Raw Deal
ふたりきりで、今回の作戦について話がしたいと言われ、不安を見せるグリーンヒル中尉を大丈夫だと先に返し、連れて行かれたのはシェーンコップの宿舎だった。ここが一応は自宅とは言え、ヤンのそれに比べれば──階級の差は当然だけれど──ずっと狭くて質素で、ドアを開けてすぐにベッドと言う部屋の作りは、士官学校の時の自室を思い出させる。
簡素なキッチンに小さなバスルーム、連隊長の自室がこれでは、他の隊員たちの部屋はもっと狭くて不便だろう。じろじろ見回さないようにはしながら、自分たちの専用施設があるとは言っても、要するに軍内でここに隔離され押し込められていると言った方が良さそうな、ローゼンリッターの隊員たちの様子を悟って、ヤンは内心でだけ唇を噛む。
これではああ荒れてもしょうがないなと、傷だらけだった更衣室のロッカーの扉を思い出しながら、ベッドの端へこちらを向いて腰を下ろすシェーンコップは、ヤンに向かってどこへ坐れと言うでもなく、そもそも坐る場所もないから、ヤンは仕方なくシェーンコップの前を通り過ぎ、奥の窓まで行って、窓枠へやっと腰を引っ掛けた。
「わたしに、話と言うのは。」
開いた両膝に肘を置き、シェーンコップはそこで両手を組む。軍服で隠しても、首の太さや手首の太さで、体につけた筋肉が隠せない。その手で殴られたら痛いどころじゃないだろうなと、ヤンはちらりと、向こうのきっちりと閉じたドアへ視線を滑らせた。
「別に、大したことじゃあありません。あなたの作戦については、それ以外方法はないと言う点で異論はありません。」
「うん、それはもう聞いた。」
「それ以外ない、だから実行部隊として同意する、しますが、何かあれば死ぬのは我々です。私は大事な部下たちを無駄死にさせたくはないし、彼らに対して連隊長としての責任がある。」
「そうだね、わたしにも、作戦立案者として、作戦を成功させるために最大限努力する義務がある。わたしの思う作戦成功の中には、できれば実行部隊のローゼンリッターの、誰も傷つかない、死なない、と言うことも含まれているよ。」
ほう、と、シェーンコップは遠慮もなく鋭い一瞥をヤンに投げて、唇の片端を軽く上げた。馬鹿にしている風でもあり、信じていないと言う風でもあり、あるいはこの男の言うことだから、一応本気には取ってみようかと、迷うような考えるような、そんな色も確かにあった。
「そのつもりで立てた作戦だが、実行の現場で死ぬ死なないに関しては隊員ひとりひとり、そして連隊長である貴官にすべて任せるしかない。わたしはその場にはいられないからね。」
「なるほど、現場では、すべてを私たちにお任せになると。」
「もちろんだ、わたしにできるのは、ローゼンリッターが作戦を成功させて、無事戻って来ると信じることだけだよ。」
「──信じる、ね──。」
投げ捨てるように言う、ヤンにわざと聞かせるように、ひとり言にしては大きな声だった。
「その信じるですがね、提督──。」
「何だい。」
「私を信用するについて、あなたは自信はないとおっしゃった。作戦のために、信用しなければならないからするだけだと。」
ヤンがうなずく。言い訳を許さないシェーンコップの目つきがいっそう鋭くなって、それでも口元は何となく可笑しそうに端が上がったまま、この風変わりな英雄とのやり取りを、明らかに楽しんでいる。ヤンは、次にシェーンコップが言い出すことを予想して、逆に口元を引き締めた。
シェーンコップはベレー帽を脱ぐと、ベッドの上に放り投げ、それからゆらりと立ち上がった。狭い部屋の中で、身長はあってもそれほど大きいとも思えない体がゆっくりとヤンに近づいて来る。動くと、ひと回り大きく見える男だと、ヤンは思った。視界を覆われ、部屋がシェーンコップひとりで埋め尽くされたように見える。
肩の辺りから発する威圧感が急に増し、なるほど、これがローゼンリッターを率いる男の素顔の一端かと、ヤンは悟られないように喉を鳴らす。迫力に負けて怯えた様子を見せれば、たちまち喉に食らいついて来る、殺気ではなかったけれど明らかな凄みに、ヤンはそれでも冷静さを失わずに対峙した。
ゆっくりと開いたシェーンコップの口の中に、鋭い牙が見えたような気がした。
「我々のような人間は、殴り合って信頼と言う奴を得ますが、あなたにそれをすると──」
「死んでしまうね、わたしでは。」
あっさりとシェーンコップの言葉の先を読んで、ヤンは言った。軍人としては、その点では落第生であると自認しているヤンは、今さらシェーンコップのような男にそれをはっきり指摘されたところで腹も立たない。予想はしていても、ヤンが先回りして認めてしまったことに、シェーンコップはやや毒気を抜かれたような顔をした。
威圧感が少し薄れ、力を抜いたようにシェーンコップが微笑む。
「あなたにそんなことをしたら、あの美しい中尉どのに、我々が殺されますよ。」
「だろうね。」
ヤンはつい可笑しそうに、シェーンコップの言うことを肯定してしまった。
こんな間近になると、顔の造作が整っているだけではなくて、故意に見せているらしい粗野さが失せ、妙な品の良さがはっきりと見えて来る。ただ淡い褐色と言うわけではなく、そこにほとんど紫に近い灰色の影を見出して、ヤンはシェーンコップのこの瞳の色に、誰かが流す鮮血の色の重なるところを想像した。
その赤は、今はそこに映るヤン自身の髪や瞳の暗さに覆われて、じきにヤンの視界から消える。それでも、あるはずもない血の、匂いがかすかに鼻先に立った気がしたのは、この男の皮膚に染み付いてしまったそれなのか。
ああそうだ、この男は、この手で直に敵を殺すのだと、ヤンはちらりとシェーンコップの手へ視線を流す。節くれ立った手。爪は思ったよりも短く小さく、顔の道具立ての整い方に比べると、ずいぶんと可愛らしく見えた。
ヤンの視線に気づいたように、シェーンコップが手を動かす。フォンと言う名にいかにも相応しい優美な動きにヤンはつい視線を奪われ、それが自分のベレー帽を取り上げた後で、空いた方の手から伸びて来た指先が自分のあごを持ち上げたのに、驚くよりもああなるほどと納得していた。どこまでも品の良い動きだったけれど、上官に対する振る舞いではない。ヤンは無表情に、喉を伸ばしたままシェーンコップを見つめた。
「お近づきの印に殴り合う代わりに、五体満足で戻って来る楽しみを作っていただきましょう。」
声がいっそう近づいて、額に垂れる髪がヤンの目元を覆って来る。瞳より少し色の濃い、触れると思ったよりも柔らかい髪だった。
ヤンは表情を消した。そして、ふた拍遅れて目を閉じた。
シェーンコップの唇は、その髪よりさらに柔らかかった。上品に重ねるだけの、楽しみと言うくせに欲の匂いのない、この男にとっては握手よりも意味の軽そうな、ただのかすめ合いのようだった。
これも恐らく、ヤンを試すためのことなのだろう。上官侮辱罪とでも喚くか、それこそ恐れ知らずにシェーンコップを殴るか、ヤンはどちらも選ぶ気はなかった。殴り合わないなら、こちらへ進むしかないと言うなら、それでも別に構わないと思う。ヤンにとっても、大した意味はないことだ。
唇が離れてもあごに掛かった指はまだ外れず、シェーンコップは明らかに眉を寄せてヤンを見て、ヤンは始まる前と同じ無表情でシェーンコップを見返している。
「驚きもしませんか。」
「貴官は色々とわたしを試したいようだが、時間の無駄なような気がするよ。」
「なるほど、見た目よりずっと肝の坐った方のようだ。エル・ファシルの英雄は伊達じゃない。」
やっとシェーンコップの指が外れ、ヤンは学生のような仕草で肩をすくめる。
「肝が坐っていると言う点では、貴官に勝てるわけもないと思うがね。わたしだったら恐ろしくて、上官の影も踏めない。」
嘘をつけと言いたげに、シェーンコップがはっきりと唇の片側を上げる。その影も踏めない上官とやらを囮にして、エル・ファシルの英雄とやらになったくせにと、シェーンコップの言わない声を、ヤンははっきりと聞き取った。
明らかに、ヤンに対して敵意は──今は──なくても、ヤンにいいように使われるのは真っ平だと考えているのが伝わって来る。口当たりのいい言葉など端から信じる気のない相手に、その言葉とやらを尽くす無駄を思い知っているヤンは、黙ったまま、シェーンコップの手が再び動き出すのを待った。
シェーンコップが、ため息ではなく、肺から深く息を吐いた。
「続きは、戻って来た時の楽しみにしておきますよ。もっとも、無事イゼルローンを落としてしまえば、あなたにとっては我々は用済みだ。私の信用なぞもう必要もなくなるでしょうがね。」
「──退役してしまうわたしこそ、貴官らにとっては用無しになるんじゃないのかな。」
「なるほど、お互い用無しになるのが、いちばん望ましい結果だと。」
「と、言うことになるかな。」
「そうすれば、あなたは私なんぞと寝る必要もなくなる。」
「上官と寝るのは、面倒でしかないよ、シェーンコップ大佐。」
微笑と一緒にヤンが静かにそう言ったのに、シェーンコップがどこか痛みでもするような表情を浮かべた。
取り上げたヤンのベレー帽を、シェーンコップがぎりぎり握り締めているのが見え、どうやら言うべきではないことを言ったらしいと、ヤンは口を滑らせたことを後悔したけれど、吐いた言葉は取り戻せないから、そのベレー帽を取り上げようと、シェーンコップへ向かって手を伸ばし掛けた。
シェーンコップはヤンの動きに気づくと、ヤンからベレー帽を遠ざけ、わざとらしく目の前で形を整える仕草をして、ことさらゆっくりとそれをヤンの頭へ乗せる。
「面倒かどうかは、あなた次第だヤン提督。それに、言う通り退役なさるなら、あなたは私の上官ではなくなる。」
あちこち勝手に跳ねるヤンの髪をベレー帽の下へ押し込みながら、シェーンコップはやけに丁寧にベレー帽の位置を定めた。
この男に、こんな風に触れられるのに特に心がざわめかないに代わりに、虫酸が走ると言うこともないのはどうしてだろうかと、ヤンはシェーンコップを見つめたまま考えている。
そよがず静かなままの自分の皮膚の下に、それでも赤い血がきちんと流れているのだと言うことを思い出した途端、またシェーンコップの体から血の匂いがするような気がし始めた。
その血が、決してシェーンコップ本人の血ではないようにと、思ったことを不思議に感じても、今はそれをわざわざ掘り下げることはせず、ヤンは目を伏せ自分の心に蓋をした。
「部下に送らせます。」
シェーンコップがヤンから1歩離れ、くるりと背を向けた。
連絡用端末でブルームハルトと言う部下を呼び出し、ヤンを送れと言っているシェーンコップの背中と、ベッドに残されたベレー帽を交互に見て、ヤンは自分のベレー帽へ掌を当てる。
腕の陰から、シェーンコップを盗み見て、イゼルローンは確かに落ちるだろうと予感した。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
シェーンコップはベッドに放り投げた自分のベレー帽を取り上げ、ヤンの方を意味ありげに見ながら、それを頭にかぶり直した。行きましょうと目顔で言われて、先にゆく広い背中に続き、ヤンは案内されて来た通路を元へたどる途中、ふと思い出したように足を止める。
「シェーンコップ大佐。」
2歩半先で背中が止まる。無礼ぎりぎりに、肩の上で横顔だけ向けて、シェーンコップが怪訝そうに、何か、とヤンを見た。
「さっきの更衣室を、もう一度見せてもらってもいいだろうか。」
「更衣室? 別に構いませんが。」
疑り深そうに、狭い眉の間がいっそう迫る。ヤンの頭の中を見通そうとするようなシェーンコップの鋭い視線に、けれどヤンは怯むこともない。ぼんやりとした笑みらしきものを浮かべて、茫洋とシェーンコップを見返す。
シェーンコップは、再びヤンの前を歩き出した。
まれにすれ違う隊員たちは、シェーンコップへぴしりと折り目正しい敬礼をし、その後ろを歩くヤンへは、明らかに警戒の色を刷いた視線を投げて来る。ここでは見慣れないだろう上着の形と袖の線に気づくと、彼らは必ずわずかにあごを引いた。
どう見ても、ヤンは招かれざる客だ。彼らに返すヤンの敬礼も、きっと彼らにとっては厳しさが足りず、それにもきっと反発を感じるのだろう。いつもなら髪をくしゃくしゃ混ぜる癖が出るところだけれど、それはあまりに緊張感がないなと、ヤンは上がりそうな腕を我慢して止めた。
さっきまでひしめいていた隊員たちはどこへ行ったのか、再訪した更衣室は空っぽで、テーブルの上はきちんと片付けられ、椅子も整然と並び、乱れたところのないその様子にヤンは少し驚いて、気づかれないように、傍らのシェーンコップをちらりと盗み見る。
これは、連隊長であるシェーンコップの薫陶の成果か。ヤン自身は、身の回りをきちんと整えることに長けてはいず、今は同居の養子のユリアンにすべて任せてしまっているけれど、あの、いかにも荒くれ者然とした隊員たちが、自分たちの施設をこんなにきちんと使っているのなら、そしてこれが、連隊長のシェーンコップが部下たちにそう求めた結果なら、ローゼンリッターの、部隊としての意志の統一には一片の不安も抱かなくて済む。それこそ、現場はシェーンコップに一任して間違いがない。
なるほど、とヤンはひとりで小さくうなずいて、整然とした部屋の中で、だからこそ余計に目立つ傷だらけのロッカーの扉へ、今度ははっきりと視線を流した。
蹴ったり殴ったり、あるいは何か物を投げつけたりでもするのか、ヤンはシェーンコップから離れて、ロッカーの前をゆっくりと歩き始めた。
どれにも名札がつき、扉に鍵はない。盗難の心配はしていないと言うことか。それもまた、ヤンは頭の片隅にメモをする。
思った以上に厳しく訓練され、相当に練度の高い部隊のようだと、ヤンは思った。
彼らへの評価は、この部隊を束ねているシェーンコップへ即繋がる。自分に対して油断を見せないこの男自身が、ヤンにとっては油断のならない男に違いなかった。けれど、今ヤンがシェーンコップに求めているのは人間性などではなく、イゼルローン攻略作戦を確実に成功させてくれる軍人としての能力だ。人としてのシェーンコップに不安があっても、実行部隊の隊長として優れた働きをしてくれるなら、ヤンには何も不満もないのだった。
さっきの、ヤンに対する侮辱と言ってもいい振る舞いについては、ヤン自身も知らずにシェーンコップを侮辱したらしいことと相殺だと、忘れはしなくても考える必要はないと、ヤンは今はそれを頭蓋骨のどこか端の方へ追いやった。
シャワー室からも入り口からも遠い、真ん中辺りのロッカーは人気がないのか、扉は同じように傷んでいても、名札のないものがある。ヤンはそのひとつの前で立ち止まり、
「これは誰も使ってないようだが、中を見てもいいかな。」
腕組みをして、自分のしていることを眺めているシェーンコップへ、声を投げた。
シェーンコップは腕をほどき、大股にヤンの傍へやって来ると、背中に張り付くようにしてヤンの頭越しにロッカーに名札がないのを確かめてから、どうぞ、と、あのいかにも貴族ぶった仕草で、手を差し出して見せた。
体の近さを気にして、ヤンはわずかに憮然とした表情を隠せずに、ロッカーの扉を開く。中は当然空だ。底の方に埃がたまっている様子はない。扉の内側に落書きなども見当たらない。こんなところもきちんとしている。心の中でだけ、隊員すべてとシェーンコップを称賛して、ヤンはロッカーの扉を閉めようとした。
その扉を、途中でシェーンコップが止め、何かと肩から首をねじって自分を見上げたヤンへ向かって、唇の片側を半分だけ上げる恐ろしい笑い方を見せると、強い力でヤンの背中を押した。
前へのめった体がロッカーの中へ入り、足をもつれさせたヤンを支えるように、シェーンコップはそのままヤンをロッカーの中へ押し込めてしまった。狭いそこで体を返し、何事かとさすがに怒りに近い困惑の表情を見せたヤンの眼前へ、シェーンコップの首筋が迫って来る。
ヤンひとりなら何とか入れるそこへ、シェーンコップも頭の位置を落としながら一緒に入り込んで来て、ロッカーの薄い壁と自分の体の間にヤンを挟み込んだ。
がたんと大きな音を立てて扉が閉まると中は真っ暗になり、わずかに漏れ入って来る、扉の上部に開かれた細い数本の隙間の明かりで、シェーンコップの顔の辺りは何とか判別できる。
シェーンコップのものでもヤンのものでもない、このロッカーに染み付いた、汗と埃の匂い。むせそうになりながらヤンはそれに耐えて、見えているのかどうか分からないまま、シェーンコップを凝視した。
ヤンの肩へ、額の乗る近さへ寄らなければロッカーの中へは収まれず、シェーンコップはヤンを、それを理由に抱き寄せて、呼吸の音さえさせない。
ベレー帽がずれて、足元へ落ちてしまうかもしれない、ヤンはそんなどうしようもないことを今気にしながら、気配を消しているシェーンコップに倣って、自分も黙ることにした。
腕も伸ばせない狭さの中で体を密着させて、上着の下からかすかに互いの鼓動が伝わって来る。ふたり分の体温で次第に空気がぬくまり、自分を抱くシェーンコップの腕の力の強さに、この男は間違いなく素手で自分を殺せるだろうとヤンは思った。それは恐怖でも不快感でもなく、単なる事実としてヤンの中へ染み込んでゆき、シェーンコップの求めているものの正体がまだ掴めないまま、それでも、自分に対して脅しめいたことを口にするでもなく、抱く力には手加減をしている様子がはっきりとあって、それに気づけば気分が落ち着いて来る。
冷静さを欠くと言うことの滅多にないヤンは、こんな状態で、陸戦部隊の兵士に力で抗うことの無駄を知り尽くして、こんな荒っぽいことをしながら、呼吸も乱さないシェーンコップに、感心すらしていた。
静かな、息苦しく狭い、熱っぽい暗闇で、いずれ自分と寝るつもりだと言った男に抱きしめられて、ヤンはシェーンコップの鼓動を聞き取ってそれに自分の呼吸を合わせた。これ以上、この狭い中では何もできるはずはなく、ヤンが怯えもせず、怒りも見せず、ただじっとしているのに、じきにシェーンコップも呆れてヤンを解放するだろう。
何もかも剥ぎ取ってしまえば、結局子どもの意地悪のようなこの行動に、ヤンは突然シェーンコップの可愛げのようなものを感じて、そう感じた自分を、心の中でだけそっと笑った。
そう思うと、ごく自然に体が動き、ずっと放り出したままだった腕をそろそろと持ち上げて、ヤンはシェーンコップの背中を静かに抱き返し、さらに上へ滑らせた掌を固い首筋に添え、撫でる動きをした。
ヤンがそうしてシェーンコップに触れ返した途端、シェーンコップの腕が素早く移動して、ヤンのあごを片手で掴んで来る。決して優しくはないその仕草のまま、シェーンコップは親指でヤンの唇を割り、指先を口の中へ押し込みに掛かった。
舌を押さえられ、ヤンはもがく途中に思わずその指に噛みつきそうになって、それを止める。抵抗はできた。思い切り噛めば、さすがにシェーンコップもいい加減にやめるに違いなかった。けれど、これから作戦に掛かる実行部隊の人間に、怪我をさせるわけには行かなかった。たかが指についた噛み傷でも、どんな結果を招くか分からない。司令官としてのヤンの理性が、それをさせなかった。
ヤンは口を開いてシェーンコップの指の入り込むままにさせ、代わりに、見えないだろうと思いながら、シェーンコップへ何の感情もない視線を投げた。
シェーンコップの指先から力が抜ける。ヤンの唾液に濡れたそれを、シェーンコップははっきりと自嘲の笑みを浮かべてヤンの口から抜き取り、わざとらしく手を振って見せる。
シェーンコップの腕が伸び、ロッカーの扉が開く。突然の明るさにヤンは顔を背け、先に出たシェーンコップが、どうぞと優雅な仕草で外へ出て来るように示すのに、数秒、まだ他に罠があるかと疑心を振り払えずに、ずれたベレー帽を押さえながら、ヤンはやっとロッカーから足を踏み出した。
「失礼しました。」
慇懃無礼な棒読み台詞が、扉を閉める音に遮られる。その扉を押さえたまま、
「噛み切られる覚悟だったんですがね。」
シェーンコップが横顔でつぶやく。
ベレー帽のずれを直す腕の陰から、ヤンは静かに、けれど珍しく威厳を込めて言い返した。
「大切な部下に、怪我をさせるわけには行かないからね。」
ヤンの言葉に、シェーンコップはぎゅっと眉の間を狭め、ふた拍、ふたりはにらみ合うように見つめ合った。
それから、シェーンコップは体の力を抜くように肩の位置を落とし、ベレー帽を取ると、ヤンがそうするのとそっくり同じやり方で、くるくると指先に回して見せる。それを見てヤンが微笑んだのを確かめると、再びベレー帽をきちんとかぶり直して、
「ぜひとも作戦を成功させて、五体満足で戻って来たくなりましたよ──あなたのために。」
浮かんだ笑みは、もう自嘲ではなかった。
「ぜひそうしてくれ、シェーンコップ大佐。」
ヤンはそう言うと当時に爪先を前に出し、更衣室の出入り口へ向かって歩き出す。そのヤンの背中を、シェーンコップも背筋を伸ばして追った。
歩幅の違うはずのふたりの足並みが、いつの間にかきちんと揃い、イゼルローン攻略作戦はすでに始まっているのだと、思ったのもふたり同時だった。