DNTシェーンコップ×ヤン

Raw Deal 2.5

 シトレに手渡した辞表は、一体どうなることやらと、ヤンは頭をかきむしりたい気分だった。
 今日出したあれは日付は昨日だけれど、文章自体はもうずいぶん前に書いたものだったから、やはりタイミングを逃してしまったと様々な後悔をして、空ろにエレベーターの天井へ向かって喉を伸ばす。顔の位置を元に戻して、ヤンは深々とため息をついた。
 エレベーターが停止し、左右に開いた扉が見せた人影に、ヤンは驚いた。
 「これは閣下。」
 「大佐。」
 この声で閣下と呼ばれるのに馴染めず、自分を見て妙に嬉しそうに微笑んだ、いつ見ても惚れ惚れするように美しい造作の男──ローゼンリッター連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ──へ、ヤンは戸惑いを込めて声を返す。
 シェーンコップはするりとヤンの隣へ肩を並べ、
 「もしかして、辞表を提出に見えたのですか。」
 ためらいもせずに踏み込んだ質問をして来る。退役の話は、イゼルローン攻略以前にしているのだからその推察はもっともだけれど、触れられたくない部分と言うのを察してくれないかと、ヤンはこの部下の鋭さと遠慮のなさに内心でうんざりした。それでも本音はきちんと苦笑で隠して、どうもすんなりとは受理してもらえないようだと、肩をすくめながら言い返しておく。
 シェーンコップはそのヤンの仕草をそのまま写して、
 「軍部があなたを手放すはずがありませんよ。」
 可笑しそうに断言した。だろうなと、素直にヤンは思い、ふたりは同時に、似たような笑みを浮かべて言葉の間を埋めた。
 シェーンコップが、まるで打ち明け話でもするように、不意に声を低める。
 「真面目な話、私は提督のような方には軍に残っていただきたいですな。」
 この男から、真面目などと言う言葉が出て来るとは思わず、ヤンはちらりと隣りへ横目で視線を流した。端正な横顔には、相変わらず淡い笑みが刷かれたままだ。
 その唇が、流れるように、司令官としてのヤンへの褒め言葉を紡ぎ始めて、ヤンは表情を変えないようにシェーンコップを盗み見ながら、こんな世辞を並べるような男だったかと、ついさまよいそうになる視線を止めた。
 褒めながら、どこかヤンをからかうような響きを隠さずに、けれどそれが何となく敬愛と読み取れるのは、ヤンの立てた無茶な作戦を実行し、まんまと成功させたこの男への、作戦以前よりもずっと確かになった信頼感のせいなのか。世辞とは受け取っても、阿諛追従とは思わない自分の胸中へ、調子の乗るなよと、ヤンは自戒の言葉をこっそり吐いている。
 あなたの元にいれば生き残れそうだと、先の作戦で死んでもおかしくなかった男が、愉快そうに言う。
 「私は、自分の人生の終幕を老衰死と決めているのです。」
 今度はシェーンコップがヤンを横目で見て、軽口そのままの声の軽さで言い添えた。
 芝居掛かった仕草で手を振り、150まで生きて、くたばる時には家族に厄介払いができたと嬉し泣きさせてやるのだと、心から楽しそうに言うのを半ば呆れながらヤンは聞いて、同時に、以前感じたこの男の奇妙な可愛げを再び感じて、そう言えばここも閉鎖された空間だと、ふっと数ヶ月前に意識が飛ぶ。
 シェーンコップの私室、真っ暗なロッカーの中、動くと体の大きさの増すこの男は、今はその筋肉を軍服の中に隠して、適切な距離──それでもやや近いとヤンは思った──を取って、ヤンの傍らにいる。
 イゼルローンを、ヤンがそう計画した通りに見事に落とした度胸と手腕と、彼が害意を持ってヤンに対せば、一瞬でヤンは命を落とすだろう。それはこの男に取っては、赤ん坊の手をひねるより簡単に違いなかった。
 そんな男が、ヤンと言う男をほとんど称えるように褒め、軍に残れと言う。自分が生き延びたいから、ヤンの傍へいたいのだと言う。一体どこまで本気なのだろうかと、ヤンは心の片隅で考えていた。
 狭い空間でふたりきり、ここにあるのは、確かに互いへの信頼だ。上っ面の言葉で飾られたそれではない、賭けとしか言いようのない作戦を共に成功させたふたりの間に、ごく自然に、ごく当たり前に生まれた信頼だった。
 ヤンはもう、シェーンコップの無礼のことを忘れていたし、ロッカーに自分を閉じ込める──シェーンコップも一緒に──と言う、この男に似ない子どもじみた悪戯へ、あの時も感じたように可愛げしか感じてはいず、そうして、ここは白っぽく明るいエレベーターの中だと言うことを意識しながら、他に誰もいなければふたりでは広過ぎるくらいだと、なぜかそんなことを今考えている。
 害意や悪意を、そのつもりなら即座に殺意に変換できるだろうこの男へ、ヤンはなぜか恐怖を抱くことはなく、シェーンコップが恐らくヤンを妙な男だと思っているのと同じほど、ヤンもシェーンコップを不思議な男だと思っている。
 ヤンは、今喋り続けているシェーンコップの口を塞ぎたいと思った。耳に心地良い声と言葉ではなく、沈黙のまま、この男と一緒にいる方がいいと、なぜか思って、自分がそう思う理由が分からずに、ロッカーの暗闇の中でただ抱き合っていた時のことを思い出している。
 上着のこすれる音と、互いの呼吸の音と、心臓の鳴る音を聞いたような気がする。愉快な記憶のはずもないのに、思い出そうとすれば鮮明にすべてが思い浮かび、あのロッカーに比べればだだっ広いこのエレベーターの中で、ヤンの半分だけがあの闇の中へ連れ戻されてゆく。
 そうして、元々の最初から、誰も死なずに作戦が成功すればいいと願っていたそれ以上に、この男に傷ついて欲しくなかった自分に突然気づいて、ヤンはシェーンコップには決して悟られないように、自分に対する不審で眉を片方そっと上げる。
 なんだ一体。
 作戦のために、帝国生まれの祖父の形見を駄目にさせてしまったと言うことに対する負い目か。弁償など求めていないと言うくせに、しっかりと報告書の中に書いたのは、それをいずれは見るだろうハイネセンの上層部──半個艦隊でイゼルローン攻略と言う、そもそもの無茶を言い出した──への当てつけに間違いなかったけれど、ヤンから回る正式の報告書からその旨は削除し、ただヤン個人はそのことを決して忘れないと言った時の、シェーンコップの灰褐色の瞳によぎった、あれは確かに驚きだった。
 報告はしないと言うことにだったのか、ヤンは忘れないと言ったことに対してだったのか、どちらと確かめもしなかった。確かめれば、それはもう底なし沼に足を突っ込んだも同様だったからだと、今になってヤンは思い知っている。
 ヤンはまた、あのロッカーの闇の中に戻り、無言で自分にただ触れていたシェーンコップの、ぶ厚い筋肉の下の心臓の響きを思い出している。
 言葉の存在しなかった、あの近さ。言葉を武器にするヤンのそれを封じた、あの暗さと熱さと静けさ。決して無音ではなかった。けれど様々のことを惑わすヤンの言葉を無言で塞いだ、近々と寄ったシェーンコップの肩と首筋。
 この男に向かって、言葉を弄するのは無駄だと思うのはなぜだろう。今、この男が、純粋な善意か揶揄かある種の悪意かでヤンへの賞賛を語るのを、ヤンの半分は素直に心地好く聞き、もう半分はその言葉自体を空しいものと聞き取っている。
 互いがやり合った言葉の数々を思い出して、この男と交わしたいのは言葉と言う、際限なく飾ることのできる、不確かなものではないのだと、ヤンはそう思いながらそっと目を伏せた。
 「壮絶な戦死など趣味ではありませんでね、ぜひ私をそれまで生き延びさせて下さい。」
 ヤンが聞いていようが聞いていかなろうか構わない、自分がただ言っておきたいだけだと言うように、選んだ語彙の割りにはうきうきした調子で言い切り、シェーンコップは再び開いた扉から、長い足を持て余すような歩き方で出て行った。
 ヤンはその広い背をぼんやり見送り、ベレー帽を取って、手の中に握り締めたい気持ちになった。
 ひとりになったエレベーターの中が無限に広いように感じられ、その白々とした無機質の明るさに何もかもをさらけ出されてしまったような心持ちで、150年かと、声に出してつぶやいている。
 そうだ、あの男の壮絶な戦死など、自分も求めてはいない。あの男だけではなく、誰の戦死も求めてはいない。有象無象の誰彼の中に、あのシェーンコップの顔がひとつ増えたと言うだけのことだ。
 ヤンはベレー帽を押さえて、その腕の陰から自分の隣りを盗み見た。それからはっきりと顔をそちらに向け、シェーンコップが立っていた辺りへ、足元から頭のてっぺんへ向かってゆっくりと視線を動かす。
 いつも、挑むように自分を見つめる、肉食獣のような目。今はないそれへ、ヤンは闇色の目を凝らし、消えてしまったシェーンコップと見つめ合う。
 そうしてふと、ヤンの鼻先に、シェーンコップが残したらしいコロンの香りが漂って来た。
 ロッカーの中では、この匂いはなかったなと、ヤンはまた顔の位置を正面に戻し、それから、長い瞬きをしながら、その残り香を胸の奥まで届くようにひと息深く吸った。

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