シェーンコップ×ヤン in ヴァルハラ

The Never Ending Story

 ようやく、風景に彩りが戻り始めている。雪も曇り空も遠ざかったかと、もしかするとまだ勘違いかもしれなかったけれど、春の訪れに胸が湧き立つのはいずこも同じか、シェーンコップがヤンを散歩に誘い出しに掛かる。
 何なら紅茶持参で、外で読書も乙なものでしょうと、そこまで言われてヤンはようやく重い腰を上げ、そこらをひと回りするだけだよと、シェーンコップに差し出された上着に腕を通した。
 思い切って出てしまえば、空気のなまあたたかさにヤンも目を細め、やっと青みを取り戻した空へ、闇色の目を明るく輝かせている。
 もう、積もった雪で滑る足元を心配することもなく、外へ出ると言って上着を重ねてマフラーを巻いてと大騒ぎをする必要もなく、いい季節になったなあと、ヤンは現金に喜んでいた。
 冬も悪くはない。ずっと家に閉じこもって外に出ずに済み、窓から雪景色を、きれいだと眺めているだけでいいなら、それはそれなりいい季節だ。けれど現実──ヴァルハラにも現実はある──には、雪が積もれば雪かきをしなければならず、寒ければ風邪も引く、けれどその冬とも、しばらくお別れのようだった。
 まだ裸のままの木々の枝に、大小様々の鳥が止まり、足元をリスが時々駆け抜けてゆく。素っ気ない足元の土色も、じきに緑で埋まるだろう。木の間の小道を歩いて、ふたりの肩は自然に触れ合う近さに寄っていた。
 鳴きながら、2羽が絡み合うようにして飛び去る小鳥を振り仰ぎ、シェーンコップが足を止める。ヤンもつられて歩みを止め、同じように頭上を見上げた。
 鳥の去った方をまだ飽きず眺めているシェーンコップをヤンは見つめて、そうして不意にシェーンコップが、空へ向かってのように、通りの良い声でつぶやいた。
 「片方が死んだら、それで終わりだと思ってたんですがね、私は。」
 「終わり?」
 「終わりと言うか──完結ですよ、物語のようにね。」
 まだ歩き出さずに、足は止めたままだった。シェーンコップがやっとヤンを見て、どう言っていいか分からないと言う表情を見つけると、苦笑のようなヤンを慰撫するような、どちらもと取れる笑みを刷く。
 「私は、残された後をどうのと考える殊勝な人間じゃありませんでね、死ぬと言うことは常に考えても、それが実際に自分たちに起こるとか考えずに生きてました。実際に起こった時も、それは流れる時間の中に打ち込まれた杭のようなものと言うか、ひとつ区切りと言うか、そういうものだと思っていました。」
 珍しく言葉数の多いシェーンコップの、独白めいた語りを、ヤンは黙って聞いている。春の始まりの風景の中で聞く話にしては、少しばかり淋しい、冬の長い夜にしみじみと聞く方がふさわしい内容のように思えたけれど、シェーンコップには、この春の空気こそが、この語りの理由なのだろうと思って、ヤンは相槌もあえて打たない。
 「──貴方以前の話ですがね。」
 なまぬるい風が吹いて、ヤンのまとまりの悪い髪を乱して過ぎる。頭上で枝が鳴り、鳥たちがばさばさと一斉に飛び去って行った。
 ヤンは髪を押さえて、その腕の陰から、シェーンコップを見つめる視線を外さなかった。
 「そういうものだと思って、そう思ってたんですがね──それで終わりだと。そこで終わって、後には別に何も続かない。ページを繰っても続きはない、読み終わった本を閉じて、本棚に戻して、ああそんな本を読んだなと時々思い出すかもしれない、そういうことだと思ってました。」
 ヤンに分かりやすいようにと思ってか、シェーンコップがそんな例え方をする。ヤンは相変わらず表情には何も見せず、シェーンコップの話を黙って聞いている。あごを引きさえしないのを、聞こえているのかどうかとシェーンコップは訝しんでいるのかもしれない。ヤンは自分の髪を押さえる手を下ろさずに、シェーンコップの話の続きを待った。
 ヤンへ当てていた視線を一度どこかへ外し、ゆっくりとした深呼吸にふっくらと形のいい唇をわずかに動かして、シェーンコップが肺から言葉を滑り出すように、続きを始める。
 「だから、貴方が先に逝った時に、終わらせなかった自分に驚きました。続きのない本のページを必死で繰って、無理矢理に続かせた。そこで話は終わるはずだったのに、終わらせることができなかった。そんなはずがない、納得が行かない、こんな終わり方があるわけない──貴方の物語だったはずなのに、私は強引に、それを自分の物語にしてしまった、そして勝手に続きを加えてしまった。」
 普段なら、それは自分の表情であるはずの、やるせない色をシェーンコップの上に見つけて、ヤンはやっと腕を下ろして迷うように唇を震わせる。こんなに空気はあたたかいのに、とヤンは思った。
 「・・・何だか、後悔してるみたいに聞こえるな。」
 鋭い口調にならないように、できるだけゆっくり言うと、シェーンコップが驚いたように軽く目を見開き、急いで首を振って見せる。
 「逆ですよ、私には一片の後悔もありません。貴方の方はどうなのかと、そう思っていると言う話ですよ。」
 ヤンに向かって問い掛けてから、微笑むのは忘れない。こんな風に笑い掛けられて、たとえそうであっても、後悔してるなどと言えるわけがないと、ヤンは思って、小さくため息をつく。
 「後悔のない人生なんてないさ。君に限って言えば、わたしの側には後悔まみれだが、君はどうせわたしのそんな感傷なんか物ともしないんだろう。」
 「・・・感傷、ね。」
 いかにも可笑しそうに、シェーンコップが肩をすくめて見せた。ヤンがそれを見て頭をかき、困ったように足元へ視線を落とす。爪先に、かすかに芽吹き始めている緑の色が見えた。
 「もう、ずいぶん前に、わたしは君に対して自分のエゴを隠すのをやめてしまっている。君がわたしの犬だと言うのを、否定しないのもそのひとつだ。君の言う通りだからね、君がそう思う以前に、わたしは多分君を自分の犬扱いしてたんだろう。君はただその事実を、わたしに向かって指摘したに過ぎない。君にそんな風に思わせてしまったことが、君に対するわたしの最初の後悔だったような気がする。だが同時に、わたしは後悔するような羽目になったことを、悔いはしなかった。どうしてだろうね、シェーンコップ。」
 言葉の響きのあやふやさとは裏腹に、明るい陽の下で、ヤンの瞳が強い光を帯びた。シェーンコップは珍しいものでも見るように、ちょっとヤンを透かすように眺めて、自分を真っ直ぐに見て、虐殺者を自称する時と同じ目の色だと思った。
 人を殺す必要のない時間を得ても、その枷から逃れたなどと思ったことは、やはり一瞬もないのだ。互いに、伸ばした手を取り合ったのは人殺し同士と言う自覚ゆえだったのだと、シェーンコップは改めてそれを思い返して、だからこそ、自分はこの人の犬になり、犬であり続け、これからもそのままでいるのだと思った。
 季節が巡る。春は確かにやって来る。どこかで凍った時間が、ここでは確実に流れている。ふたりでいる限り、振り捨てることのできない過去を足元に引きずり続けるのと、ひとりきりの我が身で、ふたりではないことを嘆くのと、どちらがこの安寧の中に相応しい悲嘆かと思いながら、これが自分の感傷なのだとシェーンコップは考える。
 死を終わりにせず、区切りにさえせず、完結しかけた物語を強引に書き続けるのは、真っ直ぐ駄作への道かもしれない。それでも、誰に読ませることもなければ、駄作も良作も、決めるのは自分──とヤン──だけだ。
 ヤンの書くそれなら読むのも楽しいだろう、自分のはどうだと、文才など考えたことなかったシェーンコップは、恐らく自分は、そんな才能などないことを最初から見抜いて、ヤンの物語に強引に入り込んだのだと思った。
 自分だけの物語などつまらない。ヤンがいなければ、それはただの無味乾燥の、紙の上にただ並んだ文字の羅列に過ぎない。
 過去の物語の完結は、自分だけの意志だった。そしてヤンとの物語を終わらせなかったのは、自分だけではない、ふたりともの意志だ。ヤンもそれを選んだのだ。
 犬には、ペンを握る手指がない。先を綴るのはヤンに任せようと、思いながらシェーンコップは心の底から微笑んだ。
 「後悔も、するなら貴方と一緒の方が愉しそうだ。」
 恭しい仕草でヤンの指先を取り、シェーンコップはそこへ唇を寄せる。芝居がかった、主君へ対する敬意の挨拶を、ヤンは振り払う素振りも見せず、犬と呼んだ男に手を取られたまま、
 「そろそろ、戻りますか。」
 訊かれて首を振る。
 「もう少し行こう。犬の散歩には、ちょうどいい天気だろう。」
 なるほどとうなずいて、シェーンコップはヤンと肩を並べてまた歩き出す。シェーンコップが放し掛けた指先を、絡め取って逃さなかったのはヤンの方だった。
 ふたりの後ろに長く伸びる影が、歩きながらひとつになって、来た道を戻ってもほどけることはなかった。

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