ゆですぎそうめんえれじぃ 2
男は再びやって来た。両手にすっぽり収まる、ヤン宛の小さな荷物を携えて。また行方不明になっては困るからと言い添えて、さらに、何かあったら直接連絡をくれと、荷物の上に名刺までつけて。
ユリアンの送って来た本だった。早く包みを破って読みたいと、喉がひりつくように思いながら、自分に向かって差し出された男の、きれいに刈られた爪の先の、その形の整い方へも視線を奪われて、きれいな男はこんなところまで美しいのかと、観賞用の彫刻か何かのように、ヤンはうっかりそれへ触れたくなる。
ヤンは、男に触れないように、それを両手で受け取り、胸に抱えてから、片手でくしゃくしゃの髪を照れ隠しにかき回す。
「この間は、美味いそうめんをどうも。」
神妙な様子で頭を軽く下げたままの男へ、黙ったきりに耐えられず、ヤンは半ばどもりながらそう言った。男は眉を上げるのと一緒に顔を上げ、ちょっと喜びの色をそこに刷く。
「お気に召したなら何よりです。」
男は深みのある声で、少し早口に言った。
「美味いそうめんに、わたしみたいな料理下手はもったいなくて・・・。」
受け取って翌日、昼にあのそうめんを茹でた。案の定茹で過ぎてくたくたになったそれは、それでもそうめん自体の味はそこまで損なわれはせず、なのにヤンの手製のつゆで、見事に台無しになった。まったく予想通りだった。
噛んで、歯触りと舌触りを口の中いっぱいで味わって、3口目でやっと、つるつる喉まで直接すすり込んだ。つゆのぼやけた味は残念だったけれど、喉を通る時の、何とも言えない透き通ったそうめんの味わいに、ヤンは少しの間箸を止め、窓の外の澄み通った青い空へ、何も映さない視線を数瞬据えた。そのくらい、あのそうめんは美味かった。
無残な出来にするのが恐ろしくて、その後もう一度茹でた──結果は同じだった──きり、残りは大仰な木箱に入ったまま台所のテーブルに鎮座している。
今日の昼は、いつもの袋入りのそうめんだ。またどうせ茹で過ぎてくたくたになる。もうヤンは、くたくたではないそうめんの味わいを思い出せない。ユリアンが茹でてくれたのはどんなだったかなと、見事なそうめんと目の前の男の美しさを重ねながら、手の中の本に、今は遠くにいる養子のことを考えた。
「つゆも、美味いに越したことはありませんが・・・。」
少し迷ったように、男が言う。奇妙に生真面目に、ヤンを正面から見ている。三和土との段差分が、ちょうど男との身長差のようだった。ユリアンが去った時には、同じ位置で確か少しあごを引いてユリアンを見送り、廊下ではいつの間にか肩が並んでしまったなあと思った記憶がある。戻って来る時は、背を追い越されているかもしれない。
胸に抱えた本に添えた手にちょっと力を入れて、ヤンは、不意に視界の中に遠くなった男の姿を、思わず追うように肩を前へ出し、ユリアンからの荷物──ヤンのための本──が届く以外は訪れる誰もない、自分と外界との繋がりは、男がこの扉の向こうへ消えてしまえばすっかりなくなってしまうのだと、足元に冷たい風の吹き通る心持ちに、突然背筋が薄寒くなる。
この、現実味のない、彫刻のような男と向き合っていると、このせせこましい玄関が世界のすべてから切り取られて、男とふたりきりで閉じ込められてしまったような気分になる。それを、不気味とも恐ろしいとも思わずに、ヤンは男が今にも背中を向けて、ではと消え失せてしまうことの方を恐れていた。
ぱくぱくと酸欠の金魚のように口を無様に動かし、頭に浮かんだことを急いで口にする。
「たかがそうめんのだしひとつ上手く作れなくて・・・」
「ああいう単純なものの方が、案外難しいものですよ。」
男が爽やかに言った。ヤンを慰めるためか、ほんとうにそう思っているのか、見分けのつかない、美しい微笑みと一緒に。
「今は美味いのが、店で買えます。わざわざ苦労して作るよりも、そちらの方がよほど簡単で間違いがない。」
男の、嫌味なほど丁寧だった語尾が、わずかに崩れた。男の微笑みがいっそう深くなって、ヤンもつられて似たような笑みを浮かべた。
「売ってるのは、薄めるのに失敗したり、そのまま使えるのはどうも好みではなくて。」
男がせっかく言ってくれたのを、ヤンはわざわざ台無しにする。そういうところだぞ、とヤンの知らないどこかで誰かがつぶやいた。
男はそれでも気を悪くした風もなく、微笑みを消さないままでいる。仕事柄だろうが見事なものだと、ヤンはどうでもいいことに感心した。
これ以上言っても、ヤンに墓穴を掘らせるだけだと悟ったのか、男はもう一度、彫刻刀で削り取ったようなくっきりと鮮やかな笑みを浮かべ、
「では、失礼いたします。」
これも、音のしそうな動きで頭を下げ、その後は無音で玄関から姿を消した。
男が消え、ヤンの、小さな団地の世界が戻って来る。少し暗い玄関にひとり、ヤンはしばらくの間、男の姿をそこに反芻していた。
3日後の、昼の少し前に、男は再びやって来た。今度はヤン宛の荷物ではなく、そうめんのつゆのびんを持って。
男──名刺で、男の名がシェーンコップだと今では知っている──は、両手でうやうやしくヤンにそれを差し出し、
「あのそうめんになら、多分このつゆかと思いまして──。」
決して押し付けがましい口調ではないのに、強い説得力に頭の片隅がふらりと血の薄くなったように感じるのは、男──シェーンコップの声のせいだろうか。
灰色の作業服姿で、その色のせいで玄関の扉と同化して見えるシェーンコップは、何だかもうヤンの団地の部屋の一部のように思えて来て、ヤンは震える手で、シェーンコップから差し出されたそれを、落とさないように慎重に受け取った。
透明なびんに入ったつゆの、吸い込まれそうな艶のある、よく見れば濃い茶色と分かるその色へ、ヤンは似たような色合いの、けれどのっぺりと奥行きはない視線を当てて、殺風景で彩りのない玄関で、そうめんのつゆの色とシェーンコップだけが輝きを放つように、そのまばゆさに、輝くところなどひとつもない自分はけし粒のように弾け飛んでしまうような気がした。
あの、シェーンコップが選んだそうめんのために、シェーンコップが選んだつゆの、一緒に舌に乗った時の味わいを想像して、ヤンはもう、いつも食べているそうめんには戻れない自分を予感する。
たとえ茹で過ぎてくたくたになっても、味わいの失せない、そうめんとつゆ。ヤンの口の中で弾けて踊り、噛んで飲み込んでしまうのが惜しくて、ヤンは箸を持った手を止め、永遠にそこにとどまってしまう。氷を浮かべた水の中で泳ぎ続けるそうめんは、そこでさらにのびてしまっても、ヤンの舌と喉の中で踊るのを決してやめない。
氷は、このつゆの中にも浮かび、だるげに首を振る扇風機がかき回す空気のぬるさと、器を持ったままのヤンの掌のぬくみに溶けて、それでもつゆの、永遠に脳に刻まれる甘(うま)さは薄められても負けはしないのだった。
不敗、そして常勝、見事な魔術のような組み合わせで、そうめんとつゆが、ヤンを叩きのめす。ヤンはそれを、心地よく受け入れる。白旗を上げることの、不思議な快感。負けて流されて、決してそれは敗走ではない。
なぜか、そうめんをすする自分の傍らにシェーンコップがいた。そうめんとつゆの完全勝利を、シェーンコップが高らかに宣言する。その声の響きを、ヤンはより甘く聞く。
夢想から醒めて、ヤンはもうシェーンコップが目の前にいず、とっくに立ち去ったことを悟った。そうして、手の中にかすかに重いつゆのびんを見下ろして、シェーンコップの置き土産のそれが、夏の気温にゆだって、手の中で悲しいほどぬるいことに気づくと、早く冷蔵庫に入れなければと思う。氷を入れても、今日の昼には間に合わないなと、ヤンは肩を落とすほどそれを残念に思った。
わたしは堕落する──。ヤンはその予感を、宣言するように、胸の中でひとりごちた。
もう、普段店で買うそうめんには戻れない。自分の作るつゆなど、おぞましくて見たくもなくなるだろう。
ユリアンに、戻って来て、そうめんの作り方を教えてはくれないかと言ってみようか。ヤンは少しの間、本気で考える。
専攻は違うけれど、サークルか何かで知り合ったと言う女の子と、この夏はアルバイトで一緒に過ごすから帰省はしないと言って来たユリアンに、手の掛かる、世話の焼ける養父の振り──振りではない──をして、ちょっと泣き言を言ってみようか。
このそうめんとつゆを、わたしの料理の腕で台無しにするのはあんまりだ。
あの男にも──シェーンコップにも悪いと、ヤンは思った。
思いながら、あの男のせいで、とも思った。
こんな美味いそうめんとつゆを差し出して、ヤンを駄目にする、爪の形まで美しい男。駄目にするなら、最後まで責任を取ってくれと、無茶なことを考える。
狭い、ごちゃごちゃと片付かない台所で、ひとり熱い湯気を浴びながらそうめんを茹でて、冷えるまでじっと待って、挙げ句に食べれば美味くないなんて、拷問じゃないか。わたしをそんなに苦しめてどうする気だ。
荷物の件で迷惑を蒙った、あの男の巧妙な意趣返しだろうか。復讐とは甘い味がするらしいけれど、そうめんとこのつゆと、どっちが美味いだろうかとヤンは考える。
そうか、復讐の味をとっくり味わえと言うことか。そうめんとこのつゆは、そういう意味だったのか。
息抜きに読む大藪春彦のせいで、そこに立ち尽くしたまま、ヤンの真夏の白昼夢が止まらない。ユリアンの送ってくれた本もまだ読み終わっていないのに、他の本も読むと言う、行儀の悪いことをしている罪悪感が、ヤンを自責ではなく他責であの男を責めさせるのだと自覚はない。
そうめんとつゆだけではなく、読書にもわたしは堕落していると、ヤンはうなだれ、とぼとぼと台所へ向かう。
冷蔵庫の中にまだ残る、手製のめんつゆの悲惨さが、自分そっくりだとしょぼくれながらヤンは思った。そうめんとつゆとシェーンコップの輝きが、突き刺すほど目にまばゆかった。