シェーンコップ×ヤン。

小指の秘密

 ヤンは、無意識に手を振る仕草を繰り返している。
 左手にすれば良かったのに、右手にしてしまったから、いちいちペンを置いてそうしなければならない。
 右手の小指の第二関節から根本に向かって、半月の縁のように渡る噛まれた跡。よく見れば、やや色と濃さの違う線が、重なるか重ならないかの微妙さでふたえに走っている。
 ひとつは自分で噛んだものだ。もうひとつは、咬まれてついたものだ。
 親指を噛むと、もしかするとひどく傷つけて手指が使えなくなりますよと、そう冷静に、素面の時に諭されて、それで噛んだ小指の側だった。
 主には声を耐えるために。もうひとつは、そうして持ち上げた手の陰に、自分の顔を隠すだめに。ヤンの目的を見抜いていただろうか。見抜いたから、ヤンのぎりぎり食い縛った歯列を、ゴツゴツとした指先を差し込んでゆるめ、噛んでいた指を外し、それなのに跡を重ねるように自分で咬んで来た、ヤンのそれよりも力強い歯列。
 あの力強さは、握って振り下ろす戦斧の閃きとよく似ている。ろくに見たこともないその光景を、なぜかヤンはどんな時も鮮やかに思い浮かべることができる。戦斧を握る手。あちこち固くなったその手指と掌が、驚くほどの優しさで触れて来る時。
 ヤンはもう置いたペンを改めて取り上げることなく、また右手を振った。まだ痛むような、疼くような、歯列の食い込む感触が神経のどこかに残って、ヤンの脳へ信号を送り続けている。
 別に特別でも何でもない夜。いつもと同じに、一緒に過ごした、他の夜に埋没して、どれがどの時と見分けのつかなくなる、ごく普通の夜だった。
 ヤンは、軽く持ち上げた、自分の右手を凝視した。その手の陰から見た、灰褐色の視線。ひどく熱っぽく注がれる視線の先に、自分がいるのだと言うことが信じられずに、自分の瞳の潤みを自覚して、ヤンはその時また手を持ち上げて自分の顔を隠そうとした。手を取られて、小指を咬まれたのはその時だ。
 視線の熱さそのままのような、唇の中の熱。ヤンを咬みながら、舌が動いて時折触れ、皮膚と肉と骨に食い込む歯列と、同じ強さで自分の内側を進んで来るそれへ、ヤンは思わず声を立てた。
 シェーンコップ。
 喘ぐ合間に呼んだのは、やめてくれだったのか、もっとだったのか、あるいは別の希(のぞ)みがあったのか。ヤンの口と舌と喉はもう役立たずに、呼吸と喘ぎの境い目もなく、ヤンが知覚できる言葉はシェーンコップの名前だけだった。
 ヤンの指を咬んで、シェーンコップも自分の声を塞いで、それでも瞳の熱は隠せずに、あるいは隠すこともせずに、ヤンを真っ直ぐに見下ろしていた。
 後ろからなら、表情を隠せる。眼の前のシーツなり枕なり、思う存分噛んで、声を殺すこともできた。そうして、ヤンは自分の中で暴れ回る嵐を制御することもなく、だらしのない自分の姿を恥じることもなく、躯の奥をこすり上げる熱に自分の熱を合わせて、全身の血の沸騰する酔いに溺れることもできた。
 反った背中が痛み、体を支える膝と肩が痛み、正気は苦痛に薄められて、苦痛は熱に溶かされて、正気を失った自覚も失った頃に、ふと外れた躯を返されて、真正面にシェーンコップが見えた。その時指を噛んだのか、ヤンは覚えていない。
 ゆっくりと再び繋がる躯がまだ浅く、ヤンは知らずに自分が動き始めていた。下から、躯がもっとと勝手にねだって、喉は言葉を発する役目を忘れていたから、代わりに躯がおしゃべりをする。そうしたければ口などいくらでも回るくせに、こんな時にはヤンの脳はそのためにはまったく動かずに、首から下どころか全身すべて役立たずだ。
 それでも、皮膚の下、熱された粘膜だけはシェーンコップを覚えていて、もっと、と勝手に貪りに掛かる。下腹がうねる。シェーンコップが聞こえないノックのようにそっとヤンに繋がって来るのに、ヤンは勝手に動いてシェーンコップを深々と飲み込もうとして、上でシェーンコップが、何かに耐えるように下唇を噛んだのを見逃した。
 ヤンはしばらく、ひとりで焦れてひとりで動いて、繋がっただけでろくに動こうとしないシェーンコップを、霞む視界にぼんやりと見ていた。触れ合う面積が足りずに、腕を伸ばしてもその手にだけは触れて来るのに、まだシェーンコップはヤンに寄り添おうとはせずに、焦らされているのだと気づくのが少し遅かった。
 気がついた頃には、自分でシェーンコップを出入りさせながら、こすり上げる強さも深さも足りずに、何か口走ったのだと、喉が発した音で悟る。自分が何を言ったのか、言葉は聞こえなかった。
 聞こえなくても、口にした言葉に淫らさだけは、突然開いたシェーンコップの瞳孔に理解して、ヤンは慌てて自分の口を自分の手で塞いだ。
 シェーンコップの躯が落ちて来る。触れ合った胸と肩が汗で滑り、躯の内側はそれほどなめらかではなく、ヤンがそう望んだ通りに、奥へ奥へ入り込んで来る。
 喉はもう、意味のない音だけを発し続け、シェーンコップの名さえろくに呼べなくなった。躯の中で起こる、小さな戦争。小競り合いではなかった。互いを沈めようと互いに必死に、戦いたいわけではないのに、求め続けた挙げ句にそんな流れになる。
 ヤンは勝てた試しがなく、シェーンコップも勝ったとは言い切れず、引き分けに見せ掛けて、互いに自分が敗けたと思っている。打ち負かされて、すべてを明け渡して、引きずり出されて白日の元に晒される自分の熱の在り処の、猥褻の有様をいまだヤンは受け入れられずに、だからその時も、ひどく自分の指を噛んだ。皮膚を食い破るほど強く、声を耐えるためと思いながら、真のところは、自分の素の姿への罰だったのかもしれない。
 シェーンコップだけが知っている、恐ろしく卑猥に堕ちた自分の姿。見たこともなく、そんなものがあると思ったことさえなく、開いた脚の間で何もかも晒して、シェーンコップがそれを、なぜかいとおしげに見下ろすことだけがヤンの救いだった。
 貴官は物好きだと、昼間なら上官の貌(かお)で軽口も叩ける。今は閣下と呼ぶシェーンコップの声を、ただ自分に向かうそれと聞き分ける程度の知性の働きしかなく、固く、ところどころざらついたシェーンコップの手指の触れる端から、皮膚が溶けて粘膜と神経の剥き出しになるような、生殖器と肺だけの軟体生物にでもなったように、ああ確かに自分は役立たずで、もう人間ですらないと、ヤンはシェーンコップへ伸ばす腕がその太い首に回ってやっと、自分にまだ四肢があることを認識する。
 シェーンコップにしがみつき、思う存分揺すぶり上げられて、そうして触れる皮膚の面積で、ヤンはやっと人間に戻る。熱をたたえた躯の中へすっかりシェーンコップを飲み込んで、それでも足りずに、もっと深奥へシェーンコップを引きずり込んで、負け戦でも勝ち戦でも、どちらでもいいからこの責め苦を終わらせてくれないかと、心にもないことを思う。
 消滅した理性の光が、ひと筋戻ったのは、シェーンコップがヤンの指を咬んだからだ。初めてではないそんな咬み方の、けれど確実に痕の残る強さに、ヤンは一瞬怯えた。指の1本くらい、惜しいとは思わず、それでもシェーンコップにそんなことをさせてはいけないと、奇妙に冷静に考えた。
 わたしが傷ついたら、傷つくのは君の方じゃないか。
 躯中をこすり上げられる刺激に頭蓋骨はとっくに真空になっていて、果てる感覚さえもうどうでもよく、そしてシェーンコップの歯列の食い込む痛さに、ヤンはシェーンコップをあやすように微笑んで、代わりに自分の唇を近づけた。
 咬まれた小指は疼いて痛んだ。案外固い骨に響いて、骨にひびでも入ったなら、外からは見えないシェーンコップの痕が残るなと、空の頭蓋骨の片隅で思った。
 重なった唇の間で、呼吸と一緒に、喉から発した意味のない音を交わす。何を言っているのが互いに分からず、けれど躯は馬鹿がつくほど正直に、何もかもをあけすけに語り合っていた。
 ただ欲しいと言うだけではなく、必要だと言うだけではなく、魂の触れ合う音が躯の奥から漏れ聞こえて、喉の奥へ伝わる振動にもうふたりは耐え切れなかった。
 唇がこすれ、額と鼻先がこすれ、終わったのだと躯が告げるのをもっと先へ引き伸ばして、ふたりはしばらく抱き合ったまま、躯の奥だけではなく全身に、個の人間としての感覚が戻って来るまで、頬や額や耳の辺りへ唇を寄せ合った。
 そうして、シェーンコップが、自分が咬んだヤンの小指へ唇を近寄せ、詫びるように舌の先でそっと舐めた。
 目が覚めてからずっと、ヤンはそれを反芻している。
 発した言葉や喘ぎよりももっと鮮やかに、昨夜のことを描き出す咬み痕に、これが消えなければいいのにとヤンは他愛もなく考え、疼くその小指へ、ようやく勇気をふるって唇を寄せる。
 そうしながら、はっきりと頬が赤い。熱っぽい口の中で勝手に舌が動き、シェーンコップと小さく呼んだその声音が、昨夜の響きとそっくりなことに気づいていて、そんな声をあの男以外に聞かせるわけには行かないと、ヤンは精一杯自分の舌を押さえつけた。
 つい動く唇を塞ぐために、ヤンは咬み痕の上へ自分の歯列を沿わせ、噛みつきはせずただ触れて、思い出すシェーンコップの舌の熱さで、何もかもが台無しになる。
 血の色の上がったヤンの首筋が、大きく脈打った。

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