ピクニック
シェーンコップが何やら騒がしい。キッチンから玄関へ一直線、出たり入ったり、さっきまでキッチンで紅茶を淹れていたようだったのに、ヤンのためではなかったのか、カップが運ばれて来る様子はない。ヤンはいつものようにソファに寝転んで、読んでいる本の陰から動き回るシェーンコップをちらちら見ていた。
外まで3往復、キッチンへ戻らずにヤンの前へ来ると、
「準備が出来ました。参りましょう。」
行かないか、行きたくないか、どこへ、とヤンに尋ねることもなく、決定事項のようにシェーンコップが言う。
「準備って?」
「日光浴です。本なら外でも読めますよ。紅茶も用意しました。さあ。」
指の長い手が差し出されて来るけれど、ヤンは面倒くさいと言う感情を全身で表現して、本の陰に顔を隠した。
さっきからばたばたやっていたのは、外に、その日光浴とやらの準備をしていたのか。本を読むのにわざわざ外に出る気はない。
「君ひとりで行ってくればいい。わたしは遠慮しておくよ。」
「閣下、いちばん最近外に出たのはいつか、覚えておいでですか。」
ヤンは肩をすくめ、亀のように頭を首ごと全部体に埋め込むようにして、シェーンコップの視線と小言を避けようとする。もちろん無駄だ。
シェーンコップにそう訊かれて答えなかったのは、答えたくなかったからではなくて、ほんとうにいつだったか思い出せなかったからだ。1週間くらい前だったような気がするけれど、もっと前だったかもしれない。こうやってシェーンコップが質問して来ると言うことは、シェーンコップは恐らく正確にいつだったか覚えているだろうと言うことだ。藪をつついて蛇を出す、あるいは墓穴を掘るくらいなら、黙って聞こえなかった振りをした方がいい。
ヤンはシェーンコップを無視している振りをして、本を読み続けている振りをした。
「よろしい、そのまま読書をお続け下さい。後は安んじておまかせあれ。」
シェーンコップは、ヤンのスラックスと腹の隙間へいきなり指先を差し入れ、腕1本でヤンの体をそこから引き上げた。驚いたヤンが声を上げる間もなく、気がつけばそこに立たされ、次の瞬間には荷物のようにシェーンコップの肩へ担ぎ上げられている。シェーンコップはヤンを抱えて体を起こす前に、ヤンが落としてしまった本を拾い上げ、ヤンに手渡しさえした。
「・・・君には永遠に勝てる気がしないよシェーンコップ。」
「黙ってないと舌を噛みますよ。」
妙に低い声でシェーンコップが言った。
歩き出す広い肩は案外居心地悪く揺れ、ヤンの片足から室内履きが脱げて落ちる。ヤンは本を落とさないのに必死で、せめてもうちょっと、安定感のある運び方はないのかと文句のひとつも言いたかったけれど、シェーンコップがそう忠告した通り、口を開くと舌を噛むに違いなかった。
玄関を通り抜け、ポーチの短い階段を、シェーンコップはヤンを抱えて危なげなく降り、すでにドアの開いている助手席へ、ほんとうに荷物のようにヤンを放り込む。
「もうちょっと優しくしてくれてもいいんじゃないのか。」
「素直に言うことを聞いて下されば、私もこんなことをせずに済むんですがね。」
ここまで来れば、もういやだ行かないと言うわけにも行かず、ヤンはおとなしく助手席に収まって背を伸ばし、シェーンコップが車を発進させるのに、一応は唇を尖らせては見せて、不服の意は示しておく。
車は、街とは反対方向へ進んで、10分と掛からず停まった。
広がる芝生の、ところどころに樹が植えられ、明らかに人工的に整地された場所で、けれど時間のせいなのかどうか、見渡す限りに人の姿はなく、まるでふたりのための貸し切りのようだ。木陰には、時々ピクニックベンチがあり、週末なら家族連れの姿も見えるのかもしれない。
平日の中途半端な午後のこの時間、日差しは少し弱まって、木陰を、ちょうど良い風が通り抜けてゆく。
シェーンコップは後部座席から薄い毛布を取り出すと、さっさと木の根元へ広げて敷き、そこにクッションをふたつ投げた。
手招かれ、ヤンは片方は素足の足元を気にしながら、敷かれた毛布の上へ上がると、すぐに熱々の紅茶が差し出される。魔法瓶に詰めて、わざわざ持って来たらしい。用意のいいことだと、青空の下で、立つ香りに目を細めて、確かに外で読書も悪くはないと、紅茶の味に頬の線がうっかりゆるむ。
頭上の木の枝は柔らかな緑を芽吹かせて、もうすっかり春だ。滅多と外に出ないヤンは、季節の移り変わりにも気づかず、雪が降ったのはついこの間ではなかったかと考えながら、なるほど、確かにもう少し外に出るべきだと、上目に空と木を見てこっそり反省する。
シェーンコップは自分の分の紅茶と本を手に、木の幹にもたれ掛かるように背にクッションを挟んで、連れて来たヤンのことなど忘れたように、もうひとりの世界へ入り込んでいた。
ヤンは紅茶を置くと、手にしていた本を開き、もうひとつのクッションを取り上げてわざわざシェーンコップの腹の近くへ置いて、彼の体に頭をもたせ掛けるようにしてそこへ寝そべった。
日差しが目に入らないように、頭の位置を決めて、文字を読み始めればヤンも他のことは忘れて、それでも時々シェーンコップが自分の髪に触れて来るのに、手を伸ばして触れ返し、青空の下の読書の合間も、体のどこかは必ず触れ合っているふたりだった。
ページを繰る合間に、紅茶を飲む。適当な間隔でシェーンコップが新しいのを注ぎ足す。新たな湯気で唇と鼻先が湿る。区切りのない空間で、広がる青空を本の向こうに見ながら、象牙色のざらついた紙面に黒々と盛り上がったインクの文字を読む。本の世界も自分も、空気も風も木も、そして自分が触れている体温も、何もかもがひとつに溶け交じり、現実とフィクションの境い目が怪しくなる。紅茶の熱さで現実に引き戻されながら、もしかしたら自分は半分眠り掛けているのかもしれないと、ヤンは思った。
引きずり出されるようにここへやって来て、ヤンは心地良く外の世界に酔い、ひとりでなら絶対にこんなことは思いつきもしない。思いついても実行するとも思えなかった。結局のところ、いつだって自分の背中を押す──あるいは、どこかから突き落とす──のはこの男なのだと、ふと本から片手を離してシェーンコップの足に触れ、紙とは当然違うその感触に、不意に湧き立つものがある。
春の気配のせいだろうか。空の青さのせいだろうか。あるいは、果てもなく思えるこの場所で、ふたりの他に誰もいないせいなのか。
ここは確かに心地好かった。強引に連れ出されたにせよ、連れて来られてよかったと思いながら、ヤンは、それでもふとシェーンコップと閉じこもる、ごく狭い空間を恋しく思って、さらに腕を伸ばしてシェーンコップの足へもっと触れた。
紅茶はまだ残っているだろうか。シェーンコップはまだ、この晴天の下の読書──兼日光浴──を続けたいと思っているだろうか。今ヤンが伸ばしている手の動きに、何か読み取ってはくれないかと、ヤンは思わず本から視線を外してシェーンコップを見る。喉を伸ばして反らし、上下が逆さまになる視界に、シェーンコップがまったくいつもとは違う風に見える。
ヤンは肩をねじるように無理矢理腕を伸ばして、シェーンコップの、本を支えている手に触れようとした。
ちらりと、シェーンコップの瞳がヤンの方へ動く。たった今気づいたのか、とっくに気づいていて知らん振りをしていたのか、伸ばされたヤンの手を素通りして、シェーンコップはいきなりヤンの喉へ指先を滑らし、シャツの襟の中へ侵入して来る。
日を浴びないヤンの首筋は白っぽく、今は外気にぬくまって、けれどシェーンコップの指先はそれよりもずっとあたたかい。シェーンコップの指先がもっと進みやすいように、ヤンは喉をさらに伸ばした。
「まだ、ここにいるかい。」
しゃべれば喉が動く。動くと、シェーンコップの指の腹がいっそう近くなる。ヤンはもう、本を体の脇へ投げ出していた。
「まだ紅茶が残ってますよ。」
そう言うシェーンコップの声は、憎らしいほど冷静だ。
ヤンはどう言っていいか分からず、ついむっと唇を突き出して黙り込み、また上目に、上下逆にシェーンコップを見つめた。
視線の色に、シェーンコップはヤンの内心をちゃんと読み取って、試すような笑みを投げて寄越す。唇が、ゆっっくりと動いた。
「──せめて週に2、3度は外に出ると約束するなら──」
「・・・するよ。」
シェーンコップの言葉の終わりも待たずに、ヤンが言う。
「するから──」
まるで、太陽を浴び過ぎると死んでしまうとでも言うように、奇妙な必死さでヤンが言葉を重ねた。
ただっ広い空間で、ヤンはただ、自分のために作られた、ごく狭い自分の居場所が恋しくなっただけだ。シェーンコップとふたりきりで閉じこもるための空間。ふたり以上は誰も入れない──他の誰もいないのだけれど──、その狭い小さな空間。
日差しも風も心地好く、緑は目に優しく、紅茶はちゃんと熱くて美味かった。こんな風に本を読むのも悪くない。それでも、ヤンには、ここは少し開放的過ぎた。シェーンコップとふたりでいるには。
シェーンコップの指先が、ただ触れていると言うには少々不届きにヤンの首筋をなぞり、シェーンコップはもしかすると、こんな場所でも平気なのかもしれないとヤンは思う。自分は無理だと、触れられた順に血の色が上がり、今は頬まで赤く染まっていた。
「帰りましょう。」
穏やかに、ささやく声がそう言った。
体を起こし、残ったカップに残った紅茶は飲み干して、ばたばたと片付けるのは、来た時よりもさらに手早く、車に戻った瞬間、ヤンはシェーンコップを引き寄せて口づけた。
普段に似ない熱っぽさで、頬と首筋の赤みが消えずに、それを可笑しそうにシェーンコップが見下ろしている。
「日射病かもしれない。」
「かもしれませんね。」
相槌を打ちながら、信じていないのを隠しもしない。
10分が永遠のように思えて、ヤンは、自分が助手席に放り込まれたののお返しのように、シェーンコップを今度は車から引きずり出し、荷物も何もかも車中に残したまま、玄関に入った瞬間シェーンコップをそこへ押し倒した。
「熱中症かな・・・。」
上ずった声がかすれる。シェーンコップが下でにやにや笑っている。
「かもしれませんね。治療が必要ですか。」
うん、とうなずいて、今すぐ、とヤンは上着を脱ぎながら言った。
日差しにぬくまったヤンの膚に、シェーンコップの掌が触れて来る。黒い髪は熱を吸い込んでどこよりも熱く、そしてシャツの下のヤンの素肌は、それよりもさらに熱かった。
太陽も青い空も必要のない熱が、ふたりきりの空間へこもる。
ふたつの躯がこれ以上ないほど近く寄り添い、互いの輪郭で世界を区切って、青空の下では決して聞くことのできないふたりの声がひそやかに響き、ささやかなピクニックはそうしてずっと続いている。本の代わりに、今は互いを読んでいる。
熱の鎮まる日没まで、まだもう少し間があった。