シェーンコップ×ヤン

巣ごもり

 ばたばたと寝室で慌ただしい音がして、シャツのボタンは襟元をとめないまま、ネクタイはひどい結び方で、くしゃくしゃのスカーフとベレー帽と上着を手に、ヤンが部屋から飛び出して来る。
 「今日は30分早いんだった!」
 そろそろ起こしに行こうと声を掛ける、いつもの時間が近づいていたから、それより30分早いなら今すぐ出ないと確かに遅刻だ。
 昨夜は終わった後にシャワーを浴びなかったはずだがいいのかと、玄関へ向かうヤンの背中へ声を掛ける前にドアは閉じてしまった。
 まあ大丈夫だろう。最悪の場合、仮眠室でもローゼンリッターの更衣室でも、シャワーを浴びる場所はいくらでもある。
 自分の分のコーヒーを手に、シェーンコップはまだヤンが出て行った玄関の方を見ていた。
 おはようも行って来ますもまた後でも何もない、ヤンのことだからと腹も立たないけれど、あまりぐずらずに起き出したら、仕事に出る前にどこかで朝食でもとひそかに思っていたから、それがくじけたのにちょっとだけ不機嫌になっている。
 紅茶をわざわざ淹れる手間が省けた。そう強がって思って、シェーンコップはとりあえず、寝室の惨状を見にそちらへ向かった。
 ベッドは、シェーンコップが寝ていた方は、枕も位置もずれてはいず、シーツも毛布も引っ張って端を揃えればそれで済む程度だけれど、ヤンが寝ていた側は、枕は真ん中へずれ、マットレスの下に折り込んだはずのシーツの端は落ちてさらにずり上がり、そこでヤンが寝乱れたまましわだらけで、もちろん毛布はシェーンコップの側へ蹴り上げたようになっている。そして、持って行くつもりでそこへ移動させたのに結局忘れて行ったのか、ヤンがここへ持ち込んだ本が、マットレスの端にぽんと投げてあった。
 どうせシーツもカバーも取り替えるつもりだったから、今夜帰って来てから新しいのでメイキングすればいい。とは言え、この乱れ切ったままのベッドは、眺めているだけでだらしのない気分になるのが何となくいやで、一応は枕と毛布くらいは元に戻すかと、シェーンコップはコーヒーのマグを適当に置いて、ベッドへ近づいた。
 枕を取り上げると、シーツの波打ち具合がすべて見える。ヤンが投げ出した手足の角度や、眠っていた時の姿勢がそこから読み取れて、それに重なる自分の輪郭も浮かび上がり、すでにここにいないヤンを恋しがっている自分を見つけて、シェーンコップはいっそう不機嫌になる。
 どうせなら昨夜は、今朝は30分出が早いことなど思い出せないくらいにすれば良かったと、珍しくひとりで起き出して、どうやら遅刻もせずにすんだらしいヤンの、さっき飛び出して行った姿をまた思い浮かべ、手加減をし過ぎたかと、ちょっと違う方向へ反省をした。
 手にしていた枕をやっとあるべき位置へ戻し、それから、シーツの上にふた筋、落ちたヤンの髪を見つけてつまみ上げ、少しの間考えてからそれをごみ箱へ捨てた。  シーツのしわを伸ばそうとしてから、なぜか手を止め、シェーンコップは自分の手元へ落とした視線を、ちらりと傍の時計へ流して時間を確かめる。
 まだ慌てるような時間ではない。
 シェーンコップは、ついに決心したように、ヤンが眠る側へ膝を上げて、ゆっくりとそこへ横たわった。整えないままのベッドへ体を伸ばし、ベッドの端から落ちていたヤンの手足や、一緒に落ちそうになっていた頭半分や、シーツに散った髪の黒さや、そんなものを散り散りに思い出して天井を見つめ、昨夜のことを反芻する。
 妨げのない視界いっぱいにヤンが見えて、それが目の前から消えないのに困り、寝返りを打ってベッドの端へ視界を向ける。枕の端へ本があったのを思い出してそれを引き寄せると、腹の辺りへ抱え込むようにした。
 肌に匂いはないヤンの、けれど確かに匂いが残っていて、触れた髪や膚の湿りが指先に甦って来る。いつもそれほど手順が違うわけではなくても、その時その時、一瞬だけに起こることは確かにあって、そう言えば昨夜は、シェーンコップを呼びながら、ついだったのかどうかヤンに耳朶を噛まれたのだと思い出す。
 耳朶へ触れながら掛かる声と息の、皮膚と脳の一緒に融けるような、あの美味(あま)さ。昼間のヤンに聞かせてやりたいと思いながら、思い出しているうちに、自分の方も厄介なことになり始める。
 そんな場合ではない。けれどまだヤンの気配の濃く残るこの場を離れる気になれずに、シェーンコップはその姿勢のまま、目を閉じて昨夜へ意識を飛ばしてゆく。
 ヤンが抜け出した後の、ここはまるでヤンの作った巣穴のようだ。居心地好くこもるための場所。ヤンが過ごしやすいように、ヤンが自分で作った巣。そこに、シェーンコップも一緒に閉じこもる。互いの腕の輪の中に入り込んで、逃げないように逃さないように──そんな必要はないけれど──、様々の枷を相手にはめる。
 昼間の枷を取って、ここにもぐり込んで、自分の選んだ枷を相手に着ける。色も形も重さもない枷。吐く息がただ皮膚にまつわりつく、枷。シェーンコップは、自分の首に手を添えた。ヤンがそうして自分に触れたように、思い出しながら、自分の首筋に触れていた。
 風邪でも引くかと、深呼吸2回分の間に考える。このまま、ヤンが抜け出した後の巣へひとりこもって、今日は他のことを考えたくない気分だった。
 けれど、ここにいては今日はヤンに会えなくなる。外泊の後には必ずユリアンに会いに家に帰るヤンだったから、今夜は会えても泊まることはないはずだった。
 仕方がないと、シェーンコップはやっと体を起こし、床に足を下ろした。そこからもう一度、枕の方を眺めて、昨夜同じような角度で見下ろしたヤンの表情を思い出し、それを振り払って立ち上がるまでたっぷり30秒掛かった。
 ヤンの置いて行った本を手にようやく寝室を後にして、そう言えば、会う口実のためにわざと忘れ物をして行くと言う手があるがと、手の中の本を見て、ヤンはそんな駆け引きを思いつくタイプではないなと苦笑する。
 ヤンが動かなくても、シェーンコップが会いに来ると、どうせ知っているのだ、あの男は。本を届けに行けばヤンに会えると、シェーンコップはもうそれしか考えていない。
 少し遅れるけれどシャワーを浴びようと、皮膚に残るヤンの匂いを惜しみながら、シェーンコップはバスルームへ足を向けた。

戻る