シェーンコップ×ヤン in ヴァルハラ

一緒に読書

 紅茶はいるかと訊いたら、本に夢中のヤンは生返事にいらないと言う。珍しいと思いながら、本当にと問いを重ねることはせず、シェーンコップは自分の分のコーヒーだけを淹れた。
 読書と本に嫉妬したと言うわけではなかったけれど、コーヒーを片手にソファへゆき、寝転んで本を読んでいるヤンを片手で抱き起こして、自分がソファの一部になるような形に、シェーンコップは自分の胸にヤンを抱える。
 ヤンは何だとぶつぶつ言いながらも、本からは目を離さずに、寄り掛かっていたクッションの代わりに今はシェーンコップの胸に背中を預けて、胸元に引き寄せた膝に開いた本を乗せている。
 シェーンコップは淹れたばかりのコーヒーの香りを楽しみながら、ヤンの髪を撫で、読むと言うわけではなく、ヤンの肩越しにページの字の並びを目で追った。
 男の名がふたつみっつ、固い文体の、肩肘張ったような会話文がところどころに見える。殺されただのナイフでだの、なるほど、殺人事件の謎解きなのか、そうすると、読み取れる名前は警察の人間かそれとも犯人か、被害者の身内か。そんな風に考えながら、ヤンの読んでいる文章をなぞっている。
 普段歴史の、ノンフィクションものばかり読むヤンにしては珍しい、推理小説らしいその本の、もうページは本の厚みの半ばになっていて、読み終わったら自分も読みたいと、どのタイミングで言おうかとシェーンコップはぼんやり考えていた。
 コーヒーの香りが気になるのか、ヤンがページを繰るタイミングで背後のシェーンコップをちらりと見る。自分もやはり紅茶が欲しいと、その横顔に書いてあって、今から淹れましょうかと言ってもいいがと思うシェーンコップも、そう悟って欲しいヤンも、重ねた背と胸のあたたかさが惜しくて、そこから動く気はないのだった。
 ついにヤンが、ページを繰る手を止めて、あごの先を鎖骨の辺りへ埋めるようにしながら、
 「それ、ひと口くれないか。」
 小さな声でぼそぼそ言う。
 「コーヒーですよ。」
 しかも砂糖入りだ。シェーンコップが驚いて言うと、ヤンは唇を尖らせて、
 「分かってるよ。」
 「紅茶ならすぐお淹れしますよ閣下。」
 今すぐヤンをどかせて立ち上がる素振りを見せながら、シェーンコップが真顔で言う。ヤンはそれに首を振って、
 「ひと口でいいんだ。」
 そこまで言うならと、シェーンコップはコーヒーのマグをヤンの顔の前に差し出し、それを受け取るヤンの代わりに、空いた手で本を押さえてやる。
 ヤンは、一体コーヒーが欲しかったのか、マグで手をあたためたかったのか、すっかり膝の上の本をシェーンコップに任せてしまって、両手の中にマグをすっかり包み込み、縁に触れさせた唇を離しもしない。
 本に嫉妬の次は、コーヒーマグかと、シェーンコップは内心で自分に向かってやれやれとため息をつき、
 「次のページに行く時は教えて下さい。」
とだけ、平たい声で言った。うん、とヤンがそのままの姿勢でうなずく。
 シェーンコップの長い腕が後ろから伸びて、ヤンの目の前に本を開いている。シェーンコップの淹れた、シェーンコップの飲んでいたコーヒーを手に、ヤンはまるで生まれたての、母親の体温を見つける以外何の能もないけものの仔のように、シェーンコップの体温を背中に感じながら、文字通りの首から下──今では上も──は役立たずになって、それを自分を甘やかすばかりのシェーンコップだけのせいにしようとする。
 泥水みたいなコーヒーをわざわざ飲むのはその罰だと、思うくせに、シェーンコップの淹れたコーヒーなら飲んでもいいと、舌の根も乾かないうちに考える。
 君はわたしを駄目人間にする。それを選んでいるのはわたし自身だとしても──。
 ヤンはまたひと口、シェーンコップのコーヒーを飲んだ。
 「いいよ、めくって。」
 ヤンが言うと、シェーンコップの指が優雅に動いて、乾いた音を立てて本のページが進む。読書する姿すら優美になりそうな後ろの男へ、ヤンは嫉妬のような、あるいはある種の感嘆や賞賛のような、色んな感情がややこしい割り合いで混ざった気持ちを味わって、このコーヒーと同じ味がすると思いながら、またひと口。
 コーヒーを取られて口淋しいのか、シェーンコップは鼻先をヤンの髪に埋めて来る。ごく淡く、石鹸の香りのするヤンの髪へ、シェーンコップはこっそり口づけた。
 「次。」
 ヤンが言うと、
 「ちょっと待って下さい、まだ最後まで行ってない。」
 シェーンコップが抗議するように言って来る。
 「え、君も読んでるのかい、途中からなんて、話が分からないだろう。」
 ヤンが驚いて、ついでに決めつけるように言うと、
 「話は分かりませんがね、字を、貴方と一緒に追うのはそれなりに楽しいですよ。」
 「・・・いいよ、君が終わったらめくってくれ。」
 シェーンコップを、ソファ兼書見台──おまけに、ページまで繰ってくれる──扱いしているのに気が咎めたのか、ヤンはさすがに声をちょっとひそめて薄い肩をすくめた。
 コーヒーを返せとも言わないシェーンコップが、ヤンの内心を、縮めた肩に読み取ってひそかにそれを面白がりながら、また同じように麗しい仕草でページを繰る。
 「貴方は、字を読むスピードが早いですからな。」
 「・・・たまたまだよ。」
 「何なら、帝国語の本でも探して来ましょうか。」
 シェーンコップが、ヤンには見えないのを承知で、例の人の悪い笑みを浮かべた。
 「──子ども向けの絵本くらいならいいよ。」
 ヤンが面白くもなさそうに、ちょっと低めた声で答えた。
 「眠れぬ夜の読み聞かせですか、元戦争屋の引退後の暮らしとしては、なかなか乙なものかもしれませんな。」
 シェーンコップがそう茶化して言ったのを、ヤンは一体どう受け取ったのか、抱えたマグへ向かって追った首を、突然真っ赤に染める。
 一体自分が何を言ったかと、シェーンコップは思い返しながら何も思い当たらずに、昼間見るには少し忍耐のいる眺めへ、ただ驚いてうろたえた。
 ヤンはうつむいたまま、マグを傍らのテーブルへ置き、シェーンコップの手から本を取り上げて閉じ、それもマグの隣りへ置く。
 急に空になった自分の手と、ヤンの赤い首筋を交互に見て、ヤンがちらりとこちらへ見せた横顔の唇が確かに震えていて、何をしたのか見当もつかなかったけれど、シェーンコップは知らずにヤンの何かのスイッチを押してしまったのを悟った。
 俺が何を言った? それとも読んでいたページに何か書いてあったか?
 ページには、延々と殺人事件の現場の、散々に荒らされた部屋の中の様子が描写されていただけだ。小さな本棚が倒されて、本が床に散らばっていると言う風に書かれていたけれど、それと帝国語の絵本が何か関係があったのかと、過去ヤンと交わした会話の内容を一気に思い出そうとした時、シェーンコップの胸の前でヤンが体の向きを変え、そこから体をずり上げてシェーンコップの唇へ触れて来る。
 もしかしてコーヒーのせいかと、ばかげたことを考えてから、
 「──提督?」
 離れた唇の間で、問い掛けるように思わずつぶやいた。
 「黙って。」
 ヤンの掌が、押さえつけるようにシェーンコップの唇を塞ぎ、指を間に置いたまま、また唇を重ねて来る。
 突然情熱的な接吻を仕掛けられて、シェーンコップに否はあるはずもなく、ヤンを抱き寄せながら、シェーンコップはシャツの裾から忍び込ませた手をさっさと不埒に動かし始め、それをヤンが止めようとしないのをやはり不思議に思いながら、今日は多分、生まれて──死んで──以来の最良の日だと思った。
 ヤンは、ほとんど舌を噛み取るようなやり方で、シェーンコップの声と息を盗み、暗闇で聞くシェーンコップの声をつい思い出す自分を必死で止めようとしている。
 これからは多分、どんな本を読む時も、頭の中では文字がすべてシェーンコップの声で再生されてしまうだろう。
 本に触れるように自分に触れるシェーンコップのシャツのボタンを、ヤンは本のページをめくると同じ手付きで、ひとつびとつ外し始めた。
 ふたりが殺した声の代わりに、ソファがぎしぎし鳴り続けている。

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