ある朝の風景 - 承前
一度着替えに戻るよとヤンが言うから、宿舎まで送って行った朝、すでにシャワーはシェーンコップのところで浴びていたから、ほんとうに着替えるだけだったのだけれど、自分はもう時間だからと先にユリアンが出てしまうと、ヤンの手際の悪さはさすがのシェーンコップの欲目にも余るものがあった。「シャツはどれでもいいんですか?」
「そこにあるのはきれいなはずだけど。」
自分のクローゼットと言うのに、はっきりしない返事がやって来る。なるほど、朝はユリアンが、頭のてっぺんから爪の先まですべて揃えて面倒を見ているに違いない。甘やかすのはほどほどにしとけよ坊やと、半分くらいは面白がりながらシェーンコップは思う。
昨夜の服はとりあえず脱ぎながらベッドの上に放って、そうすると、まだぬくもりの残るそれの上へ、とことことどこからか現れたユリアンの猫が、ふんふんと匂いを嗅いで落ち着けそうな辺りを選んで、どっしりと鎮座する。
どうせまとめてクリーニングに出す──ユリアンが──のだろうから、猫の毛など気にならないのだろうけれど、ぴしりと伸びたシーツや掛布が、脱ぎ散らかした服と猫で台無しにされ、シェーンコップは少しだけユリアンを気の毒に思った。
けれどクローゼットから振り返って、着替えの最中のヤンと猫を交互に見ていると、ヤンが脱いだばかりの服の上で朝寝を決め込む猫が、様々な意味で羨ましくなって、おい待てワルター・フォン・シェーンコップ、猫に焼きもちはやめろ、とクローゼットの中へ再び意識を戻す。
昨夜ヤンに散々触れたのは、誰であろうシェーンコップだ。ヤンが寝たのもシェーンコップのベッドだ。今の状況で、一体俺が誰を羨ましがる必要があるって言うんだ。
とは言え、ヤンには帰る家があり、帰れば待っている息子がいて、シェーンコップがヤン・ウェンリーと言う男を独占していると思うほどは、ヤンはシェーンコップだけのものではないのが現実ではあった。
シャツを取り出し、ネクタイを探そうとして見当たらず、ずっと奥の方へ手を差し入れた時、ふっと煙草の匂いがしたような気がした。
訝しげに、匂いのした方へ顔を近づけ、その懐かしい匂いを確かめると、シェーンコップはヤンには見せないように眉を寄せる。
煙草など、もう10年は同盟の誰も吸ってないのではなかったか。だとすると、これはそれ以前の、ヤンの士官学校時代、あるいはその前に服に染み付いてしまった匂いか。
奥の方には、ヤンがその頃着ていた服がまだあって、煙草の匂いはそこから来ているのかもしれない。他人の家のクローゼットを覗き回る趣味はなかったから、シェーンコップは好奇心をそこで抑えて、クローゼットからシャツとネクタイを手にヤンの方へ振り返り、それでもさっきうっかり猫に対して感じてしまった、同じような嫉妬の感情は抑え切れずに、
「以前、煙草をお吸いでしたか。」
思わず探るようにヤンに訊く。
「煙草?煙草なんか吸ったことはないよ、わたしは。」
「匂いがしますよ、服から。」
決して嫌味にならないように、単なる指摘と言う体で、シェーンコップは何気なく言う。
「ああ、古い服が奥にあるからね。煙草かあ・・・ボリスかな。」
シェーンコップが差し出すシャツへ袖を通しながら、ヤンがどこか懐かしそうな声音で、頭に浮かんだらしい名前を口にした。
ああ、とシェーンコップは静かにうなずいて、ヤンの後ろへ回ってシャツの襟をきちんと折ってやる。そこならヤンに顔を見られなくてすむからだ。
ボリス。ボリス・コーネフ。ヤンがファーストネームで呼び掛ける、軍とは無関係の男。昔馴染みと言う表現に、シェーンコップは勝手に妙な解釈を付け加えて、またひとりでこめかみの辺りへ痛みを感じている。
狎れ狎れしくヤンの肩へ腕を回し、敬礼などもちろんするわけはないし、ヤンの階級など尋ねもしない。あの男にはそんな必要もないのだ。ヤンを呼び捨てにして、そこにいる誰も分からない古い話題を持ち出し、ヤンと額を寄せるように話をして、別れる時には、ヤンの尻を叩きさえした。挨拶代わりに自分もローゼンリッターたちへ時々するそんな仕草を、ヤンが彼にしたのを目撃して、シェーンコップはその時自分の手に戦斧がなくて良かったと、心底思った。
ヤンの古い服に、こんなに匂いが染み付いていまだ残るほど、長い時間一緒にいたのか。吸い殻の積まれる灰皿を間に、シェーンコップにはまったく分からない話をしながら、一緒に笑い合うふたり。まだ若いと言うよりも、いっそ幼いと言った方が早い、その頃のヤン・ウェンリー。ボリスをボリスとヤンが呼ぶように、ボリスもヤンを、姓の方ではなく名前でウェンリーと呼んだのか。
どちらかと言えば、自分はドライな方で、見方によっては冷血と言われる類いの、冷静と言うよりも、必要なら即座に無関心に切り替えられる人間だと思っていた。
なのに、ヤンが関わると、我ながら驚くほど嫉妬深くなる。今も、古い煙草の匂いを嗅ぎ分けたのは、嗅覚の鋭さではなくて、ヤンの身辺すべてに対して神経が立っているせいだと自覚がある。
自分を無様だと思っても、自分の知らないヤンを知るすべての人間たちに、ほとんど殺意に近いような嫉妬が湧く。帝国も同盟も揃って潰れてしまえばいいと思うのは、そうなってヤンと自分だけが生き残ればいいと言う、物騒な気持ちがあるからだとはさすがに口にはできない。
のろのろと袖のボタンをとめ、前のボタンを下からとめている──これものろい──ヤンの肩へ両手を置いて、シェーンコップはヤンの首筋へ唇を押し付けた。
「遅刻するよ・・・。」
「とっくに遅刻ですよ。」
昨夜散々触れて、跡だけは残さないように用心したそこへ、改めて唇を押し当てて、そうするとヤンの首筋とシャツに覆われた肩口へ朱色が上がり、これから禁欲的にシャツに覆われるはずの、ヤンの赤く染まった膚の眺めは、朝こんな時間に見るには少しばかり刺激が強過ぎる。
今朝はすでにユリアンに出会っているから、急病で休むと連絡するわけにも行かない。押し倒したくてもベッドは脱ぎ散らかした服と猫に占領されている。残念、とシェーンコップは口の中でだけつぶやいた。
「今日は、アッテンボローと打ち合わせがあるんだ。」
「それは午後でしょう。」
「そうだけど・・・。」
また別の誰かの名前を出されて、シェーンコップやヤンを自分の方へ向き直させると正面から抱きしめて、シャツを着る手を止めさせた。
「遅れるよ、シェーンコップ。」
それ以上、他の誰かの名前をヤンが呼ぶのを聞きたくなくて、シェーンコップはそこでヤンの唇を塞いだ。
ヤンの肩越しに、つい握りしめてしまったヤンのネクタイが見え、自分の手の中でよれてしわだらけになってしまったそれを、別のと取り替えなければと思いながら、シェーンコップは力いっぱいヤンを抱きしめる。
昨夜貪った分では突然足りなくなって、ヤンの背中を撫で、腰の辺りへ触れて、それでもそれ以上先には進まないように、懸命に不埒の度には気をつけている。
首筋から、じきに上がる体温が伝わって来て、シェーンコップや構わず割ったヤンの唇の中で、容赦なく舌を動かした。
俺をいる時に、他の誰かの名前を出さないでくれと、ヤンを抱きしめる腕に言わせても、ヤンに伝わるわけもなく、ただ嫉妬の渦巻く胸の内を鎮めるために、そしてヤンに、今一緒にいるのは自分だと思い知らせるために、絡め取ったヤンの舌を自分の方へ強く引き寄せる。
アッテンボロー。もうひとり、シェーンコップの知らないヤンを知っている、誰か。ヤンの弟のような、ヤンにまとわりついて、ヤンに甘える仕草を隠さない、ヤンより年下の男。いかにも育ちの良さそうな、両親を早くに亡くしたヤンがいかにも魅かれそうな、屈託のない笑顔。
あんな風に、自分はヤンに笑い掛けられない。快活を装っても、今こうやってどす黒い感情を持て余しているように、ヤンさえ残るなら、世界などどうなってもいいと考えている自分の危うさを、ヤンにも、そして他の誰にも悟らせないのに精一杯だ。
ヤンといると、余裕を失くす自分がいる。ヤンにすべて占められて、その他のことはどうでもよくなる。ヤンが内側へ入り込んで来て、そこからシェーンコップを作り変えてしまった。ヤンの視点、ヤンの触感、ヤンの思考、シェーンコップのすべてがそれに満たされて、そうしてヤンに支配される心地好さに、シェーンコップはほとんど中毒していた。
こんな軍服など着なくてもいい世界。襟についた階級章の、必要のない世界。ヤンとふたりだけの世界。他には誰も何もいらない。
そんなところへ行きませんか。私と一緒に。
いつか、と思いながら、シェーンコップはやっと腕をゆるめて、ヤンの唇を放した。
ふたり分の呼吸と唾液で湿ったヤンの唇を、親指の腹で横ざまに拭い、
「──行きましょう。」
自分に言い聞かせるように言って、シェーンコップは再びクローゼットの方へ向いた。
進みながら、ベッドへ握っていたネクタイを放り、それへ、不愉快そうに尻尾を振る猫をちらりと見て、別のネクタイを探すために腕を伸ばす。
うつむいてボタンをとめるヤンの首筋がまだ赤い。到着するまでにはその赤みは消えるだろうかと、自分の赤い頬には気づかず、シェーンコップはヤンの上着を先に取って腕に掛けた。