ふたりはナポリタン 3
触れ合った唇から、赤ワインと炒めたケチャップの匂いがする。ケチャップの甘みとは違う、玉ねぎの甘さに重なる、どこか薬臭いセロリの匂い。セロリもいいが、やっぱり緑のピーマンだなと、リンツはするりとしたアッテンボローの背中へ指先を滑らせながら考えている。アッテンボローが安物だと言った赤ワインは、それでもほろ酔い気分になるには十分で、けれどリンツが酔っているのはアルコールにではなく、アッテンボローにだ。
唇の紅さは、ワインの赤に移されたものか、ケチャップの赤のせいか。尖らせた唇の先を触れ合わせ、自分の上へのし掛かって来るアッテンボローを揺るぎもせずに受け止めて、リンツは自分の頭を抱え込むアッテンボローの指先と掌の熱さを、髪越しに感じていた。
ぱちぱち油のはぜるフライパンと同じくらい、アッテンボローが熱い。リンツも熱かった。
アッテンボローに触れながら、時々引っ掛かるのは、リンツの指先が小さな傷まみれで、荒れているせいだ。
ローゼンリッターの訓練のせい、アッテンボローのために作った深夜のナポリタンのせい、装甲服や戦斧を手入れするオイルのせい、掌はところどころ岩みたいに固くて、この手でアッテンボローに触れて、傷つけないかとひやりとすることもある。
そのリンツの手を取り、アッテンボローがいとおしげに、指の腹へ口づけた。中指から人差し指と親指へゆき、それから掌へ移動して、小指と薬指の後にまた中指へ戻る。そうしながらリンツへ向けて来る瞳が、もうこぼれそうなほど潤んで見えた。
傷だらけの手。それでもまだ指はすべて揃い、爪も全部ある。ペンや絵筆を握るのに不便はなく、そして、こうしてアッテンボローに触れるのに、ためらいはしても苦労することはない。
リンツの、生身の手。アッテンボローのためにナポリタンを作り、絵を描き、何か伝えるために文字を記し、そして、アッテンボローのいる同盟のために人を殺す、リンツの手。
リンツはアッテンボローの手を取り、自分の方へ引き寄せた。指を互い違いに握り込む形で手を繋いで、掌をこすり合わせて、ああ自分は自分の手でアッテンボローに触れているのだと、また唇を重ねながらリンツは思う。
リンツの触れるアッテンボロー。リンツの、白皙の皮膚とは少し違う、血の色の透けて見える、アッテンボローの頬や首筋。これは、あたたかみのある赤を塗った上に、ごくわずか、筆の先にひと垂らしだけ青を混ぜた白を塗れば出せるかもしれない色だ。
頬に散るそばかすは、ジンジャーブレッドの色。クリスマスになれば、家族が総出で焼くクッキーの、あの、見ただけで微笑みのこぼれる色。
髪と瞳の色は、満足のゆくように出せた試しがない。青が強過ぎるか、緑みに寄り過ぎるか、あるいは灰色の影が広がり過ぎるのか、それでもこうしてアッテンボローに生身の手で触れ始めてから、自分の描くアッテンボローの絵には確かな体温がこめられるようになった気がして、塗った色の気に食わなくても、リンツはどの絵も捨てられはしないのだった。
どのアッテンボローも、リンツの目には、違う線、違う色で見え、どの瞬間のアッテンボローも、同一のアッテンボローであってそうではない。どのひと時も、見逃すまいとリンツは目を凝らす。すべてのアッテンボローを目に焼き付けたくて、リンツは淡い緑の目を見張る。アッテンボローが、稀少な宝石みたいだと言った瞳を、リンツはアッテンボローを見つめるだけに使う。
生身の手。生身の瞳。アッテンボローのために在り、アッテンボローのためだけに使いたいと、リンツが心底願う、リンツの、今もまだ五体揃った生身の体。
抱きしめて、首筋へ唇を滑らせると、アッテンボローが背中を丸めてリンツにしがみついて来る。
リンツの、傷だらけの背中を抱いて、指の長さでは足りない古い──あるいはそう古くはない──深手の跡を、アッテンボローは少しつらそうになぞってゆく。
失われた少しばかりの皮膚、失われた少しばかりの肉、リンツの魂を決して損ないはしなかった、多くの傷跡。どれもこれも、全部同盟のためだ。つまりアッテンボローのためだ。何ひとつ惜しくはない。
それでも、自分の手指と目は惜しんで、リンツはまたアッテンボローを抱き寄せた。
できれば、この世の終わりまで、生身の手指でアッテンボローに触れていたかった。触れて、その感触を紙に描き出したい。リンツの触れたアッテンボローをそこに描き写して、リンツの触れたアッテンボローを再現して、一瞬一瞬のあらゆるアッテンボローを、リンツは自分のために残したかった。
あまりにも多くのものが喪われてしまったから、二度と取り戻すことのできないそれらのために、リンツはアッテンボローを見失わないために、瞬きすら忘れてアッテンボローを見つめている。
リンツの触れるアッテンボロー。リンツが触れることを許すアッテンボロー。リンツの生身の指が触れ、滑り、なぞり、すべてをたどって、リンツはその線を残す。指の触れた後に、血の色が上がり、まるでリンツの手型に覆われたように、赤く染まるアッテンボローの膚。
指を絡め合わせたまま、開いた躯に繋がって、リンツはアッテンボローの熱に融ける。熱のその奥で、アッテンボローを描く線に自分の線を重ねて、どちらがどれと分からなくする。まるで、ペンで書いた線に、水彩絵の具を乗せるみたいに。滲んで、いずれひとつになる色。
リンツは、アッテンボローの唇を、自分のそれで覆った。
唇を重ねる一瞬前、開き掛けたそこから自分の名が聞こえたような気がしたから、リンツはわずかに外した唇の間で、アッテンボローを呼んだ。提督と、堅苦しい、個人的ではなく、名前ではなく、アッテンボローが一体誰なのかと、それをまず示す呼び方で、リンツはアッテンボローを呼ぶ。
およそ親密さなどないその呼び方を、けれどリンツがする時、リンツが歌う時と同じ声でアッテンボローをそう呼ぶ時、"ていとく"と言う音はどこかまろやかに、穏やかに、愛語のようにアッテンボローの耳の中に溶け込んでゆく。
リンツの描く、アッテンボローと言う人物。線と色と音で、リンツはアッテンボローを彩ってゆく。
ふたりの、重なり混じり合った、躯と熱と皮膚の輪郭そのもののように、リンツは描く自分と描かれるアッテンボローの境界を曖昧にして、ふたりの世界を形作り、彩り、そして音を注ぎ込んで、自分の世界を、アッテンボローそのものにしてゆく。
世界がこんなにも鮮やかになる得るのだと、リンツはアッテンボローを通して学び、そしてこの世界を守りたいと思い、そしてリンツは、ごくかすかな疑問符をつけて、いつも考えている。
私は、あなたを守れるほど強い人間でしょうか。
私の強さは、あなたを護るに十分でしょうか。
あなたを愛する私は、あなたにそう告げるに値する人間でしょうか。
あなたを愛するために同盟に生まれた私に、あなたの傍にいる資格はあるのでしょうか。
私の中の帝国人の血は、あなたの中の同盟の血と、共に在れるのでしょうか。
その疑問のひとつびとつを、けれどアッテンボローに直接問うことはせず、リンツはただひとり考え続けている。
リンツの目には、時々世界はただの靄として映り、その中でただひとり、アッテンボローだけが確かな色と輪郭を持ち、リンツに向かって声を発する。
この人が、自分の世界だと、リンツは思う。アッテンボローを見るたび、どんな色を作って塗ろうかと思う。今日のアッテンボローはこんな線だと、頭の中の架空のスケッチが隙間もなく埋まってゆく。
そのすべてを、現実の紙の上に写して見せれば、アッテンボローは即座にリンツの胸の内を悟るだろう。
抱きしめるだけでは足りずに、躯を合わせても足りずに、この世に在るあらゆる線をアッテンボローへ結びつけてゆくリンツの想いは、けれどどれほど広いキャンバスの上にも収まらない。
絵としてしか表せないアッテンボローは、けれど絵では表し切れない。表情豊かに動く手足は、どこからもはみ出して、リンツの絵筆など待ってはくれない。
昼間は聞けない声が、アッテンボローの伸びた喉を震わせる。ついその声に旋律を探りながら、そこにもまた色を見出して、リンツは胸をかきむしりたいほど切ない気持ちになった。
アッテンボローを抱きしめて、色味の違う皮膚に隔てられて、自分では決して作れない色をまとったこの人を、リンツはそれでも紙の上に表したくて仕方なかった。
リンツの見る世界の彩りを、アッテンボローにも見せたかった。
炒めたケチャップのソースに染まったナポリタンの、それでも決して染まり切らない緑のピーマンみたいに、あのしゃきしゃきとした歯応えとどこか爽やかな苦味と、アッテンボローはそんな風に特別に、リンツの目には映る。
触れればマッシュルームみたいにつるりとして、薄切りのマッシュルームを、もうリンツは永遠に冷静には噛めないだろう。
白い皿に乗った赤いスパゲッティーの小山から立つ湯気へ、目を細めるアッテンボローへ目を細めるリンツの、その指が生み出す、ナポリタンの赤と、描かれたアッテンボローのネクタイの赤と、そして滴るほど浴びた敵の返り血の赤と。
血の赤はいらない。だからリンツは、アッテンボローを描き、アッテンボローにナポリタンを振る舞い、戦争のごく合間の静かな時間を、平和な赤に染めてアッテンボローに差し出し続けるのだ。
いつかこの赤にと、リンツは、熱の上がったアッテンボローの、まだらに染まった胸元へ掌を広げながら、その色をまた描き写すために目に焼き付ける。
甘酸っぱいケチャップの味を舌の上に蘇らせて、リンツは、ピーマンの中みたいにふわふわ柔らかいアッテンボローの髪に指を通し、マッシュルームの薄切りそっくりの耳朶へ、食むのと同じ仕草で歯を立ててゆく。
アッテンボローは、美味いと言って、リンツの作ったナポリタンをきれいに平らげた。リンツは今、ただいとおしさだけをこめて、アッテンボローを抱きしめている。
次はもっと美味く作りますよと、心の中でつぶやいて、あなたのためにだけと、そっと付け加える息に、アッテンボローの息が、同じ匂いで混ざった。