ゆですぎそうめんえれじぃ 22
ヤンはシェーンコップのあごひげの感触が気に入ったのか、掌で撫でたり頬をこすりつけて来たり、すでに少し伸び掛けていっそうちくちくするのに、笑いながら痛いなあと繰り返す。シェーンコップはお返しにヤンの髪と耳を噛み、猫と犬がじゃれ合うみたいに、たたみに広げたシャツの上で抱き合ったままでいた。
「仕事、忙しい?」
あくびを噛み殺しながら、ぼんやりとヤンが訊いて来たのに、シェーンコップは軽く首を振った。
「しばらくは2日程度で終わる仕事ばっかりですよ。もう少し暑いのが落ち着いたら、今度は冬まで休みなしでしょうがね。」
ふうん、とヤンがうなずいて、またシェーンコップのあごを撫でる。
「そっちはいつまで休みなんですか。」
今は休職中なんだと言ったヤンへ水を向けると、あまり話したくなさそうに軽く唇を尖らせて、
「後2ヶ月くらいかなあ。」
「2ヶ月? 戻った頃には机がなくなってるんじゃないんですか。」
嫌味のつもりはなかったけれど、ついそんな風に言う。ヤンは薄い肩に首をのめり込ませるようにして、シェーンコップを上目に見た。
「仕事のことは大丈夫なんだけど・・・ほんとは、そのまま退職したかったんだ、わたしは。」
「引き止められたんですか。」
ちょっとお世辞のつもりで言うと、うん、と素直にうなずかれてシェーンコップは毒気を抜かれた表情を隠せない。
「自慢たらしくなるけど、仕事はできるから、辞められると困るって言われてね。引き止められた時に、相当吹っ掛けたんだけど、何でも全部飲むからって言われて・・・休職にしかできなかったんだ。」
「その、仕事ってのは・・・?」
「銀行。」
言われて思わず、はあ?と声が出た。この男が、銀行の窓口にいるところを想像して、まあ、似合ってなくもないとは思った。けれど、この妙に浮世離れして見える男と、俗世の象徴みたいな金と言うものがうまく結びつかず、だったら何が似合うんだと思っても、咄嗟に何も思い浮かばないのだった。
「銀行?」
「うん、銀行。窓口にいるわけじゃないけどね。」
「銀行で何してるんですか。」
「投資の方。法人相手じゃなくて、一般の個人向けの方。」
要するに、たまたま金を持っているだけの、ごく普通の人々が相手と言うことか。それでも銀行に預ける金は何千万と言う話なのではないかと、シェーンコップは勝手に見当をつけた。庶民には無縁の話だ。
シェーンコップの表情で、と言うよりも、他人に仕事の説明をする時に必ずこんな顔をされるのだろうヤンは、続けて自分のしていることの説明を、シェーンコップに問われる前に始めた。
「慰謝料とか保険金とか、たまに宝くじに当たったって人とか。いちばん多いのは、離婚で子どものために養育費をまとめて受け取ったって人たちでね、大学の費用に元本は取っておいて、配当でそれまでの教育費を賄いたいって言うタイプ。」
突然離婚と言う生々しい話になって、大金にせよ宝くじにせよ、自分には縁のない話だとシェーンコップは思った。
「弁護士経由で、紹介されて来る人がけっこういて、大金受け取ってもみんな数年で使い切っちゃって、弁護士に泣きつくんだってさ。だから泣きつかれる前に、こういう方法もありますよって、わたしみたいなところに送り込むって言う寸法。来た全員が取り引きしてくれるわけじゃないけどね。」
「じゃあ私が現場で怪我でもして、会社から慰謝料をぶん取れたらあんたがその金の面倒見てくれるんですか。」
「別にいいよ。わたしのことを信用してくれるなら、だけど。もちろん投資だから100%確実じゃないけど、わたしは幸い、仕事の方では特に損は出してないから。」
自信満々と言う風ではなく、単なる事実と言う風に淡々と言う。辞めると言って引き止められたと言うのが、いかにも真実らしく聞こえた。
極めて現実的な話を、ほとんど全裸に手足を絡め合わせてしながら、格別興醒めもせずに、シェーンコップは一瞬本気で、もしそんなことになったらこの男にまず相談しようと思った。
シェーンコップの束の間の真顔を見て、ヤンも写したように真顔になり、またそっとシェーンコップのあごを撫でて、シェーンコップの灰褐色の瞳を近々と覗き込んで来る。
「・・・あんまり、怪我なんて言わない方がいいよ。言葉にすると、ほんとうになってしまうよ。」
現実の金の話から一転、今度は迷信まがいを口にする、まるで極彩色のだまし絵でも目の前に突きつけられたように、シェーンコップはちょっと驚いて目を見開いた。
「怪我で慰謝料なんてもらっても、それで全部が解決するわけじゃない。怪我なんてしないに越したことはないよ。」
ぼんやりとしていた空気が、一瞬でぴしりと、まるで冷たい氷みたいになる。自分と言う人間を、個人的に心配しているのかどうかは分からなかったけれど、ヤンの口調はきちんと真剣で、あまりこんな風に他人に気に掛けられたことのないシェーンコップは、わずかに呆気に取られ、乾いたうわあごに張り付いた舌をやっと動かし、声を出した。
「まるで、身に覚えがあるみたいな言い方ですね。仕事で、客の愚痴に付き合い過ぎましたか。」
ヤンが目を伏せ、再び話し出す前に、湿らせるように下唇を舐める。
「父親が事故で死んで、わたしはその保険金で大学まで行ったんだ。その時、散々金の使い方を勉強した。金と、人の命や体はどうしたって引き合わないよ。何億積まれたって、元通りにはならないんだ。実際、慰謝料なんて言ったって、手にするのは運が良くてせいぜい数千万、それに釣り合うのはせいぜい指1本、それがわたしの実感だよ。」
低めた声の、輪郭が急にくっきりと、シェーンコップの皮膚の上に突き立って来る。この、何もかもぼんやりした男は、こんな風にもしゃべれるのかと、今ではヤンから手を離し、触れるのも恐ろしい気がして、シェーンコップは神妙な表情であごを胸元に引きつけていた。
悪いことを言ったと、詫びるべきかどうか迷って、結局何を言っても軽薄な言い訳にしかならないと思ったから、シェーンコップはそれについては口をつぐみ、そろりと、爪先をほんのわずか前に踏み込ませる。
「親父さんが亡くなって──お袋さんは?」
「もっとずっと前に病気で死んだよ。身寄りはないんだ、わたしは。」
あっさりと言った後で、ヤンは伏せていた目を上げ、そう言う声は沈痛と言う響きではなく、ただそれはそうだと言うだけのことだと言う風に、もうこの世にいない人間よりは、目の前にいる生きている人間の方が大事だと、そう言わんばかりの声音だった。
「君は? 家族は?」
今度は自分がそう訊かれて、シェーンコップは指先で眉の端をかく。
「似たようなもんですね。死んだわけじゃありませんが、ふた親とも仕事中毒で、忙しく過ぎて私に構う暇がありませんでね、私は父方の祖父母に育てられて──親とはもう何年もろくに連絡も取ってません。」
「ふうん。」
色のない相槌だった。
同情の感触のない反応が珍しくて、シェーンコップはついヤンの黒い目を覗き込むようにして、また茫洋と、見ている先も定かではなくなったその瞳へ、吸い込まれるように引き寄せられる。
それを誘いと読んだのか、ヤンがシェーンコップへ唇を寄せて来て、素早く触れ合わせた唇の間で、小さな濡れた音が立った。
その音で我に返り、シェーンコップは今日ここでしようと思っていたことを突然思い出す。ヤンが脱いで放った、自分のシャツを拾い上げてヤンに渡し、自分は下着だけを最低限着けて、そこにあったカーゴパンツの大きなポケットに手を突っ込む。
「エアコンのリモコン、どこですか。」
「卓袱台の上。」
シャツの襟から頭を出しながら、ヤンが指差す。
シェーンコップがポケットから取り出したのは、新品の乾電池だった。卓袱台の向こうの端、畳んで置いた新聞の陰に隠れていたリモコンを見つけ、裏のふたを開けて、乾電池を取り替える。
何をしているのだと、ヤンが肩越しに手元を覗き込んで来た。
「もしかしたら、故障じゃないんじゃないかと思いましてね。」
リモコンをそちらに向け、電源のボタンを押すと、ぴっと可愛らしい電子音がして、ごーっとエアコンが動き出す。
「直った?」
シェーンコップの広い肩にあごを乗せて、ヤンが素っ頓狂な声を上げた。
「リモコンの電池切れですよ。」
ヤンにリモコンを手渡して、シェーンコップは立ち上がって開いていた窓を全部閉めた。
「なんだぁ・・・リモコンだったのかぁ・・・。」
ヤンが、いかにも忌々しげにぼやく。その傍で、シェーンコップは取り上げた服を着け、ちょっと手持ち無沙汰に辺りを見回した後で、結局またヤンの隣りの腰を下ろした。
エアコンの風に汗が急に冷えて来たのか、ヤンがくしゅんと小さくくしゃみをし、シェーンコップは慌ててたたみに敷いていた自分のシャツを取り上げると、それをヤンの肩へ広げて掛けた。
ヤンは冷たい風を避けるように、ぴたりとシェーンコップへ体を寄せて来て、そこでもう一度くしゃみをしたから、シェーンコップは羽織らせたシャツの上からヤンを抱き寄せた。
おとなしくシェーンコップの胸元へ頭を傾けて、手足を縮めるようにして巻かれた腕の輪の中へ収まり、ヤンは飽きもせず、今度は額をごしごしシェーンコップのあごひげにこすりつけて来る。
それからしんと黙り込んで、シェーンコップのタンクトップの深くくれた襟元を握り込んだり引っ張ったり、深い意味はない素振りで、シェーンコップの喉の線を指先でなぞったりした。
こうして抱き合っていても、もう暑苦しくはない。文明の利器に感謝しながら、ヤンはシェーンコップのあごの先に手を添えて、自分の耳はシェーンコップの心臓へ近づけた。
「仕事辞めて、どうするつもりだったんですか。」
沈黙はまだ少し息苦しく、何でもいいからと思って、シェーンコップは正面を向いたままヤンに訊いた。
「大学に戻ろうかとずっと思ってて、それなり貯金もできたから、そろそろいいかなって思ったんだけどね──案外簡単には辞められないよね。」
「出来る働き手を、手放したがらんでしょうな。」
今度は皮肉は含まず、シェーンコップは素直にそう言った。ヤンが、諦めたようなため息を吐く。
「60過ぎると学費免除の大学もあるしね、チャンスがあったらいつでも辞めるけど、あんまり焦って辞めなくてもいいかもね。」
そうしみじみと言った後で、突然ぱっと顔を輝かせ、シェーンコップを見上げてにいっと笑って見せた。
「君が宝くじに当たった時のために、わたしが銀行にいた方がいいだろう。」
あんまり無邪気に言うのに、シェーンコップは、そんなばかなとつられて破顔し、もし当たったら半分あんたにあげますよと、口にはせずに半ば本気で思った。
この男を悲しませないために、仕事で怪我なんかしたくないと同時に思って、シェーンコップは知らず腕に力をこめ、それから、ヤンの冷たい髪に顔を埋め、次の時まで覚えておけるように、ごくかすかな匂いをそっと吸い込んだ。