シェーンコップ×ヤン。

夜歩く獣

 照明を落とした薄暗い部屋の中で、いっそう濃く、闇が迫って来る。覆いかぶさって来る、自分よりも大きな厚い体へ、ヤンは両腕を差し出した。
 近づき過ぎて焦点の合わない輪郭がぼやけて、焦点が合う頃には、見るよりも触れて確かめる方が早くなっている。
 重なればヤンは影の中に失われ、輪郭も飲み込まれ、ひとりではなくふたり分の体の厚みは、ただの黒い塊まりにしか見えなくなる。色味の違う膚は闇の中ではそうと見極められず、ふたりはまるで何かひとつの生きものになったように、同じ律動で蠢き始める。
 昼間には黒曜石に例えられるかもしれないヤンの、暗闇の中ではひと際昏く、宇宙の闇を凝り固めた底なしの、小さなブラックホールの瞳が、シェーンコップを吸い込みに掛かる。
 近々と、鼻先と前髪と額をこすり合わせて、様々に色違いのふたりは、闇の中で抱き合うとすべてが溶け合って、どこまで自分なのか、どこまでが相手なのか、境い目の分からなくなる交じり具合を確かめながら、躯の隅々も融け合わせてゆく。
 冷えた宇宙の闇の中に、ひっそりと生まれる、確かな熱。夜をさまようけものの生み出す熱。夜を共に歩くけものは、勝手に走り出す手脚を絡め合わせて、まるで互いをなだめ合うように、短い夜を引き止めようとしていた。
 ひそめた息を交わして、夜の片隅のどこかで、闇の中に溶け交じる。ヤンはシェーンコップの躯に手を掛けて、力いっぱいしがみついた。シェーンコップが重ねて来る全身の、こすれ合う皮膚をすべて繋ぎ合わせようとして、膝の内側をシェーンコップの脚へ滑り下ろすと、ふくらはぎが重なった後で、足首の尖った骨がぶつかって少し痛い思いをする。
 上で、シェーンコップが短く笑った。
 華やかなくせに、どこか影のある瞳が目の前で細まり、ヤンへ視線を当てて来る。それを受け止め損ねて、ヤンは代わりに彼の名を呼ぼうとしたのに、舌の奥が乾いてうまく動かなかった。いつもそうだ。違う世界からやって来たふたりは、時折こうして自分たちの差異を思い知り、同じ言葉すら異なる意味を示す時には、黙って皮膚をこすり合わせるしかなかった。
 躯のおしゃべりは、言葉でするそれよりも雄弁で、数千の言葉を交わしたような気分になれる。すれ違いをそうやって埋めながら、現実には何も分かり合えていないのだとしても、熱を生み出すふたりの動きには、確実に何か通じ合うものがあった。
 喉が乾く。欲しいのは水ではなく、渇きを癒してくれるのも水ではない。開いた唇が誘うと、シェーンコップの唇がやって来て、求める通りにヤンに向かって舌を差し出して来た。躯の飢えと渇き。注いで、注がれて、皮膚の内も外も、触れ合った錯覚に陥って、それを正さないために、今は人間ではない振りをする。夜を忍び歩くけものは、その通りに胸と背中を重ねて、うなじを噛まれてヤンは喉を反らした。
 けものの形に繋げた躯が、隙間もなく重なると、自分を抱くシェーンコップの腕を抱え込んで、ヤンはそれにやわらかく噛み付いた。
 歯列の痕は決して残さずに、それでも淡く、時々口づけの跡は残る。隠せる場所に慎重に、今宵のほのかな痕跡を置いてゆく。
 どこもかしこも闇の底に沈んで、躯の内側の暗がりの中へより深く忍び込んで、こすり合わせて生まれる熱はどこにも行き着かずにいつか消えてゆく。
 結んでも繋いでも、紡がれる先はなく、だからこそ奇妙な熱心さで互いにだけ執着する。欲深く、昨日よりもより強欲に、歯列の食い込みが少し深い。食欲に少しだけ似ていて、このまま深めて皮膚と肉を食い千切ろうかと、ふたりは同時に考えるけれど、それを果たしたことはない。
 いっそ食べてしまえれば楽だろう。けものならきっとそうする。けれどふたりはけものではないから、互いをそうして失うことになど耐えられるわけもなく、互いの乾いた骨の白さを想像しただけで、自分の身が切られるように痛んだ。
 死があまりにも身近過ぎて、何かを残す前に散ってしまった命を見過ぎていて、明日を誓い合うことさえできずに、分け合える夜の短さを恨む間さえない。
 束の間、刹那、そんな風に時間を重ね合わせて、指の間からこぼれ落ちた何かを惜しむよりも、触れ合った皮膚の慄える波間を泳ぎ渡るために、抱き合った腕を離すまいと互いの名を小さく呼び続けていた。
 どこかへ向かう遠吠え。夜の果てに向かって放たれる啼き声。喉が枯れ果てる頃には、夜明けの気配がもうそこまでやって来ているから、薄暗がりの微行にけりをつけなければならない。
 けものから人へ戻る時間。同族殺しの現実へ引き戻されて、陽の光にすべてを暴かれてゆく。夜の暗がりで、四つ足のけものになれば、人殺しの現実を、ほんのひと時忘れることができた。
 皮膚を引き剥がす。腕を外して、躯を解(と)く。食い込んだ歯列のかすかなへこみを、空気が撫でてゆく。
 汗と熱の引いた後で、けものの記憶は闇の中に置き去りにして、次の約束を交わすことはできずに、きっぱりと昼間の中へ足を踏み出してゆく。
 夜が終わる。けもののそぞろ歩きが終わる。四つ足の互いの姿を惜しみながら、同類を大量に殺す二本足の方がより残酷だと、互いに自嘲の笑みを残して、今度は夜ではなく、宇宙の闇へ泳ぎ出してゆく。
 二本足で歩き出す体の重心が奇妙で、人の姿を取り戻すのに、一瞬の時間差があった。
 鼓動と血液の流れる音が遠ざかる。宇宙では音も声も届かないのだと思い出して、ふたりは黙ったまま人の笑みを浮かべ交わした。

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