、どんな時にも使わない優しさのこもるのを止められない。
戦斧で敵をまっぷたつにするのに躊躇はないくせに、痛覚も声もない野菜を切って下拵えするのに、指先にためらいが滑り込む。ピーマンの種の感触に、思い出すものへ心が飛び掛けるのを、リンツは必死で止めた。
アッテンボローが自分を見ている。美味いナポリタンを期待して、いつもより視線の熱っぽい気がするのは、夜中の思いがけない空腹のせいであって、自分のためではないと言い聞かせながら、リンツはとんとん軽い音を立てて、ピーマンを思ったよりも細く切った。
マッシュルームの、予想を裏切るなめらかさに、また指先が、流水の下で惑う。丁寧に残った汚れらしきものを拭い落とす手の中に、あるのは白いマッシュルームではなくて、アッテンボローの肩や首筋だ。
それも薄切りにするのに、ひどく罪悪感が湧いて、おい、オレが作ってるのはナポリタンだぞと、何度も言い聞かせなければならなかった。
ベーコンの、脂の詰まった肉々しさ、この人は、切り裂かれた人間の体の中身を見たことがあるだろうかと、決して漂っては来ない血の匂いを、それでも習慣で探しながら、リンツは時折感じる、ローゼンリッター連隊長である自分と分艦隊指揮官であるアッテンボローと、その間に横たわる、決して埋められない隔たりへ、また心の端が引っ掛かるのを、知らず軽く頭を振って追い払った。
「おまえ、随分手慣れてるな。」
「陸戦は、食料は自力調達が基本ですから。」
「パスタなんか茹でてる暇ないだろ。」
「勿論です。食中毒は困るので、必ず火は通しますがね。こんなにのんびり料理ができるのも、提督たちのおかげですよ。」
さり気なくリンツが言うのに、アッテンボローはちょっと照れたように肩をすくめた。
共食いと言われる、対帝国軍との戦闘に、元帝国人のリンツたちローゼンリッターは一体何を思うのか、殺す相手が元同胞と言うのは、一体どんな気分なのかと、スパゲッティーを茹でるための深鍋へ水をためるリンツの、肩幅の広い背中を見つめて、エプロンの腰の結び目をするりとほどきたい悪戯心が湧く。
エプロン越しではなく、薄いタンクトップの腰に腕を巻いて、料理の邪魔と分かっていてもそうしたいのは、こんな風に、自分のためにナポリタンを作ってくれるリンツにたいする甘えた気持ちだ。
自分が食べたいと思ったのが、ナポリタンだったのかリンツだったのか、気持ちの境い目が分からずに、アッテンボローは思わず舌を打ちそうになった。
リンツは、アッテンボローを、よくこんな混乱した気分にさせる。腹立ちに近いようなその気分に、さらに苛立ちを誘われて、年下のくせに妙に落ち着いたこの男は、それでもアッテンボローが不機嫌な空気を隠さないと、ひどく慌てた風に機嫌を取りに来る。うろたえる風が可愛らしくて、ああ、自分はただの根性悪のガキだなと思いながら、そんなリンツを抱き寄せたくてたまらなくなる。
アッテンボローの視線を避けるように、リンツは鍋を見つめたままだ。
「帝国にも、ナポリタンなんてあるのか。」
アッテンボローは、のどかに、リンツの背に訊いた。
「さあ、どうでしょうか。私の父親は珍しがってましたから、ないんじゃないでしょうか。」
「へえ、おまえの親父さん?」
「ええ、くたばれカイザーが口癖でしたよ。」
何気ない過去形で、故人と知らせて来るリンツのやり方に水臭さを感じて、それでも耳をくすぐるリンツの声の、音楽的な心地好さへ酔ったような気分になっていると、ほんとうに歌が聞こえて来た。
リンツが、鍋に向かって歌っている。小さな鼻歌程度の音量だったけれど、それは厨房のあちこちに跳ね返って、きちんとアッテンボローの耳に届いた。
言葉は分からない。聞き取れない音(おん)とメロディーから察するに、帝国語の歌か。リンツの声にはとても良く合う。不思議な音がメロディーに、アッテンボローには馴染みのないリズムで乗り、アッテンボローの空の胃をひどく刺激して来た。
リンツの手際は、魔法のようだ。ぱらりと湯に投げ込まれたスパゲッティー、茹でられれば、まさに小麦色が白っぽく変わり、アッテンボローはそれをリンツの肌の色だと思うけれど、リンツはアッテンボローの膚色だと思う。アルデンテに茹で上げれば、リンツの掌の固さに、ナポリタンに合わせて、少し長く茹でれば、アッテンボローの唇の柔らかさになる。
どこから来たとも知れない不思議な料理は、ちょうど、祖先の隔たったふたりが出会った同盟のように、何もかもを受け入れ、ごちゃごちゃに混ぜ、元からひとつだったなどとは間違っても錯覚できないにせよ、それはそれなり、ひとつ皿の上でまあ何とかやっていると言う風だ。
スパゲッティーの茹で時間を計るためのように、リンツは同じ歌を6回歌った。アッテンボローは、それを飽きずに聴いた。
スパゲッティーをざるにあけ、オリーブオイルをかけ回し、放っておいて、野菜たちを炒めに掛かる。熱したフライパンに野菜──特にピーマン──を放り込む時に、リンツが軽く眉をしかめたのは、アッテンボローには見えなかった。
具をまず炒め、適当に火の通ったところで、フライパンの片隅でケチャップとウスターソースを混ぜて、しばらくソースだけを火に掛けて水気を飛ばす。それからやっとすべてを混ぜて、フライパンを振りながら一緒に炒める。
いい匂いが、辺り一面に漂い始めた。
「美味そうだな。」
思わずアッテンボローが言うと、
「実際に美味いともっといいんですがね。」
謙遜と言うよりは、木で鼻をくくったような、と言うちょっと突き放した口調で、リンツが返事をする。慣れなければ、人はリンツを、その見かけ通り冷たい人間だと思うのだろう。そんなことないのになと、今はパイプ椅子に逆に腰掛け、椅子の背に掛かったリンツの上着の上に両腕を重ねて、アッテンボローは、フライパンについにスパゲッティーが投入されるのを眺めていた。
じゅうじゅう、匂いと一緒に油が散る。エプロンを外しても、多分リンツから匂いが取れないだろう。現実のナポリタンより、リンツの方が美味そうだと思って、そちらの味見はこの胃を満たしてからと、アッテンボローは別の期待に胸をちょっと疼かせた。
白い皿に取り分けられた、ふたり分のナポリタン。ベーコンのせいで香り豊かに、アッテンボローの知っているナポリタンより、ずいぶん上等な見掛けだった。
上手くできたと思って、皿を差し出して、ケチャップの毒々しい赤が、アッテンボローには不似合いだと、リンツは半拍の間に思った。
この人に、血の色は似合わない。似合うのは、せいぜいケチャップまでだ。
嬉しそうに皿を受け取り、さっそくくるくるフォークを回すアッテンボローの弾んだ様子に笑みを誘われて、リンツはエプロンを外さないまま、自分の分をひと口食べる。
よかった、ちゃんと美味い。思った通りの味なのに安心して、ふた口目をフォークにすくう。
「気をつけないと、スカーフにソースが飛びますよ。」
自分が昔、家族にそう注意されたのとそっくりの口振りで、リンツは思わずアッテンボローへ声を投げていた。
ああ、とアッテンボローは少し皿を遠ざけ、次のひと口には大きく切ったベーコンが乗る。それをちらりと上目に見てから、リンツはピーマンを探してすくい取った。
「おまえの料理が美味いのは、歌のおかげかもな。」
不意にアッテンボローが言うのに、リンツは思わず頬を染めた。ソースの赤そっくりに、白い、削り取ったような頬の線に血の色を上(のぼ)らせて、自分の歌にも声にも、自信と言うわけではなくても、時には他人を浮かれた気分にする助けにはなると自覚はあるリンツは、それをアッテンボローに指摘されて、今までのどんな時よりも誇らしさを感じて、同時に、照れくささと面映さと、ナポリタンと同じに混沌と混ざり合って、どんな顔をしていいのか分からないと、それが素直に顔に出た。
「・・・笑えよ、せっかく褒めたんだから。」
アッテンボローが、リンツの戸惑いをそこに読み取って、奇妙に鋭く言った。上官からの命令のように、けれどリンツはその鋭さを快さとともに受け取って、ええ、とケチャップに汚れた口元を手の甲で拭ってから、ありがとうございますと笑って見せる。
薄く切ったマッシュルームは、噛むと互いの耳朶そっくりで、ケチャップのソースを存分に浴びたスパゲッティーに、互いの、薄闇の中での姿を思い出すのも、言わずに一緒だった。
後片付けはちゃんと手伝おうと思うアッテンボローのスカーフに、予想通りにソースの小さな染みを見つけているリンツは、食べ終わったら、外させて食器用の洗剤で洗おうと考えている。
外して剥き出しになったアッテンボローの首筋に、別の食欲が耐えられるかどうかは分からない。ここは食堂の厨房だぞと自分に言い聞かせながら、リンツは、自分のエプロンの紐をほどくアッテンボローの指の動きを思い浮かべて、柔らかいベーコンに、アッテンボローの指を噛むように、そっと、けれど力をこめて、静かに歯を立てた。