シェーンコップ×ヤン。

赤の軌跡

 いつもより少し、目が据わっていた。酒のせいかと思ったけれど、酔いをそうと分かるように外に見せる男ではなく、まあいいと、特に深刻にも捉えない。
 服を剥ぎ取って、全身を触れ合わせようとしたのに、ヤンがシェーンコップから腕を外し、床に落としたシェーンコップのシャツを拾い上げて袖を通し、シェーンコップの目の前でわざわざボタンを全部──上のふたつは除いて──とめた。
 それからまた床へ屈み、その手に、赤いネクタイ。ヤンのものかシェーンコップのものか、結び方の癖がわずかに違うふたりのそれらは、よく見比べなければどちらのものか分からない。
 それを手に、ヤンはシェーンコップの背中へ回った。
 「君、縛られるのは嫌かな。」
 「──上官の命令には逆らえませんな。」
 「答えになってないよ。」
 笑って言うのに、声の端がぞっとするほど冷たい。お遊びだろうと思いながら、シェーンコップは二の腕に鳥肌を立てた。その腕を、ヤンの乾いた掌が撫で下ろす。
 そうして近づけば、よく見えるシェーンコップの、傷跡だらけの体だった。どれも大抵浅いけれど、時々、致命傷ではなかったのかと思われる、長い深い傷がある。腰の近くにひとつ、これをシェーンコップに残した過去の誰かに、ヤンは喉のひりつくような嫉妬を覚えるけれど、それをシェーンコップに伝えたことはない。
 太い手首を背中に揃えてまとめて、ヤンはそれをネクタイで縛った。
 抗うと言うほどではなく、合わさった両掌と指先がちょっともがく。あくまで馴れ合いの遊びだ。
 わずかばかりのハンデ。白兵戦の名手と、首から下は役立たず。腕だけでも使えなくすれば、邪魔されずにこの男の躯を味わえるだろうと思った。
 いつだってシェーンコップは、ヤンを水の底に引きずり込んで呼吸もさせない。肺も全身も水──あるいは、シェーンコップ自身──で満たされて、ヤンは呼吸すら投げ出せるその波に溺れて、もう水面に戻らなくてもいいのにと思う。永遠に水の底にいられればいい。目を開いて、そこから透かし見る、青く染まった世界。何もかもぼんやりとゆらゆら揺れ、何ひとつ鋭さも確かさもない、水の世界。
 そこには音はない。声もない。呼吸はいずれ途絶え、血の流れる音と水の揺れる音と、混じり合って自分も水の一部になる。対する世界はない。自分はそこに含まれている。
 腕を伸ばして触れる何もかもが、水であり、シェーンコップであり、それはヤンを含む、どれと境い目なくひとつに融け合い交じり合った、それ以外は何もない世界だ。
 正面に戻り、ヤンはシェーンコップを両腕の中に抱いた。彼のシャツ越しに触れる、シェーンコップの皮膚。この皮膚と体温になめされた彼のシャツは、今はヤンの膚に直にまといついて、彼よりは少し小柄なヤンの体はシャツの中で少し頼りなく泳ぎ、腕を上げると袖が肘までめくれ上がる。
 男の体には間違いなく、それでもシェーンコップに比べれば骨の細い手首が、揃ってやや小さい指先へ進んで、今はやや湿りを帯びてシェーンコップの頬へ触れた。
 シェーンコップは、あまりこの遊びを歓迎はしていない風に、ヤンに逆らいはしなくても特に興に乗ることもなく、無表情にヤンを見下ろしている。
 それを不興がりもせず、ヤンはうっすら微笑みを浮かべて、シェーンコップに触れ続けていた。
 筋肉で張った首筋へ指を添え、固い肩と胸に触れて、あごや頬や額をすり寄せながら、シャツのボタンを押し付けるようにして、時々強くシェーンコップを抱きしめる。
 気分は乗らなくても、触れられるうちに皮膚は勝手に反応して、ヤンの手指も届かないうちに、シェーンコップは浅くなる呼吸を唇を噛んで耐えようとした。
 シェーンコップのそれを見下ろして、ヤンはまだ手指を伸ばさずに、ゆっくりと床に膝を折る。筋肉の塊まりのようなふくらはぎと膝裏、そして腿を両手で撫で上げて、手も添える必要もなく、ヤンはそれへ唇を近づけた。
 最初から全部飲み込むには、少し無理がある。開いた口の端が痛むのが嫌で、唇と舌先をただ滑らせるようにして、そこに唾液で輪郭を描いた。
 口の中、喉の奥まで充たされる感覚は嫌いではない。舌に乗せて、それが不意に質量を増すのを感じて、ヤンは一瞬目を閉じた。
 自分から仕掛けたくせに、もたもたと不様なのろさで喉の奥を必死に開いて、シェーンコップのそれを舌の上に飼う。シェーンコップの脚を抱え込むようにしながら、時折下腹へも手を添えて、腹筋の上下するのを確かめながら舌を動かしている。
 唇の間を出入りする様を、わざと見せつけるようにして、唇との間に隙間が空くと、そこから細く唾液が糸を引く。夜目の利く灰褐色の瞳には、それが映っているだろうかと思いながら、ヤンはそこからシェーンコップを上目に窺い見た。
 そこで終わらせる気は毛頭なく、腿の裏側が震え始めた頃にわざと中途半端でシェーンコップから離れると、ヤンは彼の肩を押してベッドへ倒した。
 故意に唇を拭う仕草を見せて、シェーンコップの上へ乗ると、全身の重みを掛けた。ふたり分の体重に、背中の下でシェーンコップの縛られた腕がきしむ。シェーンコップは眉を寄せて顔を歪め、わずかに、ヤンを睨むような表情を浮かべる。
 ヤンは意に介さずにシェーンコップの上でさらに体をずり上げると、シェーンコップの首筋に噛み付いた。あごの線にやや近い、跡が残れば隠すのに難儀する辺りだ。そこまで意地悪くはなれずにすぐに離れて、今度は鎖骨へ歯を立てた。今度は、ぎりぎりと、痕を残すつもりで力をこめる。シェーンコップの背が反る。ヤンを乗せていても、腕との間には距離が生まれ、それを押さえ込むように、ヤンはさらに体の位置をずらして行った。ずらしながら、何度も歯の跡を残すために噛んだ。
 半端に放り出されたシェーンコップのそれが、ヤンの腿や下腹に当たる。時々シャツの裾に巻かれて、そうして触れれば案外粗い生地にこすり上げられて、シェーンコップの喉が何度も伸びた。伸びたその喉を、ヤンはそのたび丁寧に舐め上げた。
 体からふわふわと浮くシェーンコップのシャツの中で、ヤンのそれも確かに勃ち上がっているけれど、シェーンコップの皮膚には滅多と直接は触れず、もうシャツの内側を汚し始めているのに、ヤンは自分で触れようともしない。
 シェーンコップの手指は、今は必要なかった。このシャツがその代わりをする。シェーンコップの体温を直に吸い、すっかり柔らかくなったシャツが、今ヤンを抱いている。シェーンコップの封じられた腕が、シャツに妬いているのが分かる。そうしてヤンは、自分に伸びて来ないシェーンコップの腕に焦がれながら、物足りなさで自分を煽ってもいた。
 「・・・いい加減、解(ほど)いてもらえませんかね・・・。」
 自分の腰をまたぐヤンへ、シェーンコップが下から言う。いつものように、ヤンに全身で触れたくてたまらなかった。腕の内側へヤンを抱き込んで、掌と指で、ヤンの膚を思う存分探りたかった。
 歯ぎしりするように言うシェーンコップへ、ヤンが一瞬考え込むような表情を浮かべて、それは振りだとシェーンコップに悟らせてから、
 「──だめ。」
 とっくに決まっている答えを告げる。
 「君はわたしの犬だろう。犬なら、飼い主の言うことを聞くもんじゃないのか。」
 ヤンにそう言われると、反駁する気など一瞬で失せる。犬と呼ばれるのを、心地好く聞きながら、シェーンコップは押し潰された両腕の痛さを速やかに忘れた。
 「それに、わたしがほどかなくても、君なら自分で抜け出せるだろう。」
 言いながら、ヤンはシャツのボタンを、いちばん下からふたつ、上からさらにふたつを外す。もう腹の辺りにとまったボタンはふたつしか残らず、割れたシャツの前からまだらに赤く染まったヤンの膚が見え、シェーンコップは喉を伸ばして頭をベッドに打ち付けると、叫び声でも上げたいように、大きく口を開いた。
 ヤンの指が伸びて来て、添えながら、導いてゆく。上から繋がろうと、狭さが触れて来る。ヤンにそうして扱われながら、自分を道具だと思い込むのも、この遊びのうちだと考えて、結局はヤンの求める通りに躯は応えてゆく。
 道具扱いには慣れている。今に始まったことではない。けれど、ヤンのやり方は違うと思って、シェーンコップはヤンの与える波にさらわれないように、必死で歯を食い縛った。
 道具だと言う、久しぶりの感覚。ほとんど物珍しさに近く、懐かしい感覚を思い出して、シェーンコップはヤンに、どれだけひとらしく扱われていたかを思い知る。そうだ、自分を道具だと思えるのも、犬だと言えるのも、自分が人だと言う自覚があるからこそだ。ヤンが、自分を、丸ごとの人間として扱うからだ。だからこそ、安心してひとでなしを名乗ることができる。犬でも道具でも、何にでもなれる。ヤンのためになら、何にでもなると、シェーンコップは思った。
 この位置で、そしてシェーンコップの助けがなければ、躯はいつものように沿っては行かず、それでもヤンは上から必死に動きながら、応えて来るシェーンコップに応え返して、充たされる感覚にだけ溺れてゆく。
 粘膜が熱く添ってゆく自覚だけを頼りに、動く速度を、少しだけ上げた。
 体を揺すると、シャツが膚をこする。それだけでは足りずに、ヤンは自分の掌を自分の躯に当てた。シャツ越しに、あるいはシャツの中に自分の手指を差し入れて、シェーンコップが、その様を食い入るように見ている。自分がそうしたいと、熱っぽく喘ぎながら考えているのが、はっきりと目の色の分かる。
 背中の下で、ヤンが縛ったネクタイはとっくにゆるんでいた。もう、手首にゆるく絡みつくだけのそれから、抜け出そうと思えばいつでもできたけれど、シェーンコップはそうはせずに、まだ縛られている振りで、ヤンを見上げている。
 触れられないもどかしさと、ヤンが今はそうしたくはないのだと言う希みと、狭間に落ちて、シェーンコップはヤンに酔い切っていた。犬でも道具でも、ヤンに好きに使われて使い果たされて、そうして朽ち果てるのが自分の望みなのだと思い知りながら、その果てには必ず、ヤンの腕の中でひととして死んでゆく自分の姿がはっきりと見えた。
 ヴァルハラにゆく必要もない。ヤンのために在る自分の立つ場所は、どこであろうとすでにヴァルハラなのだと、ヤンの導く通りに果てを見ながら、シェーンコップは思った。
 絡みついて来る熱へ、自分の熱を注ぎ足す瞬間を、今だけは夢見て、シェーンコップは不意に自分の方へ体を倒して来たヤンを近々と見つめて、泣きそうに潤んでいるその黒い瞳に映る自分の、魂も何もかも捧げ尽くした、空っぽの表情を見つける。
 思わず、笑みが浮かんだ。
 写したように、ヤンも微笑む。
 倒れた体を支えるヤンの手首が、顔のすぐ傍へあった。首をねじ曲げ、シェーンコップは骨張ったそれへ唇を寄せ、自分を人へ戻した黒髪の上官への感謝のために、触れるだけの口づけをする。
 ヤンはシェーンコップの頬へ両手を添えると、まだ躯を揺すりながら、開いた唇から舌を差し込んで来た。
 粘膜の熱く絡む音が、別々の場所から漏れ聞こえて来る。それに、ふたりは一緒に耳を澄ませて、シャツに隔てられながら膚をこすり合わせた。
 ヤンに噛まれた跡と、手首を縛った痕が、できれば数日消えなければいいと思いながら、シェーンコップはヤンが噛み付いて来る舌先を、もっとと言うように、さらに強く差し出していた。

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