赤の枷
たまには、そんな気分になることもある。自分に少しばかり驚きの目を向けている男を見上げて、ヤンは改めてその唇を自分の唇で塞いだ。びくともしないはずのシェーンコップの厚い体は、ヤンに押されて素直に後ずさり、壁に押し付けられても抗いもせずに、不意に露わになった上官の欲情に、淡い茶の瞳に紫の影が差すのは、自分もそれを煽られている証拠だ。
ヤンに押し倒される振りで、ずるずると壁に背中を滑らせ、ヤンを自分の上に引き寄せながら床に倒れ込む。ずれたり外れたりしながらも続くままの接吻は、時折ぶつかる歯列の痛みで短く中断され、ヤンの脚を絡め取るようにして強引に割った膝の間で、シェーンコップは自分の腿でヤンの両脚の間を強く押した。
こすり上げるようにすると、ついにヤンが声を漏らして体の動きを止める。その隙に体の位置を入れ替えて、シェーンコップはヤンを自分の下へ敷き込んだ。
軽くのけ反り、ぐったりと伸びた喉へ唇を押し当てて、あごの先でスカーフを押し下げる。血の出るほど歯先を押し当てたい気持ちを押しとどめて、すでに乱れた上着を脱がせる手を急がせる。
ヤンの手も、下からシェーンコップへ伸びて、もどかしそうに体をまさぐって来る。浮かせた背から、忙しく動く肩から抜かれた上着が一緒に放り出され、主たちよりももっと近く絡まったまま床に盛り上がり、絡み続けるふたつの躯を、同じ高さから見ている。
こんなドア近くの床では、誰かが万が一入って来た時──もちろんそんな心配はないけれど──には隠れようもないと、ふと見つめ合った視線の間で合意して、ふたりはよたよたと立ち上がると、抱き合ったままベッドの方へ進んだ。
爪先が絡み合いたがるのを、唇をその代わりにして、シャツのボタンの飛ぶ音がしたのは、一体どちらのだったのか。
落としたスカーフを踏みつけて、シーツの海に飛び込みながら、シェーンコップがネクタイを緩める手を、ヤンは不意に止めた。もう前はすべて開いているシャツの襟を、巻いたままのネクタイの輪から抜き出し、そのまま肩から落とす。自分の方へ垂れて来るネクタイの先を握って引き寄せ、またぶつけるように接吻を重ねた。
ヤンの意図を悟って、シェーンコップはやっと服を脱ぎ去ってもネクタイだけは外さずに、それをあらぬ方向に引っ張ったり輪の内側へ指先を差し込んで来たりするヤンの動きを、愛技──その稚拙さすら可愛らしくいとおしい──と理解して受け入れる。
お返しと言うわけではなかったけれど、ヤンの方も、シャツは脱がせてもネクタイは外さず、こちらはシェーンコップのそれよりもずっと輪はゆるくヤンの首を巻いたまま、その赤さが薄闇で少しばかり不吉にも見えた。
動くたび、肩や胸を横切る幅広の赤は、そのまま流れる血のように見えて、厳(いかめ)しさなどかけらもない同盟軍の、軍服と言うには少々軽過ぎるデザインが、自由とやらを表しているのは明白だったけれど、首に巻く二重のそれらは、自由とやらとは裏腹のまるきり首枷のようだ。
流血の首枷。それを隠すつもりかどうか、さらにもう1枚、白いスカーフ。ご丁寧なことだと、ヤンを見下ろしてシェーンコップは思う。
今はシェーンコップの首に残るその首枷を、ヤンが自分の方へ引く。長く垂れるその先を手に巻き取り、散歩の飼い犬にでもするように、こちらだと引き寄せる。シェーンコップは、始まったと同じ従順さで、引かれるままヤンの方へ体を伏せた。
わずかに遠い唇の間で、差し出した舌先が絡む。互いに、発情期の犬のように浅く荒い息を一緒に交わして、まだ躯は繋がずに、両の掌は互いの湿った膚を探り合っている。
ヤンに触れるシェーンコップの指先は、乾いてざらついていて、時折どこかで引っ掛かるのはヤンのせいではない。装甲服や武器の手入れで使う溶剤で少々荒れたその手を、ヤンはむしろ自分の皮膚に押し付けるように促して、そうするヤンの手と言えば、書類の山と読書の習慣で、これも少しばかり乾いている。それでも荒れのない、シェーンコップに比べればやや細い指先は、触れるどこにも傷跡のあるシェーンコップの膚の、その手触りの違いや凹凸をなぞって、まるで薄闇の中で、指先ですべてを見ようとしているようだった。
暗がりでは、シェーンコップの色の淡い目の方が、物の形をより良く捉えて、見下ろすヤンの、宇宙と同じ底なしの闇色の瞳の、瞳孔の開く様をそうとは悟らせずに観察していた。
明晰さも聡明さも、ただ放り出して、ただ肉色の塊まりになって、色の違う皮膚の境いも見極められずに、絡み合った手足のどちらがどちらのものかも分からない。相手の呼吸を自分のそれと誤解しながら、寄せた耳元に響く鼓動も、ずれて交じり合って、そうして流れる血がどこかで混じり合うのだと、馬鹿馬鹿しい幸福な勘違いを分け合っている。
思考は、脱いだ服と一緒に、床のどこかに放り出されていた。
皮膚に包まれた熱。皮膚の境界をついに越えて、粘膜をじかに触れ合わせて、内臓の内側の慄えを分け合う瞬間には、反った喉を裂いて、ヤンがシェーンコップを呼んだ。
姓名の順が逆のふたりは、姓で互いを呼んでも、それを相手の名とこっそり誤解できる。親密さの表れの、名前呼びを厳格な規律が許さない中で、そのひそかな抜け道を生み出して、けれどその秘密を分け合わない照れ隠しを、まだ互いに明かしてはいない。
離れたシェーンコップの胸へ腕を伸ばし、ヤンはそこから肩へ手を滑らせる。揺すぶられながら、そうしてこすり上げられる内壁が熱く応えている自覚はないまま、白く弾ける脳の中にあるのはシェーンコップだけだった。
焦点の合わない視線を投げて、無意識にシェーンコップの喉へ両手を添え、そこに相変わらず巻かれたままの赤い輪の内側へ揃えた指を差し入れる。力強く張った筋肉の形をたどり、思いがけず鋭く尖った喉仏へ指先のひとつを押し付けて、これは急所だとぼんやりと考える。
この男が食らいつくなら、ここだ。必要なら殺すことをためらわないこの男が、今は自分に急所を晒して、両手の輪を締め付けられても逃げようもないと言うのに、首から垂れたネクタイの赤を、シェーンコップがそう思った通りに血みたいだとヤンも思って、彼の流す血に濡れる自分の手を思い浮かべた。
それは、ヤンの中には不吉な予感を呼び起こしはせずに、シェーンコップの血ではなく、別の体液に今濡れる自分の、淫らな姿を見下ろす彼の、明るい場所では見ることのない欲情に潤んだ瞳の、はっきりと開いた瞳孔をおぼろにとらえていた。
ごく軽く喉を絞め上げられた感触に、仕返しをするつもりになったのかどうか、シェーンコップは引いた躯を突然そのまま外し、ヤンの肩を返して躯を裏返す。高く引き寄せた腰から再び繋がって、シーツに吐いたヤンの声はそのままそこへ吸い取られてしまった。
シェーンコップは体は起こしたまま、ヤンのうなじへ手を伸ばし、乱れた後ろ髪の中へ指をもぐり込ませた。汗に湿った髪の、絡みついて来る手触りが指を締めつけるのに、ヤンの内側も同じようにシェーンコップに添って来る。
隙間もなく満たして、ありったけを注ぎ込んで、その瞳と同じ底なしの熱の闇へ引きずり込まれながら、ヤンの象牙色に寄った膚にまつわりつく赤へ、ふと触れたい気になって、シェーンコップはだらしなくシーツへ伸びたネクタイを指先につまみ上げた。
気管を狭めない冷静さは残して、鎖骨側へ押し下げた赤い輪を、シェーンコップは自分の方へ引き寄せた。きつくなってしまっている結び目へ指を引っ掛け、それを引きながら、ヤンを後ろから揺する。わざと頭を前に垂れて自ら首を絞め上げられながら、やや潰れたヤンの声が、割れながら少し高くなる。
血まみれの自分の手が、ヤンの首に触れる幻が見えた。自分の手指の形が、そうしてヤンの皮膚の上に残る。洗い流せば跡形もなくなるそれを、シェーンコップは少しだけ惜しいと思った。
決して実を結ぶことのない交わり。命を吐き出す、ささやかな殺し合い。小さな戦争。生身の誰も傷つけることのない、生み出すこともない代わりに、失くすものもない、ふたりの間だけの儚い闘争。
それは突然終わる。血の代わりに流した汗──だけではなく──が乾いて、平和な眠りが訪れるまで、ふたりはまだ熱い躯を寄せ合って、胸の間に挟まれて無残によれたネクタイを、ヤンがまとめて握りしめた。まるで、それが互いの一部で、いとおしむべき何かであるかのように。
今だけは、枷のように見えて枷ではなく、互いの体温にぬくもったそれを、ヤンは飽きずに手の中でもてあそび続けている。自分の首を時折締めつけるその感触を、シェーンコップは無言で楽しみ続けている。
また引き寄せられて、ついばむだけの口づけの直前に、ヤンがシェーンコップを低く呼ぶ声の合間に、汗に湿った布のこすれる音が混じった。