ゆですぎそうめんえれじぃ 25
映像に酔っ払ったように、照明が元に戻ると、ふたりは手を繋ぎ合ったままぼんやりしばらく見つめ合って、行こうと先に促しながら腰を上げたのはヤンの方だった。シェーンコップはヤンに引かれるように立ち上がり、何だかおぼつかない足取りで手を引かれ、映画館を出て路地を抜け、駅へ向かう通りへ出て初めて、繁華街のざわめきを胸いっぱいに吸い込んで正気に戻る。
闇が人工の明かりに煌々と照らされる風景が、それでも青と砂色の視界をひっくり返すことはまだできず、シェーンコップはぱちぱちと素早く瞬きをして、まだ自分と手を繋いでいるヤンを見下ろした。
「どうする?このまま帰る?」
駅の方を見ながらヤンが言うのへ、シェーンコップは数秒考え、
「メシ食いましょう。これから帰って何か作ったら深夜になりますよ。」
「じゃラーメンか何か?」
ヤンが後ろを振り返り、路地の奥へ軽くあごをしゃくる。
「いやもうちょっと──あんたはちゃんと肉でも食った方がいいですよ。」
何となく、少しゆっくり腰を落ち着けたい気分だった。スクリーンを見つめて、時折ちらりと横目でヤンを流し見て、そんな4時間ちょっとを過ごした後だったから、肩を並べてよりも向かい合って坐って、ヤンを見ていたかった。
結局もう2本路地を駅の方へ戻り、まだ車の途切れない通りの真向かいに24時間営業の薬局の、派手派手しいディスプレイを見ながら、焼き鳥とある大きな赤い提灯を見つけて、入った路地の3軒目に足を向ける。がらがらと引き戸を開ける時、やっとシェーンコップの手がヤンから外れた。
テーブルに幾つか空きがあり、そこそこ混んでいる店の中はそこそこ騒がしく、ちょうど店の真ん中辺り、壁際のテーブルへ向かい合って坐って、香ばしい匂いに、ヤンが食欲をそそられたように唇を舐める。
何を飲むかとやって来た店員に訊かれて、ヤンがちらりとシェーンコップを見た。
「・・・飲んでいい?」
どうぞ、と、わざわざ訊かれたことに驚きながら答え、シェーンコップはただのウーロン茶にして、すぐにお通しのポテトサラダに箸をつける。ヤンはウイスキーをロックでと、言った途端店員がちょっと驚いて、これもまたちらりとシェーンコップを見る。見た目に似合わない注文のせいか、それともヤンが未成年に見えかねないせいか、シェーンコップはいかにも慣れている振りで、店員へ向かって小さくうなずいておく。
「あんた、けっこういける口ですか。」
「うわばみなんだ。飲んでも飲んでも酔わないから、外では飲まないんだけどね。今日は君と一緒だから。」
人は見掛けによらないと、もうポテトサラダを空にして、シェーンコップは思った。
すぐにウイスキーとウーロン茶がやって来て、ふたりでてんでばらばらに、好きなものを頼む。メニューを開いた途端映画の後の空腹に気づいたふたりは、鶏肉に豚肉に牛肉に、焼いたのと煮たのと揚げたのと、たれやらしおやらソースやら、終わった時には誰が何を頼んだかも覚えていない。
「さすがにそうめんはないね。」
メニューを最後まで見て、ヤンが可笑しそうに言う。季節ものと言うせいでもなく、焼き鳥屋にそうめんはないだろうと、シェーンコップがそう言うと、
「もう涼しいしね。」
「寒くなったら味噌汁に入れる手もありますよ。」
「ああ、そうか。」
初めて聞いたと言う風に、ヤンが目を輝かせた。大学の前には父親が死に、そのずっと前に母親が死んだとなると、いわゆる普通の家庭料理には縁がなくて、もしかしてにゅうめんと言うのも、ヤンは聞いたことがないのかもしれない。
とは言え、シェーンコップも、冬にわざわざそうめんを食べようと思ったことはなく、この夏そうめんばかり食べていたのはヤンのためだったから、自分も似たようなものだなと、ウーロン茶のジョッキを傾けながら考えている。
ヤンはいかにも美味そうにウイスキーに口をつけ、ちびちびとポテトサラダに箸を伸ばし、そのために割った割り箸の割れ方がまったく真っ直ぐでないのも、いかにもこの男らしくて、映画も楽しかったけれど、こうしてヤンを目の前に眺めるのも楽しいと、ウーロン茶のはずなのに自分は酔っ払っているのだろうかと、シェーンコップはふと思う。
料理の小皿が届き、たちまちテーブルはいっぱいになる。ふたりは好き勝手にあちこちに手を伸ばし、取り皿もへったくれもなく食べ始めた。
ヤンのウイスキーは2杯目、シェーンコップのウーロン茶はまだ半分。
空腹の男ふたりにがつがつ食べられて焼き鳥の皿はすぐに串だけになり、とんかつはさすがに少し落ち着いて味わって少しペースが落ち、唐揚げは、シェーンコップが櫛形のレモンを取り上げた。
「全部掛けますか、それとも半分だけ?」
「半分だけ。」
串から肉を噛みちぎりながら、ヤンがもそもそ言う。今日ばかりは、口の中がまだいっぱいでも、ヤンを行儀が悪いと思わないシェーンコップだった。
言われた通り、皿の上で唐揚げを半分ずつにして距離を空け、片方にだけレモンを絞る。汚れた手を拭い、またウーロン茶をひと口。それからレモンの掛かった唐揚げを口の中に放り込み、わしわし噛んだ。
「たまにはこういうのもいいなあ。」
ヤンが2杯目のウイスキーをほとんど空にして、はあと大きく息を吐いて言う。
「あんまり外で食べないし、家でも別に凝ったものなんか作らないからなあ。」
ほとんど空の、調味料が少しと酒ばかりのヤンの冷蔵庫の中身を思い出しながら、凝ったもの、と言うところに疑問符をつけて、けれどシェーンコップはそれを顔には出さずに、とんかつのいちばん端のひと切れを取り上げる。
「ひとりの時は、何食べてるんですあんた。」
「お米炊いて、スーパーで何か買って来たり、コンビニで食べられそうなの見繕ったり・・・。」
それはつまり特に料理はしていないと言うことじゃないのかと、シェーンコップは頭の隅で考えた。とんかつの皿の山盛りのキャベツを、多めにひとつかみ取る。それでも米の炊き方を知っているなら上等か。
「味噌汁作ったりはしませんか。」
「ひとり分てめんどくさいんだよ、何作っても。結局インスタントでいいってことにならないかい?」
ヤンのところへ、いつも副菜を抱えてやって来るシェーンコップに向かって、ひどい言い草だ。シェーンコップは苦笑して、ふた切れ残ったとんかつの皿を、さり気なくヤンの方へ押しやった。
「私もたまにはさぼりますがね。でも味噌汁くらい・・・何かあったかいものを、せめてに日に1度くらいは腹に入れた方がいいですよ。」
「めんどくさい。」
顔をしかめ、心底そう思っていると言うように、ヤンがぼやく。同じことを、まったく同じように、初めて会った日にも言ったなと、シェーンコップは思い出していた。
「はいはい、さっさと食べて下さい。また焼き鳥頼みますか。」
空になった皿をテーブルの端へ寄せ、ちらりと、もう空のヤンのグラスを片目に見て訊くと、とんかつのひと切れをつまみ上げながらヤンがうなずく。そうして、最後のひと切れはシェーンコップの方へ押し返して来る。
再びメニューを開いて、あれこれ見繕い、ふと味噌汁からヤンに何か汁物をと思いついたシェーンコップは、
「豚汁食べますか。」
「とんじる? ああ、ぶたじる。あるの? うん、いいな。」
ほんのちょっぴり、申し訳程度にとんかつのキャベツをつまむヤンを見ながら、シェーンコップが次の注文をする。焼き鳥の類いをまたひと渡り、それから豚汁、そしてヤンには3杯目のウイスキーとシェーンコップは再びウーロン茶を、思いついて焼きおにぎりを加えると、ヤンがうんうんうなずいた。
「肉じゃがでも良かったかな・・・。」
皿を抱えて店員が去ってから自分でメニューを開き、ヤンが難しい顔で言う。
「あんたが待てるなら、今度作りますよ。」
それならいいやと、満足そうにメニューを閉じ、ヤンは残っていた唐揚げをつまみ上げた。
2ラウンド目は少しゆっくり進み、熱い豚汁をヤンは美味そうに食べて、汁の一滴も残さなかった。ひと皿に3つ来た焼きおにぎりはきっちり半分ずつにして、噛むと甘い米が香ばしく焼かれた香りに目を細めて、最後にふたりは、ウイスキーとウーロン茶を空にして立ち上がる。
支払いも半分ずつ、飲んだ酒の分をヤンはきちんとシェーンコップに渡し、店の外で釣りはいらないと首を振った。
学生の頃なら、まだ飲み足りずに、もう1軒と言うところだ。そして結局もう2軒回って、深夜営業の店へ飛び込み、始発まで半ば酔いつぶれながら時間をつぶす。もちろんもうそんなことはしない。されこれからどっちへどう帰るかと、シェーンコップは店の前から駅の方へ首を回した。
「駅からあんたのところまで、まだ帰れますよね。」
バスに乗るほどでもない距離だけれど、酔っているなら歩かせるのはちょっとと思う。タクシーにきちんと乗るようにと言うべきかと、足取りや振る舞いから、ウイスキー3杯の後に酔った様子は見えないヤンを、シェーンコップは少しだけ心配する。
「帰れるけど・・・もう帰るの?」
「もうってあんた、まだ飲みたいんですか。」
もう1軒なら行けそうな時間ではある。けれど終電を気にしながら飲むのは味気ない。
「別にもう飲むのはいいけど──ホテルに行かないの?」
「ホテル?」
「うん、だってあっち、ホテル街だし──だからこっちに来たんじゃなかったの、君。」
ヤンが、路地のさらに向こうを指差す。
シェーンコップは顔をしかめた。そんな下心はない。まるきりない。そもそもそちらへ進めばラブホテルのずらりと並んだ通りへ入ると、知ってはいたけれど、今の今まで考えもしなかった。
まだヤンの部屋に泊まったことはなく、そもそもベッドが狭過ぎていつもするのは居間のたたみの上と言う、そんな関係で、何の前触れもなく突然ホテルかと、シェーンコップはしばらくの間混乱した。
出会った次の瞬間、ホテルの入り口へ入って行くふたり組だってこの世には存在する。シェーンコップにも覚えがある。自分のことを棚上げして、高校生にさえ見えるヤンが、この先がホテル街だと知っていると言うことが、シェーンコップには大きな驚きだった。
「あんた、そっちに行ったことがあるんですか。」
「ないよ。でもよく学生の頃に飲みに来ると、必ず誰かがこの辺から姿消してたからさ。ずっと前の話だから、今もホテルがあるのかどうか知らないけど。」
なるほど、置き去りにされ組か。シェーンコップは姿を消す側だった。ヤンを前に、今になって昔の自分の所業に罪悪感を覚えながら、ヤンが行ったことがあると言って責められる自分ではないと、静かに反省した。
「行くのはいいですが、今からじゃ帰りは明日の始発になりますよ。」
「いいよ別に。じゃ行こうよ。わたし、1回行ってみたかったんだ、ラブホテル。ひとりじゃ入れないし。」
何だか、社会見学に付き添う保護者みたいな気分になって、シェーンコップは落ち着くために、ヤンのために作る肉じゃがと豚汁の材料のことを考える。
ヤンが路地の奥へシェーンコップを引っ張って行こうとするのに、
「あ、ちょっと待って下さい。行く前に──。」
必要なものがあるからと、シェーンコップはそこで方向転換した。
ヤンはシェーンコップに追いついて肩を並べながら、必要なものって何、と不思議そうに訊いて来る。
「・・・コンドーム。今日財布に入れてないんですよ。」
正確には、箱が空になって、ひとつしかなかったのだ。
「ホテルで買えないの。」
「買えますが、私のサイズは多分ないですよ。」
「規格外は大変だね。君がちゃんと持ち歩いてるの、そのせいか。」
ヤンが天下の往来で規格外云々と言うのに、シェーンコップはちょっと顔から火が出そうになった。夜の、飲み屋の並んだ通りでよかったと心底思う。
車の通りに戻って、さすがにシェーンコップはそこでその会話を止めた。
横断歩道を渡り、さっきの薬局へ入る。後ろをついて来るヤンは、何か飲む物が欲しいと途中で冷蔵庫のある方へ行った。
シェーンコップはいつも使うコンドームを見つけて、3つ入りをまず手に取ってから、思い直していつもの12個入りの箱を取った。これが空になったら、場合によってはもっと数の多いのを買うかと、ほとんど自棄のように思う。ヤンが手伝ってくれるなら、使い切るのにそれほど時間は掛からないだろう。
レジへはシェーンコップが先に通り、店の外で待っていると、ビニール袋片手にヤンが出て来る。
「あった?」
ええとうなずくと、袋を開いて、ヤンが中身を見せて来る。
「君のコーヒー、甘いので良かったよね。後、ウーロン茶、大きいの買ったけど、一緒に飲むのでいいよね。」
これから遠足に行くんだったかと思いながら、自分用のコーヒーも買ってくれたヤンの気遣いに感謝して、それでもヤンのおしゃべりを止めるために、シェーンコップはヤンの肩をそっと押す。
いかがわしい場所へ、騒がしく向かう輩もいないでもないけれど、シェーンコップはできれば静かに事を運びたいタイプだった。どうせああいう場所に足を踏み入れる面々は、誰も足元にうつむいて、誰にも顔を見せず、誰の顔も見ないようにして、ひっそりと出入りするのがマナーのようなものだ。
シェーンコップが黙ったのに、さすがにヤンも空気を読んだのか口を閉じ、また出て来た路地を入り直して、さっきの焼き鳥屋の前を通り過ぎてさらに奥へ進むのに、ヤンのぶら下げたビニール袋だけががさがさ音を立てている。